06.狭間の者を送り出す。
遅刻しました&長くなりました。
伸しかかる重みが一瞬消えて、しかしすぐに長い腕の中に捕らわれる。
恐怖に身を竦めるが、ふわりと流れた風に覚えがあった。
閉じていた瞼を慌てて開けば、一冬離れていた顔が険しい表情をしていた。
「……サ、フィ……」
呆然と呟くと、抱き締める腕の力が増した。
再び風がユフィルの肌を優しく撫でる。雪の季節にはありえない温かな風は、サフィルの〈翼〉が齎すもの。雪に片膝をついてユフィルを抱いたサフィルの背から伸びた、青と緑の混じった白い光の羽が、ユフィルを覆うように前に向かって閉じられていた。
「――なんだよ……なんで居るんだよ。なんだよその羽」
恨みがましい声は〈翼〉の向こうから届いた。そこには里長の息子しかいないはずだが、妙にしゃがれて潰れた声に聞こえた。
「ユフィルを放せよ。お前のじゃないんだろ。俺と一緒になるんだ」
紅の瞳が禍々しく見据えてくる。
敵意をぶつけられているサフィルを見上げれば、いつになく険しい表情で少年を睨みつけていた。常には黒の底に沈んでいる藍色が浮上して炯炯と輝き、里に下りる前には染めるはずの髪も地の色である深緑だ。
珍しくありのままのサフィルの姿に目を奪われたところで、光る羽の向こうから獣の咆哮に似た怒声が聞こえた。
「消えろよ、――化け物が!!」
その瞬間――少年の身から黒い影が溢れたように見えた。
◆◆◆
一冬離れていた少女の声を聞いたのは、預けた家の玄関を視野に収めたときだった。
高く鋭く、自分の名を呼ぶ切迫した声音に、なにを考える余裕もなく跳んだ。
僅か数歩で出た中央の閑地、そのど真ん中で縺れるふたつの人影。濁った気配を纏う里長の息子、そして、少年に組み伏せられた格好の少女はサフィルの――。
構図を認識するや否や、サフィルの中でなにかが弾けた。
溢れ出す『力』を一切抑えることなく跳んで少年を蹴り飛ばし、少女を腕の中に抱き込む。きつく抱き締めて〈翼〉で覆い隠し、震える温もりを確認して、ようやく僅かな安堵を得た。
だが、身を起こした少年の紅玉と化した瞳と視線を合わせた瞬間、安堵の欠片は砕かれる。
少年が纏う澱んだ風がサフィルに巻きついてきて、雪に膝をついたまま身動きが取れなくなる。かけがえのない温もりを〈翼〉で閉じ込めて魔性と睨み合った。
ユフィルの叫びに呼ばれてだろう、里のあちこちから人が集まって来る。閑地を取り囲むように集まり出した里の住人達が、サフィルの異形を見て悲鳴じみた声を上げるのと、少年がサフィルに向かって「化け物」と叫ぶのとは、ほとんど同時だった。
「――化け物が!!」
「は、羽が生えてる……っ、魔物が、里に……!」
「ユフィルが捕まってるのか?」
「里長、息子さんが襲われて――」
「化け物! ユフィルを渡せ!」
叫んだ少年から『黒いモノ』が湧いたのを見た住人はどれほどいたのか。一気に混乱の渦に陥った里の中央で、サフィルは微動だにせず少年を凝視していた。〈翼〉はユフィルを包み込んだまま、腕の力は緩めることなく。怒りに捕らわれた思考では、現状打破の方法よりも少年をいかに罰するかと、暗い想いばかりが上滑りしていく。
怒りは、化け物呼ばわりされたことに対してではない。ユフィルを欲し、ユフィルに触れ、ユフィルを怯えさせ、あまつさえ穢そうとした、そのことに対してだけだ。
「――ユフィルは、やらん」
常から低い声を更に低めて、威嚇するように少年に言い放つ。
普段より迫力のある声でも、里の民には多少なりと馴染みのある声だった。そして、光る羽を通してその顔を確認したらしい誰かが「サフィル!?」と驚愕の声を上げたことで――場は混乱を極めた。
驚愕は恐怖へ、そして嫌悪へと感情を泡立てていく。
化け物が何年も側近くに住んでいた、幼い少女を拐かして――流れていく囁きを煽るのは『黒いモノ』。サフィルの眼には、悪意に満ちて嘲笑う魔物の影がはっきりと映っていた。
逸らすことのできない視線の先では、紅の瞳を細めて歪な笑みを浮かべた少年が、一歩、一歩、ゆっくりと踏み出して来ていた。周囲を囲む里の住人達にはまだ、変色した瞳の色を悟られていない。
「……邪魔なんだよ。ユフィルは俺が貰うからさぁ……消えろよ、おっさん」
少年の言葉に、ユフィルがびくりと肩を揺らした。抱きしめる腕に一層の力を籠めれば、ユフィルも大人しくサフィルの胸に顔を埋める。ユフィルに向かって伸ばされる手を〈翼〉で叩き落とそうとしたとき――
「はい、そこまで!」
少年の足元に淡い紅の光が円を描いて彼の行動を縛った。
◆◆◆
サフィルと分かれて向かった先は集落のまとめ役が住まう家屋の裏だった。
里長の家と裏手の家の間には数本の樹が植えられていた。その小さな木立の中ほどに〈穴〉は開いていた。雪国では見ることの無い蜃気楼のように空間を揺らめかせているその〈穴〉はまだ小さく、しかし間違いなくあちらの瘴気たる黒い靄を吐き出している。
紅玉を細めて〈穴〉を見据え、両手を翳して意識を集中させれば、掌にふわりと光が集まる。微かに紅を帯びるそれがユークの『力』だ。やり方は頭の中に在る。望む効果を明確に頭の内に描き切ればその通りの術が発動した。
初めての〈穴〉封じを成功させ、ほっと息を吐いたところで集中の切れた耳が家屋の向こうでの騒ぎを拾った。
深い雪に足を取られつつ中央の閑地へ出る。
闇に憑かれた少年と、少年が求めるユフィルを抱き込んだサフィル。〈翼〉を出現させ、髪も目も生来の色そのものを露わにさせているサフィルの姿に、状況を一瞬忘れて笑ってしまう。
――感情が振り切れるほど、ユフィルが大事なのですねぇ。
有翼の者〈ヴォル・レーン〉や銀色の者〈スィ・アルジア〉が持つ鮮やかな髪色は本来、一切の染色を受け付けない。ユークの髪が染められないのも同じ理屈だ。サフィルが髪を辛うじて染めていられるのは、やはり混血だからだろう。だがそれも、秘めた『力』を全開放すれば本性が前面に押し出される。……つまりは、染めた髪も染料を弾き飛ばして地毛に戻る、と言うことだ。
笑みを収めてユークは少年に両手を向けて『力』を放つ。真白の雪の上に、淡い紅の光が走って少年の足元に円陣を描く。
足を淡紅の光に拘束された少年は、ぐるりと首を回して背後に立つユークを確認するや吠えた。どこか、歓喜を滲ませた音で。
「最古の力……! 力、力だ! 与えろ、俺にその力を寄越せ!!」
少年の身体から黒い靄が、今度は周囲の民の目にもはっきりと見えるほどに湧いてユークに向かってくる。ユークは両手を前に突き出し漆黒を受け止め、しかし同時に吹き荒れた風に煽られて頭をすっぽりと覆っていた布が吹き飛ばされた。
露わになった淡い金髪と輝く紅玉、中性的で幼いながらも整った美貌に、周囲がざわめいた気配を感じたが、ユークは視線を少年から逸らさなかった。
「……神は、光なる器に闇の魂を収めるべく特殊な制約を以ってこの器を創られた。神の子たるその少年の身にも、完全な闇の欠片たる貴方にも、受け容れられる道理がありません。無謀な力を望むことなく――」
両腕に力を込めて漆黒を押し退けるようにして、『力』を行使する。
「――大人しく在るべき処へ還りなさい」
降り積もった雪を舞い上げながら送還の術式は発動し、漆黒は淡紅と白雪に呑まれてあっけなく影を消した。
きらきらと、弱い陽射しにそれでも光を返しながら舞う雪の輝きの中に、穏やかな笑みを浮かべた秀麗な面差しの子供が立ち、数歩離れたところに里長の息子が両膝を突いて宙を見上げるように放心している。
少年がゆっくりと瞬きをし、濃い茶色の瞳がユークを認識して見開かれた。
「あ、……俺、なにを……」
少年が慌てたように立ち上がってユフィルを探す。ユフィルは、立ち上がったサフィルの腕から降ろされているところだった。――サフィルの〈翼〉は消えていた。
「ユフィル! っ、――ごめん!!」
声を掛けた途端に肩を震わせてサフィルにしがみついた少女に、唇を噛み締めるようにして謝罪した。サフィルに肩を抱かれたユフィルは少年を一瞥して、小さくもはっきりと答えた。
「……オレより、サフィルに謝って。サフィルは有翼の者〈ヴォル・レーン〉って種族なだけで、化け物じゃないから」
ここに至って、サフィルを化け物と罵っていた人々もようやく、「危うかったのは里長の息子で、サフィルはユフィルを護ろうとしていた」という状況が正しいらしいと理解した。気まずげに目を彷徨わせている。
うろうろと彷徨う視線が、ふとユークに集中した。
神々しい、とはこういう姿のことか、と人々は溜息を落とした。サフィルの養い子で里長の息子の暴走を収めたと思えば、特に異端視する存在とは認識されないらしい。田舎の純朴さにユークは苦笑するしかない。
「……私は狭間の者〈リィド・アスカ〉のユーク。魔を祓う役目を負ってこの地に下りましたが、幼くか弱かったため、人として生きるすべをサフィルとユフィルに教わっていました」
意味を明確には理解していないだろう住人たちをそのままに、ユークはユフィルへと視線を転じた。
「ユフィルは、この人のお嫁さんになるのですか?」
「はぁ!?」
唇を噛み締めたままの里長の息子を指して言えば、素っ頓狂な声が返ってきた。そんな気は欠片も無いらしい。だが、アルマや里長はそのつもりだったのだろう、ユフィルの反応に頭を抱えたアルマの姿が人垣の中に見えた。
ユフィルへの淡い恋心を〈魔〉に付け込まれて暴走する結果になった少年には同情を覚えるが、とりあえずそれは脇に置いて、ユークは次の言葉を投げる。
「じゃあ、私のお嫁さんになります?」
「熱があるなら薬貰ってくるよ、ユーク?」
「ふふふ、残念です。では、サフィルのお嫁さんになりますか?」
本気ではないと即断されてむしろ正気を疑われた。容赦のなさがユフィルだと笑ってしまう。……サフィルがずっと燻っているつもりなら頂いてしまおうかとも思っていたけれど。
「なっ…………!!」
ぼん、という音が聞こえそうな勢いで顔を赤らめたユフィルを、ユークは穏やかな笑みのまま見詰めていた。人垣の中から「あぁあ、どうしてそんなおっさんを……」と聞こえたのはアルマの声だ。嘆いているような、諦めたような、複雑な声音だった。
「あ、あう……」
「うん。良かった。サフィル、泣かせてはいけませんよ?」
意味のある言葉を発せなくなっているユフィルを置いて、ユークはサフィルを見上げた。ユフィルに危害を加えられそうになったことで我を忘れるほど怒りに捕らわれていた状態からは完全に落ち着いたらしい。にっこりと満面の笑みでサフィルに告げれば、年甲斐もなく目元を染めたサフィルが苦々しい声を絞り出した。
「……うるせぇよ」
「照れています?」
「……行くんか?」
話を逸らすように問い返したサフィルに、小さく声を上げて笑ってから頷いた。
「ええ、行きます」
「え、ユーク?」
赤い顔のままにユフィルがユークを見詰めてきた。
ふわりといつもの微笑みに戻ったユークは、家族として遇してくれたふたりに、ゆっくりと頭を下げる。
「二年の間、本当にありがとうございました。私は、私の役目を果たしに行きます。
――どうか幸せに過ごしてください、サフィル、ユフィル」
「ユー、」
「ユフィルにそっくりな女の子を残してくださいね」
「……え?」
泣きそうな顔になったユフィルに向けてにっこり笑顔で言い切れば、意表を突かれたユフィルがぽかんと口を開いて固まった。サフィルは眉間に皺を刻んでいる。
悪戯が成功したような気分で、ユークはきっぱりと宣言した。
「孫か曾孫の代になるかもしれませんが、いずれ貰いに来ますから、よろしく」
笑って踵を返すユークに、最早どこからどう突っ込めば分からない、というようなユフィルの声が追い縋る。
「え、ちょ、ユーク!? なん、今からもう行くん!? ってかオレに似たのって!?」
肩越しに振り返って、笑みと共にもう一度だけ頭を下げて、ユークは雪を踏み締めて進む。
この辺境の地にまで、しかも神の置いた浄化機能の、清浄な気の出口たるこの地にまで〈穴〉が開き始めている。大陸の綻びはもう無残なものに成りつつあるだろう。温かな家族の暮らしの中にいつまでも微睡んでいたい気もしていたが、己の役割は世界の均衡の回復にある。
長い寿命を与えられている、大仕事を前に、次にこの地に戻れるのはいつになるか。
俄かに暗い思考に陥りかけたユークを、背にかけられた声が立て直す。
「ユーク――!! いつでも帰って来なよ――っ!!」
振り返らずに、だが口元には笑みを佩いて、ユークは北の果ての大地を後にした。
どうにも削りきれず長くなりました。
ほとんど見直せていないので、後日修正をかけるかもしれません…。




