03.狭間の者を包み込む。
前半、視点が現在(セイン編)になっています。
眼下に広がるのは、夏の大地。
豊かな緑の森と平原と畑。点在する小さな集落は夏のみ使われる作業用のもの、冬籠りの場である麓の集落だけが大きい。足元には無駄に大きな館と十数戸の門前集落。
ユークリッド邸の背後に聳える岩壁の頂きに立ち、セインの身体を借りたままのユークは、ゆっくりと懐かしい景色を見渡していた。
解放された『力』が安定し身に馴染むまで、と主導権を預かった身体だが、数百年ぶりの生身に受ける風は心地よく、瞼を閉じてその裏に感じる陽射しは心に染みた。
かつてと同じように崖の縁に腰掛け、岩壁の向こうに膝から下を遊ばせる。
今は濃淡のある緑と爽やかな蒼天と白い雲とが映える、彩りの鮮やかな世界だが、ユークが目覚めたとき、世界は白一色だった。
「……冬の最中でした。見上げた薄暗い空から灰色の雪が舞い降りていて……視線で追いかけると目の前にやってくる頃には真白の羽毛のようになって。ぼんやりとここに腰掛けて、ずいぶん長い時間を過ごしました。――雪が消えて、緑が燃えて枯れて、再び雪に出会って。それをもう一度繰り返したところで、拾われました」
声に出さずとも内側のセインと話すことは可能だが、なんとなく、ユークは思い出を口に乗せた。
「目覚めた時点では私はまだ『人』ではなかった。私を拾って、名を与えて、愛してくれた人たちが、私を『人』にしてくれました。
その、彼らの生きた世界です。平穏で優しく、貧しくも温かで、時に厳しく冷酷だけれど、……私にとって、とても愛おしいもの」
神が作った器はここ、断崖絶壁の淵に降ろされた。
魔の最も古き者に魂を吹き込まれたあとも、ここに居た。
茫洋とした意識の中、世界の知識は急速に脳裏に書き込まれていった。
創世の時代のことは曖昧に、魔が発生した時点からあとの世界の歴史は克明に。
――つまりは、〈魔王〉の知識と記憶を植えつけるように。
知識の書き込みに対応するためか、崖の縁に腰掛けたあと、身体は動かなかった。
溢れるほどの知識が脳裏に刻まれ、分類と整頓を終えてしばし。
瞬きを理解した。呼吸を自覚した。
動かない、と判じていた己の身体が動いていることを把握した。
それでも、ユークは動かなかった。
清明な意識の中、ただ眼下に広がる世界を見詰めた。
肉を与えた存在が創り、鼓動を与えた力が存続を希求する、世界。
――己が、存続のための礎とならねばならない、世界。
崖に座り世界を眺め続けたユークを見付けたのは、険しい崖を登り切って訪れた者。ユークが目覚めた冬から数えて三度目の冬。凍てつく風の吹き荒ぶ険しい崖道を、彼はユークを抱えて跳び下り、自宅に連れ帰って我が子のように遇してくれた。もうひとりの、血の繋がらない家族とともに。
長い時の流れの初めの方で、彼らは去って行ってしまった。
だが、彼らの血を継ぐ者たちが生きている。
世界が滅びるとき、愛した彼らの生きた証も失われる。
自己満足でしかない、独りよがりの、拙い願望。
それでも。
――失くしたくない。
この世界が在り続けることが彼らの生きた証明。
彼らと共に、己が生きていた証拠。
己が、己であるために。
ユークには、この世界が必要だった。
「……狭間の者〈リィド・アスカ〉は唯一無二の種。純粋な個体は私ひとつ。与えられた天恵は薄絹の向こうにある力を引き出して扱う。設けられた寿命はおよそ三百年。世界の歪みを正し安定させるにはそれだけの年月が必要だろうとして設定されたようですね。――実際、百年余りを大陸中の綻びを封じることに費やしました」
ふ、と息を吐いてユークは山の中腹を見下ろす。
深く繁る緑。連想されるのは、名付けてくれた少女の若草色の明るい瞳よりも、拾ってくれた恩人の髪色。
◆◆◆
「おっちゃん。そろそろ頭どーにかせんと面白いことになってんよ?」
ユフィルがそんなことを言い出したのは、ユークが彼らと過ごすようになって二月ほど経った頃だった。
首を傾げるユークを横に、サフィルは「冬の間はいいだろ、放置」とだけ返した。
「斑んなってて結構見苦しいんやけど、このイロオトコめ」
「……微妙に変な意味を含んでる気がすんのは俺の気のせいか?」
「色とりどりの男で色男」
「よし分かったユフィルの晩飯は魚ン骨だけだ。ユーク、身は全部食べていいからな」
「んぎゃ――――っ!」
「サフィルの髪は染めているのですか?」
騒ぐユフィルを置いてユークは問いを挟んだ。
サフィルの髪は深い茶色、だった。ユークがサフィルに拾われた冬の初めの時点では確かに焦げ茶色と呼べる色合いをしていたが、今は全体的に濁った色合い――苔むした古木の樹皮のよう、とユークは評する――になっている。そして、二月が経って子供の指三本分ほど伸びた根元の部分は深い緑色をしている。
「ああ。有翼の者〈ヴォル・レーン〉は結構賑やかな色味を持っとる奴が多いから、俺は地味な方だけど、そんでも聖寵の者〈ディ・エンファ〉主体の場所じゃ悪目立ちすっからな」
黒の染料を使っても濃い茶色までしか染まらない、と苦笑したサフィルに、ユークは更に問いを重ねる。
「なぜ、聖寵の者〈ディ・エンファ〉の地、それもこのような北の果てに? 有翼の者〈ヴォル・レーン〉はそもそも大陸西部から南部にかけた山岳地帯に置かれた種の筈ですが」
「ホントにお前の無駄知識はどっから来んだよ。
――住処は消えちまったよ。聖寵の者〈ディ・エンファ〉は自分らの欲に正直だぜ、領土拡大だの希少種の乱獲だの、な。俺らは見世物としては高級品らしいぞ?」
かつて住んでいた谷は、今は荒れ地と変わらない。清浄な風が絶えず吹いて、川と森に豊かな恵みを齎し、一族全てを満たし育んでくれた谷だったが、サフィルが生まれた頃にはすでに荒廃が目立ち始めていた。
「……ヒトが其々の在るべき場の境界を犯したが故に彼らも真似たのか……」
「ユーク?」
「いえ。ユフィルは北の生まれなのでしょう?」
「あ、うん。大島じゃなくて大陸ん方のな。ちっちゃい頃におっちゃんに拾われて、ウロウロした挙句ここに落ち着いたんよ」
話の矛先が自分に向いたユフィルが、一瞬戸惑ってから答えた。サフィルに拾われ、一緒に行こうと言われたときの喜びは今も胸を熱くする。だから満面の笑みでサフィルに同意を求めたのだが、サフィルは冷めていた。
「今もちっこいだろーが」
「春で十三! これから育つ!! ……そりゃ、三十目前のおっちゃんから見たら子供か知らんけどっ」
「――じゃかあしいッ」
ユフィルが付け足した一言にサフィルが両手を拳骨にしてユフィルのこめかみを攻めた。ぎゃあぎゃあと騒がしいのがこのふたりなのだとユークは既に学んでいる。自然と落ち着くまで放って置く方が下手な仲裁よりも早く静かになる、とも。
夜は三人で団子になって眠る。
炉の切られた板間の奥、本来は納戸であった小さな空間に乾草で寝床を作り、掛布を分け合うようにして包まる。冷気が忍び込む壁側がサフィルで、ユフィルを抱えるようにして寝ていたらしい。ユークが増えてからはふたりの間にユークが収まっている。端でいい、とのユークの言は、ふたりに揃って却下された。
いわく、体温が高い子供はおとなしく温石になれ、と。
「…………」
「――眠れんか?」
真っ暗闇の中、目を開けていたところで起きていると知られるはずもないのに、ユークの頭上から、低く抑えられた声が問いかけてきた。声と反対側の気配は規則正しい呼吸音のまま。熟睡しているのだろう。
ユークは首を反らせてサフィルの方へ顔を向ける。――当然、見えはしないが、方向を絞れば小さな声でも届く。
「貴方が、この地に定住を決めたのは、なぜですか?」
「……風が気持ち良かった。ここの風は澄んどる。故郷を失くしたんは十四で、大陸中流離ったけどどこに行っても風が澱んどった。人の集まる所は時々、黒いモンが見えて肝が冷えた。アレはやばい。中央付近が一番酷かった。逃げるように大陸の端をぐるっと回って――ユフィルに会って。なおさらやばい所には居られんようになって、探し探して、ここだ」
サフィルの言葉に、ユークはぽつりと零した。
「ここは清浄な気の出口、中央は――入口」
「ユーク?」
問い返すようなサフィルの声には構わずに言葉を紡ぎ続ける。
「暗く歪んだヒトの感情の澱は大陸中央の入口から流れ込み、流れるうちに解かされ温められて害の無いものとなって北限の地の出口から人の世に返る。
――今、その流れが、大陸の彼方此方で溢れている。貴方が見たという『黒いモノ』は澱そのもの」
僅かな空白、しかし隣の恩人はじっとユークの様子を窺っていて微動だにしない。
「私は、流れを正し、安定させるために、この地に降ろされた唯一のモノ」
サフィルに拾われた時点で生後二年ほど。この先の寿命は三百年と脳裏にある。
生誕の経緯を語り、そこに落ちた沈黙に耐えかねてユークは小さく呟いた。
「…………私は、ヒトとは、言えないでしょうか」
「お前は俺らの家族だ。変な考え起こすなよ、折角できた弟が居らんくなったらユフィルが落ち込む」
即答した低い声とともに抱き込まれる。――隣の少女まで一緒に抱き寄せた大きく力強い腕に、ほっと力を抜いて、引き合いに出た少女に思いを馳せる。
「ふたりは本当に想い合っていますね」
「――――――っ、ユーク……!」
口を衝いて出たのは羨望を含んだそんな言葉で。びくり、と跳ねた腕に気を払わずに思ったことをそのまま話した。
「ユフィルの言葉遣いも一人称も、貴方を真似するが故のものでしょう? 少しでも貴方と近くあるために。とてもいじらしいものですね」
「………………寝ろ」
物凄く居た堪れないような声音の、命令を装った懇願に、ユークは声を上げずに笑って、瞳を閉じた。
…と、いうことでユフィルの言葉がおかしいのはサフィルのせい。
サフィルの言葉がおかしいのは西の山の方言、ということで。
ベースは水無神の方言ですが、意味不明にならない程度に混ぜているつもりです。
読み辛かったら申し訳ありません。書いてる本人は楽しいんです…。




