08.泳ぐには少々つらい季節です
穏やかな秋風の吹く昼下がり、メルス王国王都から見て南に位置する大きな湖のとある岸辺には、焚火の細い煙が棚引いていた。
火の傍らにあるのは幼い子供の姿だけである。
子供は手近に積んだ枯れ枝を時折火に放り込みながら、じっと湖面を見詰めていた。
枯れ枝を取る手とは反対の手に短い杖がしっかりと握り込まれている。よくよく見れば子供の唇は小さく動いていて、絶え間なくなにかを呟いていると知れた。
ぱちり、と火が爆ぜた。
それを合図にしたわけでもあるまいが、穏やかだった湖面が大きく揺らいだ。
最初に現れたのは、白い手。空を掻いて湖面を叩き、ざばりと派手な音を立てて黒髪が水を割って飛び出した。
「――――っぶはぁ!!」
じゃばじゃばと手足を動かして湖面に浮いた状態を維持しつつ、大きな息継ぎをしたのは少女。天を仰いで空気を肺腑に満たしてから、身を反転させて岸辺へと泳ぎ寄る。子供が焚火から離れてその岸辺へと近付いたが、それに頓着せず少女は手にしていた布の塊を岸に放ってから、湖から自身を引き上げた。
ぺたりと身体に張り付くのは黒髪と肌着と細袴のみ、という悩ましげな姿の少女は、しかし草地に両手と両膝をついた姿勢のままで、げへごぶと色気の欠片も無い音を立てて水を吐くのだった。
「ぶふぇっ、草が口に入った。ぐへぇっ、ぼえぇ。虫食うとこだった。キレイに見えてもやっぱイキモノの棲家よね」
おえぇ、と更になにかを吐く素振りをしてから、少女はようやく子供に気付いたような顔をした。
「あ、ルド君ただいまー」
「……おかえりなさい、ミシリーさん」
持参していた大判の布をミシリーの頭から被せつつ、やや硬い表情のルドが応じた。
「どしたの、微妙な顔して。あ、ちゃんと『お土産』確保して来たよ?」
「えと、はい。お疲れ様です、ありがとうございます。……ちょっと、ミシリーさんの中の『女の子』の定義について認識の変更を検討してました。すみません」
「うーん? 相変わらず小難しい言い回しするねぇ、ホント子供らしくなぁい」
「はいはい、すみません。良い子じゃないからお土産の受け取りを拒否してもいいですか?」
岸に上がって早々に放り出された布の塊を一瞥してルドが僅かに身を引いて見せた。
乾いた布に包まって水気を拭っているミシリーもそれから距離を取るようにルドに身を寄せる。布の正体は潜水するのに邪魔になると靴を脱いだ代わりに怪我防止として足先に巻き付けた手拭いの成れの果て、包まれた中身は――言わずもがな未浄化の“石”である。
「いぃやぁだぁ~。こんなおっかないモノ、早々に引き取って供養しちゃってよう」
「……供養って……。とりあえずお預かりします」
幼い外見にはそぐわぬ苦笑いで濡れた布包みを取り、そっと開く。布から取りこぼさないよう慎重に開いたそこには輝くほどの滑らかな表面を持つ黒玉、その数――五つ。
「……五つ、ですか?」
「うん。びっくりよねー、複数個って言っても二、三個だと思ってたわ、あたし」
ルドの確認に、ミシリーははっきりと頷きを返した。潜った先で確認できた“石”と思われる黒玉はこれだけだった。だが、眉根を寄せたルドの表情は険しい。しばし考え込むように“石”を見詰め、決然と面を上げてミシリーを見詰めた。
「ミシリーさん、……もう一度確認して来てください」
「うえぇい!? なんで、偽物でも掴んで来たかな!?」
「いえ。でも、あとひとつ、あるはずです」
「……ルド君?」
「お願いします」
真剣な表情で繰り返すルドに、ミシリーは目を細めてその本心を見定めるような表情で応じた。
「ルド君、説明を要求する」
「…………」
「潜るのはあたしだよ?」
「……すみませんね、泳げなくて」
「そういう話じゃないよね、今。どうしてあとひとつある、って言うのか、根拠を述べよ」
ミシリーは真っ直ぐに正論を突き付けてくる。ぐっと唇を噛み締めて言葉を躊躇うルドは、しかしその瞳は確信があるように揺るがない。
「ルド君」
ふう、とわざとらしく溜息を落としてミシリーは座り込んだまま胸を張った。被っていた布がずり落ち、濡れた肌着を貼り付けた身体が露わになるという非常に色々危うい状態だが、今のミシリーにはその意識は無い。ルドが視線を空に投げたことにも気づかない。
「お姉ちゃんをちょっとは頼りなさい」
「むしろ妹と思うしかない気がしてきましたミシリーさんの言う『女の子』の中に本人は含まれないんですねちょっとは慎みを持ってください僕も一応年頃の男なんです!」
さあ頼れ、とばかりに堂々と言い放ったミシリーの発言に、頭痛を覚え始めたルドは一拍も置かずに反論していた。なにおう、と憤慨するのを宥めるついでに落ちた布をきっちり首元から巻き付けて身体を覆って、やや遠まわしに説明を切り出した。
「ミシリーさん、セインが今“石”をいくつ持っているか、覚えていますか?」
「うん? えーっと、三十くらいだっけ。全部で四十なかったよねー、今回五つも六つも拾えたら終わりも近いかな?」
首を傾げて答えるミシリーに、ルドは寂しげな笑みを浮かべて補足した。
「僕が預かっているひとつを足して、三十三個です」
「そうそう、ゾロ目……って、あれ? あといっこ、って」
「ここで六つ拾えば、全部揃います」
「うぉうっ!?」
ぎょっとして傍らに立つルドの顔を見上げる。やはり幼い外見に似つかわしくない、痛みを堪えるように眉根を寄せた、それでも微笑もうとする複雑な表情がそこにはあった。
「……他に“石”の気配があれば、セインはそちらを優先したと思うんです。それがたとえ大陸の南の端っこだったとしても、一旦この湖を迂回して向かったと思います」
「そっか、そうだよね。人生最大の悲劇に見舞われた場所だもん、忌避したいよねぇ」
納得したように頷くミシリーが、殊更軽く喋るのはルドの気分をこれ以上落とさないようにだろう。そして軽い調子のままに天を仰いで唸る。
「うぅん、でも本当にまだあるかなあ、あそこ。アレの周囲にはそれっぽいのがもう無いのは確認済みだし、アレ自体はあんましまじまじ見たいもんでもないんだけど。なんか見当付くかな、ルド君?」
「えーっと、この“石”はどんな所に?」
転がる黒玉を指したルドの問いに、すっとミシリーの表情から暢気さが抜け落ちた。
「…………この岸から潜って割とすぐの水底にですね、あの御人の御遺体がキレーに転がっておりまして。ええ、水の中でのご対面でなけりゃ、やあ昼寝ですかいと声を掛けたくなるような仰向けに軽く手足を投げだす感じで。その手足の先と頭の上の土に、半分埋もれた状態で落ちてた――というより、置いてたんだろうねぇ」
ルドはミシリーが引き上げてきた“石”を改めて確認する。いずれも、多少の差はあれど大人の親指の先くらいの大きさと評せる程度のものだ。ふむ、とひとつ頷いて首元から紐を引き出し、提げている巾着袋の中身を掌に落とす。ルドが預かる浄化済みの紅玉は変わらず鮮やかに、底の見えない輝きを返している。
「……小粒が多い、けど……あの人が持っていた“石”が多分一番小さいだろうって話だったんですよね。僕が預かっているのが、当時セインが持っていた中で一番小さいってことで、かつ、今に至るまで最小なんですけど……セイン曰く、あの人が持っていたのはこれより気持ち小さかった、って」
言って掌の紅玉を“石”の中に落とす。黒より紅の方が視覚的には膨張して見えるものだが、今落とされた紅玉は、囲う黒玉のどれよりも僅かばかり小振りに見えた。
「うぬぅ……成程、ルド君の推測とセインの記憶が正しいならもう一回りちまいのがあるはずってことね」
「です。出しててくれたらと思ったんだけど、やっぱりまだお腹にあるのかなぁ……」
「お、お腹ぁ!? えーっと、ルド君。アレは服を着ていてね? セインのお話通り腹ンとこが切り裂かれてましたが……その破れ目の辺りに引っ掛かってないか探れって話だよね?」
まさか死体の開腹して来いとか言わないよね? と笑顔を引き攣らせたミシリーに、ルドは無情にも首を振った。
「呑み込んでる訳じゃなくて埋め込んでる、って話で、半分くらいは見えてるって言ってたので、内臓までは開かなくていいはずなんですけど」
「やーめーてー!! どっちにしたって死体を切り開けって話じゃんかぁああ!!」
耳を塞ぐように頭を抱えて身を伏せたミシリーを、ルドは温い眼差しで見守った。どうこう言って騒いで見せても、案外お人好しのこの少女は潜ってくれるという確信がある。なによりそれがセインのためになるとあれば。
――なんていうか、僕とは違った形での共依存が成立してる気がするなあ。良いのか悪いのか……僕に害がないから別にいいのか。
少々黒い考えに意識を持って行かれていたから、ミシリーが言い出したことを理解するのに僅かに時間差が生じた。
「ううぅ、ルド君、戻ったらお姉ちゃんをぎゅーってしてください」
「あ、はい。――って、え、なに……っ」
うっかり応じたルドが取り消しの言葉を発するより先に、いつの間にか荷物から小刀を取り出したミシリーは再び湖に飛び込んで行った。
「……うふふ……。ミシリーさん、本気で僕を六歳児とか思ってませんよねぇ……」
取り残されてがっくりその場に頽れて呻いたルドだが、すぐに身を起こして焚火の傍に戻る。置いていた杖を取り、瞬時に術式を構成すると水面に向かって杖を振る。陽射しの反射とは違う光が湖面に現れ、沈んだ。
「ミシリーさんの守護は良し、と……変なお願いよりこういうことの確認してから潜ってほしいよねぇ」
ほとほとと岸辺に寄って、転がしたままの“石”を集めて再び焚火に戻る。腰を下ろして次に描いた術式は浄化効果付き結界、“石”を完全に隔離する。
微かに抵抗するような反応がルドには感じられたが、しかし結界を突き破って攻撃を受けることもなく、ほの白い光の中に“石”を封じた。
小さく息を吐いて湖に向き直ると、口の中でミシリーにかけた守護の術式を維持するために詠唱を続けた。




