02.風は大地と巡り合い、
大陸の北東部に位置する小国の西に、中央へと続く街道の宿場として栄える大きな街があった。繁栄の陰には、邪魔なものとして切り捨てられたものが多くある。
そんな、捨てられたもののひとつとして、幼い少女は道端で生きていた。
辛うじて肩や腰に引っ掛かっている、としか言いようのない襤褸を纏い、裏通りのごみ溜めを漁るようにして日々の糧を得、夜はごみに埋もれるようにして寒さを凌いで眠った。傍には同様の暮らしをしているやや年嵩の子供が幾人かいた。物心ついたときからこの暮らしだった。名前はなかった。足が速いから「かけっこ」、夜目が利くから「ふくろう」など、それぞれの特徴で呼ばれていた。少女は「はっぱ」だ。瞳が若葉色をしていたからだ。
時々、大人に追われた。汚いだの不潔だの物騒だのと罵られながら殴られたり蹴られたり、棒で打たれたこともあった。
その日の大人たちは、剣を持っていたらしい。『はっぱ』は偶々ひとりで川に行っていた。彼らは揃いの衣裳を着ていて、とてもきびきびした動きで仲間を捕まえて行ったと裏通りの大人に聞いた。教えてくれた大人がそいつらのところへ連れて行ってやろうと言って伸ばしてきた手が怖くて逃げだした。
街の端っこで力尽きた。幸か不幸か、日暮れが過ぎれば人の寄り付かない墓地の入り口だったから、諦めて目を閉じて眠りに落ちた。
目が覚めたら、知らない大人に抱きかかえられていた。
「起きたか嬢ちゃん。墓場の入り口で伸びてんの見っけたときにゃあ墓に入り損ねたんかと思ったけど。生きてたな」
反射的に逃げ出そうとした『はっぱ』だが、男の腕は少しも緩まなかった。その力に余計に恐慌を煽られて叫ぼうとした口はあっさりと塞がれた。
そして、耳元で低くも柔らかい声が、宥めるように囁いた。
「ちょーっと高いところに居るからな、暴れっと嬢ちゃんも俺もやばいから」
混乱は収まらないなりに『はっぱ』は周囲を見た。
明けきってはいないらしい仄暗さの残る視界にまず入ったのは濃い色の木葉、葉を透かした向こうに倒れ込んだ墓地の入り口が見えて、墓の群れが広がっている。現在地からはそれなりに距離があり、かつ、かなり上方から見下ろしている角度だ。
「……ぅご、うぉうえ?」
「そう、ここは木の上でーす」
くぐもった『はっぱ』の言葉の意味を、男はきちんと読んでくれたらしい。
動かなくなった『はっぱ』に安心したのか、口を塞いでいた手を離してくれたので大きく深呼吸をした。呼吸を妨げない程度に、でも決して落とすことの無いようにと腹に回された腕に妙に落ち着かされた。――木の上で、知らない大人に抱えられていて、どうして安堵できたのかは謎だったけれど。
「俺はサフィルだ。流れ者で昨夜遅くにここを通りかかってな。本当は街に入るつもりだったんだが――。嬢ちゃん、名前は」
街に入るつもりだったけれど『はっぱ』を拾ったからできなかった、ということだろう。襤褸を着た行き倒れの子供なんて孤児の浮浪児だと一目で分かる。見過ごすのは後味が悪い、だからと言って街の人間に引き渡しても果たしてまともな扱いをしてもらえるかは怪しい。
幼い『はっぱ』にもなんとなく分かった。サフィルと名乗ったこの男は『はっぱ』のために宿の布団を諦めて、木の枝と幹を寝床に決めたのだ。更には『はっぱ』に自分を布団代わりに提供してくれた。
「あ、……がと、ざいます。なまえ、『はっぱ』」
「――は? はっぱって、葉っぱか? それ名前か?」
事態を飲み込んだ『はっぱ』がたどたどしくも礼を言い、名乗ると、サフィルは大仰に驚いた。名前か、との確認に『はっぱ』がこくりと頷くと黙り込んだ。背中から抱き込んでいた『はっぱ』の身体を上半身だけ捻らせて顔を覗き込まれる。
うっすらと白んだ程度の明るさでは濃い色の髪と瞳としか分からなかったが、凛々しくも怖さは感じさせない青年の顔が視界一杯に迫った。
「うーん、なるほど。目の色が明るいんか。『葉っぱ』ってくらいだから黄緑色? でも名前にするにゃあ素気ないやな」
むう、と唸ってサフィルは天を仰いだ。
どうやら体は正面向きに直してよいようだ、と判断した『はっぱ』は彼の胸に背を預けてぼんやりとしていた。
日が完全に昇って空気が暖まり出した頃、サフィルが動いた。
「とりあえず降りっかな。目ぇ閉じて歯ぁ食いしばって。暴れんなよ、嬢ちゃん」
言って『はっぱ』を片腕で抱えて枝の上に身を起こす。次の瞬間には座り込んでいた枝から身を躍らせていた。
「――――――っ!!」
かなり高い、ということは先に確認済みだ。『はっぱ』は必死で悲鳴を飲み込んだ。叫ぶことで暴れたと見做されて放り出されては堪らない。だが、落下はすぐに止まった。代わりに奇妙な感覚が身体に訪れる。ふわりと温かい風に吹かれるような、落ちる身体を下から風に支えられるような。――浮遊感、という言葉を『はっぱ』はまだ知らなかった。
固く閉じていた瞼を思わず開く。飛び込んできたのはしがみついていたサフィルの肩から首にかけての線と、その後ろにある光。眩くも柔らかな光が、サフィルと『はっぱ』を包むように広げられていた。
大地に降り立つと、呆然としたままの『はっぱ』の眼前で、ふわりと羽ばたいた光が消え失せる。
「よっし、とりあえず飯だぁな。嬢ちゃん、川があるとこ知ってっか?」
何事もなかったかのようにサフィルが歩を進めようとしたが、『はっぱ』はサフィルの肩辺りの布を握り、手繰り寄せて背中を見ようと奮闘していた。
「――うあ、目ぇ閉じろっつったのに。嬢ちゃーん、頑張ってももう羽はないぞー。んでもって出す気もないから服引っ張るのやめーい」
サフィルの言葉に、『はっぱ』はサフィルの肩を押すようにして上半身を離し、自分を抱える青年の顔を見詰めた。――見たい。そんな、純粋な思いだけだった。
思えば、物心ついて以降、こんな他愛もない願いを抱いたことがあっただろうか。寒い、ひもじい、怖い。目覚めて眠りに落ちるまでの間に頭を占めるのはそんな本能的なことばかりで。眠りに落ちる僅かな時間に願うことは、明日は少しでも多くの食べ物を得られますように、だった。
じいっと見つめる若草色の瞳に、サフィルは柔らかな苦笑を浮かべた。濃い色だと思った髪と目は、太陽の下では濁った茶色の剛毛と、黒の底に藍を湛えた複雑な瞳だ。『はっぱ』を抱えていない方の手でがしがしと後頭部を掻いて、諦めたように息を吐く。
「あー、まあ、人がおらんからな。一瞬だぞ。そんで満足しろよ」
言うなり、サフィルの背後に光が湧いた。
白に、ほんの少し緑と青が混じる光。サフィルの背から開く一対のそれは、まるで鳥の翼のように広がり、ふわりとふたりを包んで――消えた。
「…………」
「……感想をどーぞ、嬢ちゃん」
「……、…………っ!」
『はっぱ』には今の感情を表現できるだけの語彙がなかった。ただ、ただ打ち震えてサフィルの瞳を見詰めるしかできなかった。
だが、表情だけでそれとなくは伝わったらしい。ふっ、と、苦笑ではない笑みを浮かべて、サフィルは『はっぱ』を抱え直した。
「土気色してたほっぺたを真っ赤にするほど感動してくれてどーも。んで、川はあるんかな?」
◆◆◆
種族、という言葉を覚えたのは朝飯として川で獲った魚が焼けるのを待っている間だった。世界には四つの種族が存在する、『はっぱ』はその中でも特に数が多い聖寵の者〈ディ・エンファ〉というのだと知った。
そして、『はっぱ』を拾ってくれたサフィルは、有翼の者〈ディ・エンファ〉という別の種族の血を引くのだ、と。
「言っても俺は合いの子なんだけどな。父親は聖寵の者〈ディ・エンファ〉だったんだと。ま、生まれる前におらんくなっとるからよく知らんが」
自嘲か苦笑か、歪んだ表情に、『はっぱ』は俯いて視線を逸らした。
「……嬢ちゃん、街に戻るか?」
不意に投げられた言葉に、ほとんど反射で首を横に振る。仲間はみんな連れて行かれた。街では時々、剣を持つ揃いの衣裳を纏った者たちが道端で暮らす者をどこかへ連れて行く。そうして誰も戻ってきたことはない。
「俺と来っか?」
だから、続いて与えられた言葉には一瞬だけ驚いて、しかし勢いよく首を縦に振った。良く知らない大人という括りでは街の大人たちもサフィルも同じだが、サフィルは一度も『はっぱ』を汚いと罵ったり殴ったりしなかった。
ぶんぶんと眩暈を起こす一歩手前まで頷いた『はっぱ』を見て、サフィルは楽しそうに笑った。
「そうか。んじゃあ、まずは名前が要るな。どんなんがいい?」
ぎゅう、とサフィルの服の端を握る。
「俺の名前はやれんぞー、俺のモンやから。うーん、似た名前にすりゃいいのか? ううぅーん…………ルフィア、フィリア、ラフィル、ユフィル……よし、ユフィル!」
いくつか転がした音の中ひとつを繰り返して決定した。
『はっぱ』改めユフィルはにっこりと笑った。ユフィルとしての命の始まりだった。
――半年ほどのち、術士の〈鑑定〉を受けてユフィルの年齢は六歳と判明した。恐らく春の生まれだろう、ということで、ふたりが出会った青月を誕生月に据えた。
自分の年齢というものを初めて知ったユフィルは同時にサフィルの年齢に興味を示した。サフィルがやたらと言葉を濁すのでより執着してしつこく問い続けた。結果、返ってきたのは逆ギレだった。
「二十三だよ文句あっか!」
「……なんでおこるん」
「やかましゃあ! お前から見りゃおっさんになるだろが!」
「サフィルはおっちゃんでもかっこいい」
「…………喜べんわー……」
サフィルが教育方針を間違えた、と悔やむのは、流れ流れて北の海峡を渡ってシルグルア大島に定住を決めた頃。
「おっちゃーん、オレの寝床ってここ使うていいん?」
「おう、寝床はそこ使え。一人称は『わたし』を使え」
「んじゃ布団取って来るー」
「……しれっと無視すんなや……」
聞こえない振りをして小屋の外に駆けていく少女の背中を、恨めしげな深い藍色が見送った。
ユーク編と言っておきながらまさかの主役不在。
うん、むしろこの二人を書くための章です。開き直り万歳。




