06.暗黒に沈む己を識らぬまま
生まれたのは女。
妹だよ、と義父が抱いた赤子を見せてきた。
小さく弱々しい、善も悪もなにもない、まっさらなイキモノ。
ほわほわとした短い頭髪は、淡い淡い金色。
僅かに開いた瞳は赤みの強い茶色。
しわくちゃの顔は、それでも気の強そうなやや吊り上った目元が印象的で。
義父にも義母にも似つかない、けれど一族どころか王家も、神殿までもが諸手を上げて誕生を喜んだ存在。
この百年ほどは現れていなかった、久方振りの先祖返り。
身に秘めた魔力は、己の持つ容量を遥かに超えて。
……忌々しい。
黒に沈んだ母の形見。服越しに握り締めて赤子に呪詛を吐く。本家宗主たる義父にすら勘付かれぬほどに薄い闇が赤子を暫時包んではその身に吸われるように消える。なにも知らぬままに泣いては眠る赤子に、仄暗い満足感を得る。
……呪われてあれ。
赤子は育ち、二歳を数える頃には周囲の人間たちも異常を察した。先祖返りの外見に相応しく満ち溢れていた魔力が、その身の奥深くに押し留められて顕現しない。三歳辺りからは教育が始まるのが常であるにも拘らず、このままでは――と危惧を募らせ始める。
本家に入った時点で、一族と数えられる者は両手に足りた。北限の地ヒペリオンから離れて生まれた者は、両親がどれほど濃い血を持っていたとしても頼り無い魔力しか保有しない。魔力と判じるには怪しい、純粋な法力を持つ方が多いという話すらある。孫の代になれば完全に聖寵の者〈ディ・エンファ〉と成り下がる。
神の子〈アスカ〉の生誕の地であるヒペリオンを離れることは、その血を引く者としての誇りを捨てること。縁を切り離すこと。
それでも遠方に縁付く者が後を絶たないのは、貴族として、国を支える一員として、政略に因る婚姻が避けられないからだ。辛うじて魔力を継いだ子が領地に出戻っても、聖寵の者〈ディ・エンファ〉と番えばその子は魔力を受け継ぐことは無かった。
本家に迎えられて四年と少し、その間に一族の数は年寄りから順に、ぽろぽろと櫛の歯が欠けるように消えていた。もとより赤子が生まれるまでは未成年は己ひとりだった。次に若い者は既に三十をいくつか過ぎた女、一族には見合う男がおらず、法力持ちの聖寵の者〈ディ・エンファ〉から伴侶を迎えたが、子を授かる気配のないままに妊娠出産が限界の年齢に達しようとしていた。
……終焉はすぐそこ、無駄な足掻きをせずにすべてを己に明け渡せば良いものを。
読み書きを覚えた義妹はするすると呪文を覚えていく。魔力は更に内に籠って実践には至らないものがほとんどだが、年齢を鑑みれば覚える速度は驚異的だった。
――にいさま。この呪文はもっとみじかくなりませんか? そうしたら神官さんたちも、治癒をひつようとするひとたちも、きっとたすかると思うのです。
挙句に術の改良にまで頭を回す。いかに呪文を短く、描く術式を簡潔に、発動を容易にするかと、四つ五つの幼子が腐心する。その姿を義父は満足気に見守っていた。
その頃からだったはずだ、義父が義妹への術と剣の指導を厚くするよう指示する一方で、己にはそれらは控えめにして政治経済などの一般的な学問を深めるよう勧めてきたのは。
……気に喰わない。
義母の事故死は、純粋に事故だった。出身である王都へ、老齢で臥せった母親の見舞いに出かけた、その帰り。良い時候だからと転移術を使わず馬車を使い、川沿いの道で石に車輪を取られて転覆して放り出され、川に落ちての溺死だった。
一族の女ではなく、義父に従順で物静かな義母のことは意識に掛けていなかったから、その死は意外ではあったがそれ以上の感慨を呼ぶものではなかった。
しかし、義父の落ち込みようは激しかった。義母の棺に縋って泣き、墓前で茫洋と過ごす。娘にしがみついて、お前はどこにもいくな、と恐怖に震える。
最も目障りで邪魔だった本家宗主。その心を喰らうのに、十分すぎる隙が生まれたことに嗤い、――闇を呼んだ。
◆◆◆
とろりとした甘い蜜のような蠱惑的な声が、どろりとした怨嗟の言葉を吐く。
「……呪われたままであれば、愛してあげたのに」
成人男性の体躯をすっぽりと覆った靄の塊に、紅の隻眼が揺らめく。
「かわいい僕のセインでいれば、なにも失わなかったのに」
膨れ上がる狂気は、より深い闇を呼び出す。
「僕にすべてを差し出して大人しくしていれば、苦しまなかったのに」
ざわり、と闇が騒いで肥大する。
「一族の過失を取り繕い隠すのではなく最大限に利用すれば、すべてを得られたのに」
隻眼が、紅の双眸になる。
「……かわいいセイン。こっちにおいで。僕と一緒に居よう?」
甘い声音はそのままに、闇は極限まで膨れて結界を圧した。
セインの前に立ち塞がる形で間合いを計っていたアレイクは暫時結界の外に退いた。
闇の背後に回っていたカイルも木々を抜けて反対側の結界外に出る。木に視界を塞がれないよう位置を調整しつつ、黒い塊の向こうで姿が見えないセインたちに向けて声を上げた。
「セイン、これ流石に手が出ねぇんだけど!」
「しばらく結界に重ねてる清めの術だけで抑える! これ以外は出てこないと思うけど周囲への警戒は忘れるなよ!」
セインの通る声が応じた。僅かに切迫した感があるのは、予想外のクロッセの暴走に困惑したか、強い瘴気に気圧されでもしたのか。姿を確認できないことにカイルは僅かに苛立ちを覚えた。
「――ああ、くそっ。やっぱ結界系はもうちょっとやり込めばよかった」
が、セインの悪態が聞こえて思わず噴き出しそうになった息を飲み込む。小さな後悔を罵れる程度には余裕があると知れて安堵する。
カイルに笑われているとは思わないセインは『浄化の術式を重ねた結界はとりあえずなんとかなる』という程度で手を打ってエレアザルを発ったことを心底後悔していた。
そもそも結界術は、術者を中心に起動する方が、他者、或いは他の事物を中心に展開するより易く初心者向けだ。それを敢えてクロッセ中心にしたのは、湖に在る本体やあちら側に逃げ込まれないよう、こちら側に隔離確保するためだ。
クロッセを閉じ込めれば退避用の結界は不要だろうし、剣に浄化の追加効果を付ける術も同時に使うからと、結界ふたつの同時展開および維持という高等技術の習得は後回しにした結果が、これだ。
閉じ込めは成功している。
地道に削りはしたものの今なお健在の瘴気を前にすれば、本体――しつこいが人間であったときの本体の意で、今現在は死体だ――とその周囲にある“石”を媒介に取り込む『力』は相変わらず流れてきているようだが、魔としての本性である黒い靄の塊は結界内に留め置かれている。
けれど、仲間を守るものが無い。
ふたりとも疲労だけで怪我は無く、獣たちも異常を察して近寄りはしないだろうが、どこから魔の手が伸びるかは油断できない。魔は魔を呼ぶものだ、突如湧いて出てもおかしくない。
もっとも、『出口』は恐らく湖に開いているだろうから、心配するべきはむしろルドたちの安否かもしれないが。
「どうせなら浄化系の術を強化しておいてくれたら良かったと思うぞ。さっさと浄化して終われただろう?」
「う――、それも『とりあえずできる』で流したからなぁ」
落ち着いた様子のアレイクの言葉に、セインもひとまず後悔を呑み込む。今は、できる範囲で最大限の戦いをするしかないのだ。
「……『力』の供給が止まればなぁ」
小さな呟きは、闇に呑まれたクロッセには届かなかっただろう。結界一杯に膨らんだ魔は、禍々しい一対の紅玉をぎらつかせてセインに喰らい付こうともがいていた。闇に凝った声は徐々に明瞭さを失くし、獣の唸り声のような響きへと変わりつつある。
「こっちへ、おいで。セイン。僕と一緒に」
幾度となく囁かれてきた言葉。幼い頃は素直に頷き、差し出される手を取った。
けれど、今は。
「――無理だよ、クロッセ。貴方は私を裏切った。もしかしてという疑いに気付かないふりをしてずっと信じていたかったのに」
信じていられたなら、或いは。
脳裏を掠めた思いを軽く首を振って追い遣る。
半球状の結界は完全に闇で満たされている。みっしりと埋め尽くされた闇に、セインの力がやや押され始めていた。
「……アレイク、下がってくれ。ちょっと保たなそうだ」
セインの密やかな指示に、アレイクは黙って後退した。庇うようにセインの前に居たところから、並ぶ位置まで下がってそっと声を掛けた。視線は結界の闇から外さない。
「――どう見る?」
「結界が壊れると同時に私に向かってくるだろ。ほぼ私しか意識に無い状態みたいだから。私から離れておいてくれた方がいいかな、カイルは裏に居るから大丈夫だろうし」
「大丈夫か?」
「んー、なんとかする」
言いつつセインは首元から紅玉をひとつ抜き取った。親指と人差し指で作る輪ほどの大きさのそれは“石”の最大径。右手に軽く握り、剣を持つ左手に力を込める。使い慣れた“石”と血を媒介にした浄化の術式でならクロッセの力を相当に削ることは可能だろう。問題は、術式を紡ぐ余裕をクロッセがくれるか、――出血多量で倒れる前に決着するか、だ。
しかし結局は『なんとかする』しかない。セインの補佐をするならクロッセとの直接対決に巻き込まれないよう控えておく方がいいだろう。アレイクも僅かに頷いただけで、セインの横並びに距離を取った。
「……壊れる」
静かなセインの宣告通り、燐光を放つように存在を示していた結界が軋み、罅割れるようにして砕けた。
獣の咆哮に似た低い唸りがセインを呼び、黒い闇が痩身の少女を覆った。
「――おいで、一緒に。かわいい、僕のセイン」




