04.秋風に心で上げる鬨の声
夏の初めに足を踏み入れたときは濃い緑を繁らせていた広葉樹は、その色を僅かに褪せさせて秋の訪れを囁き始めていた。
「……もうちょい先、だったよなぁ?」
「多分、な。ただ、行動範囲は判らないからこの辺で出てもおかしくはないかな」
きょろきょろと辺りを窺いながら問うカイルに、はやり周囲に視線を走らせながらセインは応じた。
魔に堕ちたクロッセだが、湖に沈む肉体と“石”に引き留められて湖周辺にしか姿を現せないはずだ。しかし、その行動範囲は明確には読めていない。前回の遭遇地点が行動限界ギリギリの場所だったとしても、シルグルアへ行っていた二月ばかりの間に更に力を付けていれば範囲は広がっているだろう。
同じく周囲を隙なく警戒しているアレイクがふと首を傾げた。
「今更なんだが、漫然と湖に向かっていて出て来てくれるものなのか?」
「魔力駄々漏れ状態の私が歩いていて様子を見に来ない魔物だとは思わないな……」
血縁としては限りなく遠かったとはいえ義兄と呼んだ人を、今は魔物と切り捨てる。
それだけの覚悟ができている証ともいえるだろうが、アレイクは痛ましいものを見るように、ほんの僅か、眉間に皺を寄せた。しかし、なにを言えるのか。
「……ルドたちは、どうしているかな」
だから、話題を転換した。
今は別行動の、ルドとミシリー。動向が気になるのも本心だ。
「そういやセイン、えらくきっぱりルドは連れて行かない宣言したな?」
アレイクの言葉に乗ったカイルが、ひょい、とセインの顔を覗き込むように身を折って訊いてきた。
そもそも別行動を提案したのはルド本人だが、セインの術の習得状況によっては同行しようか、とも言っていた。しかしそれを却下したのはセインだ。ルドの合格点が出るまで大神殿で練習するとまで言って二手に分かれる方針を取った。
「…………気付いていないようだったから、本人には言うなよ?」
「うん?」
「クロッセに目を付けられたから、対面させたくなかった」
「う?」
眉を寄せるカイルに、セインは足を止めた。セインの方に首だけ向けていたカイルも足を止めて向き直り、様子を窺っていたアレイクも立ち止まる。
「クロッセがルドを見て、法力持ちの小さき者〈エラス・ソルア〉の男、って言ったのは覚えているか?」
「……なんか言ってたな。見ただけで種族判別できんのかよとか思った気がする」
「思うのはそこか……、まあいい。つまりは、そういうことだ」
「セーイーンー。頼むから説明!」
あからさまに苦い顔をして詰め寄るカイルと、苦笑で先を促すアレイクに挟まれて、セインは視線を泳がせた。薄い雲の流れる空はのんびりと心地よい風を送ってくる。
「クロッセが私に自分の子を産ませようとしたのは、濃い血を継ぎ、強い『力』を持つ子を――恐らくは自分の道具として使うつもりだったんだろうが――得るためだった。
小さき者〈エラス・ソルア〉は法力を血統で受け継ぐ。ユークリッドも、そう」
セインが言葉を切ったところで、男ふたりは眉間に深い溝を作り出していた。話の先が見えたからだ。
「セイン、まさか」
「ルドとの……こども、を……?」
「産ませたら面白いとか考えたんだろうな」
面白くないわ! とカイルが吐き捨てるのを、セインは視線を空に飛ばしたまま聞いていた。
「あーもー、マジで胸糞悪ぃ話だわー。とっとと息の根止めて帰ろうぜー」
「息の根はもう止まっているけどな」
「セイン……」
カイルの悪態にしれっと返すセイン、突っ込むアレイクという微妙な空気は――それが現れたため、瞬時に緊張したものへと変化した。
目測で三十歩ほど先、小道に根を張りだした大樹の根元近く。かつて見たのと全く同じ、ゆらゆらと陽炎のように揺らぐ黒い靄が徐々に濃度を上げて行く。輪郭の曖昧な漆黒の塊となったところで、それは揺らぎを止めた。昼前の明るい陽射しの中、まるで布を裏返すようにして漆黒の中から現れるのは若い男。
年の頃はアレイクと変わらない、痩身に漆黒の髪の男。紅と金に近い琥珀の虹彩異色に浮かぶ光は、夏の初めに遭遇したときよりも明らかに禍々しさが増している。
「……クロッセ」
苦々しい表情になるのはどうしようもない。セインは辛うじて、対峙する存在のかつての名を舌に乗せた。
呼ばれた男は美貌をにんまりと歪ませて応じた。
「……かわいい僕のセイン。僕と一緒においで……?」
クロッセの姿をした魔物、その細い腕は動かない。代わりに足元にぞわりと闇が湧く。揺らめきながら増殖する、黒く平たい帯状のそれ。
「断る。――死してなお彷徨う哀れな魂に安らぎを」
きっぱりと拒絶を示して、セインは手早く結界を発動させた。クロッセを中心に、三人から数歩離れたところまでを半球状の淡い光が覆う。余計な手荷物は昨夜宿を借りた集落の家に置かせてもらってきた。今携えているのは各々の武器だけだ。足元に放り出す荷はなにもなく、ただ黙って三者三様の剣を抜き放つ。
セインが更に術式を描く。三人の剣が煌めく白い光を纏うのを見て、クロッセは歪んだ笑みを消して色違いの双眸を細めた。
先陣を切ったのはカイル。双剣使いは特定の構えを持たず、だらりと両手に提げて無造作に魔物へと歩を進める。
様子を窺うようにクロッセの周囲を漂っていた帯状の闇が一斉にカイルを標的と定めて動いた。目を首を心臓を、寸分違わず狙い定めて襲い掛かるそれらを、双剣で弾き、あるいは舞うように躱すカイルは防戦一方に陥るが――それが狙いでもある。
狂気の瞳が纏わりつくカイルに向けられたところでアレイクも動いた。アレイクの標的はクロッセ自身だ。使い慣れた長剣を必要最小限の動きでクロッセの腹に叩き込む。――届く寸前で見えない障壁に阻まれるのは前回同様、だが、今回は弾かれることなく障壁に剣が喰い込んだ。
クロッセには届かなかったが、ざらりと黒い塵を撒いて一瞬だけ障壁が欠ける。
クロッセの秀麗な眉が僅かに歪む。澱んだ視線はセインに向けられた。
セインは結界を張った位置から動いていない。左手に剣は握っているが構えらしい構えは取らず、ただ立って状況を見極めている。
「……解呪……完全に?」
クロッセの唇から紡がれるのは禍々しいほどに甘く蠱惑的な響き、そこにこれまで見せなかった感情の揺らぎが微かに混じった。
「解放されたよ、完全に」
セインも静かに応じた。まだ扱いあぐねていることまでは申告しない。清めの術式を乗せた結界にクロッセを封じながら、クロッセを護る障壁を潰すこともできず、クまたロッセ自身を一息に浄化もできないという状況から、どうせ推測はされるだろうが。
攻撃してくる黒いモノをカイルが捌き、障壁への攻撃をアレイクが続ける。時折アレイクに襲いかかる闇の塊は、素早く身を入れ換えたカイルが請け負う。ふたりの剣に触れた闇が障壁が、ざらざらと塵を撒き散らしては再構築されていく。
変化の見えない攻防だが、繰り返すうちに攻撃してくる黒いモノの本数が減っていた。同時に、剣が帯びた光は弱まっていく。
一瞬視線を交わしたアレイクとカイルがクロッセから間合いを取って後ろに退いた。
セインのいくらか手前まで後退するとクロッセの攻撃が勢いづくが、三人に届く前に結界に阻まれ、一気に灰燼と帰して長さを失う。その間にセインがふたりの剣に術を重ね掛けし、剣は再び光を纏う。
長さを復活させた闇の攻撃はカイルが受ける。その脇を抜けてアレイクがクロッセへ打ち込む。
単純な攻撃の繰り返し。只管にクロッセの『力』を削ぐだけの戦いだ。
煩わしいとばかりにクロッセの柳眉が顰められた。皮肉気に歪んだ口元は、だが言葉を紡ぐことはなく閉じられたまま。
色違いの双眸は、まっすぐにセインの赤土色の瞳を射抜いていた。
◆◆◆
「……いーい天気だねぇ、ルド君やい」
「そうですねぇ、ミシリーさん」
秋の晴天、木漏れ日の下に座るふたり。さわさわと風が木々を鳴らして渡っていく。遠く開けた視界は湖面の輝きに満たされていた。
敷いた布に座り込み、早朝に取り急ぎ作ってもらった麺麭に野菜や肉を挟んだ携帯食と革袋に詰めた果実水を広げてまったりと食む。
「……あまりに平和すぎるわぁ……」
「セインたちがまだ始めてないみたいですから、僕らは動けませんよ?」
「うん、分かってる。分かってるけど……長閑だわぁ……」
魔物の本体――肉体と言うか、直截的には死体だ――が沈む淵の対岸、森の間際でのんびりとしているのは、ルドとミシリーである。
セインたちとはエレアザルを発つ際に分かれ、ふたりは大神殿から湖を越えたところに位置する転移陣を持つ神殿へ移動した。そこから湖最寄りの集落に移って世話になり、セインたちが湖に近付いた気配を確認して出かけてきた本日。
ふたりの役割は、魔物がセインたちに気を取られている間に、湖の底の本体周辺にあるはずの“石”を回収すること。
本来ならば沈んでいる側に近付いておきたいところだが、ルドの法力を感知されてこちらに仕掛けて来られると厄介だ。よって、事が始まるまでは距離を空けてゆっくり朝昼兼用の食事をしつつの待機である。
「あー……、腹が満たされると眠くなるよねー……」
「ミシリーさん……。緊張感の欠片も無いあたり、本当に太っ腹ですよね」
「なにおぅ!? あたしのどこが太いって言うかな!?」
「……精神的なものが極太です」
「ごんぶとって……!!」
やる気の無いルドの応答に更に喰い付こうとしたミシリーだが、ルドの表情が一変したのを見て口を閉じる。
僅かに眼を眇めて輝く湖面を見詰めていたルドだが、不意に息を吐くと徐に敷布の上を片付け始めた。
「……ルド君やい。始まったかね?」
「はい。行きましょう」
ミシリーも黙って畳まれた敷布などを荷袋に詰め、立ち上がりながら問えば、短く応じられた。落ち着いてはいるが、やや緊張した面持ちのルドにひとつ頷いて、ミシリーは荷袋を肩に掛けた。
「よっしゃ! 急ごうか!」
「――はい!」
力強く一歩を踏み出す。
日はまだ中天を過ぎてはいない。だが、今日は長い一日になるだろう。




