03.紅の宝玉求めて早十年
――すまない……。
死の床にある父が弱弱しい声で詫びる。
痩せこけた頬、青い顔色、罅割れた唇。ただその瞳だけがまだ生気を失っていない。
――すまない。お前ひとりに、ひどい、運命を負わせる。
どうして謝るのですか、父様?
一族のかつての過ち。世界に撒かれた災厄の種。回収し、鎮めるのは義務だ。
どうして。父様、どうしてそんな風に。
――石は、身から離す、な。
お前が手放せば、また、闇に、戻る。
震える手を伸ばし、幼い我が子の頭に掌を置く。微かにクセを持つその髪質は自分に似たのだろう。だが淡い髪色は、自分にも妻にも似ていない。
しかし、間違いなく、この髪こそが我が一族の血を引く者である証。
――すべて、この地に戻せ。
長い、時が、かかるだろう、が、必ず……。
赤みの強い茶の瞳を見た。その赤がぼやけ、すべてが混じり合う。
数百年前の、愚者らの負債を、ただ一人の子供に清算させる。
なんという非情。だがこの子にしかできない。
――すまない、セ………
辛うじて生気を残していた父の瞳から、輝きが失せる。
父様? 父様!
その骨ばかりになったような痛々しい体に手をかけ、幼い力で必死に揺さぶる
だが最早その体は力を失い、温もりを失っていくだけであった。
父様ぁ!!
◆◆◆
「――っ!」
声にならない叫びをあげてセインは目を開いた。暗闇の中、鼻先に板壁が触れんばかりの状態だった。
静かに深く息を吐き、荒くなっている動悸が治まるのを待つ。
ゆっくりと呼吸をしながら、背中にある温もりに意識を集める。
微かに触れるほど近くに、ルドの体温がある。
その優しい温もりに慰められ、同時にそれに縋っている自分が惨めになる。
ルドを起こさないよう注意して身を起こす。横向きに眠っていたせいで、体の下敷きにしていた右腕が思い切り痺れている。
血が急激に通い出すじんわりとした痛みに耐えながら、ルドの足元に座り込む。夢の残滓を溶かし流すように、ゆっくりと呼吸を意識して。
痺れが取れてから、寝台を降りる。
と、裸足の足が布を踏みつけた。摘み上げればどうやら自分の外套らしかった。掛布が薄いからとルドが掛けてくれていたのを、起き上がった時にでも落としたのだろう。
外套をルドにしっかりと被せてから靴を履く。軋む扉をできるだけ静かに開けて外に滑り出た。
月はとうに沈み、夜明け前の弱い星明りだけを頼りに宿の裏手に出る。
――あと、九つ――
胸元の紅玉に手を触れる。ひやりとした感触は、この十年、常にこの手にあった。
旅の初めにはたった三つ、屋敷に遺されていたそれらを小さな巾着袋に入れて首に下げていた。
ひとつ、また一つと数を増し、十を超えた頃、連ねて手首に巻いた。それが二連となり、やがて首にかけて余るほどの長さとなって、ようやく三十。
あと、九つ。
今、在り処として感じるのはこの王都の北の方。
その他にうっすらと感じる気配ははるか南、おそらくゼフィーア王国内ではない。
いくつか固まっているようで、距離に対して感じる気配は強めだ。
だが、辿り着くまでに目的の物が拡散し移動しないとは限らない。
セインには装飾の意図はないが、一般的に見れば貴石として扱われるこの紅玉は、人の手にあればほぼ確実に装飾品に加工されている。
そうして人から人へ、国から国へ、どこまでも流れていく。
追って探して、交渉による購入であったり、善意による譲渡であったり。そして時には剣をちらつかせながら、集めた。
ふと冷気に身を震わせる。
雪こそ解け切ったものの、この時間帯は沁みるような冷気が漂っている。
外套はルドに掛けてきたから、粗い毛織の上着までしか着ていない。さすがに長居は控えた方がいいかもしれない、と考え、ふと彼方に思いを馳せる。
――シルグルアはまだ雪が残ってるだろうから、充分暖かい方かな。
そうは思うが、幼い頃に旅立ってから一度も帰っていない生国である。知識や常識でいけば、という考えであって感慨には至らない。
思い出し、懐かしむには、あまりに幼くして離れてしまった、遠すぎる故郷。
この大陸は南の端がやや鋭角になった歪な菱形をしている。その菱形の北東の一辺は大きく抉られたように内陸に向けて湾曲する。
その湾の中、抉り取られた大陸の欠片が一つの大きな島として浮かんでいる。
島の名をシルグルアと言い、またその島を一国、シルグルア王国と呼ぶ。
大陸の北端は人の住まわぬ大氷原。シルグルアは人の住む領域としては最北に位置し、雪の季節は長く夏は短い。
今滞在するゼフィーア王国は、湾を挟んでシルグルアの南西に位置する。
気候は近くてもいいはずだが、やはりシルグルアに比せば温暖になる。
ゼフィーアの北に位置する、大陸本土における北端の国であれば、あるいはシルグルアと同等の気候だったかもしれない。
ずいぶん前に訪れた彼の地のことを思い出そうとするが、結局は子供の頃の話である。
セインは昔を思うことを諦め、今向き合うべきことを考えることにした。
◆◆◆
ルドは今日もセインの外套の端を掴んで歩いている。
昨日通った大通りに比べれば人は少ないが、この辺りを行きかう人々はちょっとばかり近寄りがたく恐ろしい。
粗野なわけではない。むしろ高貴である。
今、二人が歩いているのは街の北側、「政」の区画である。
通りを歩いているのは、身分の上下はあっても一律官吏あるいは兵士ばかりなのだ。
一般市民がいないわけではないが、それは役所へ訴えに出る者であったりその逆で召喚された者であったり、つまりは楽しく物見遊山で歩いている者はいないのである。
……僕らも観光してるわけじゃないけどさ。
小さな溜息を零してセインを見上げる。
ルドに裾を掴まれているので歩調はゆっくりだ。だが、迷いなく北の区画における中心地を目指して歩いている。
すなわち、王城に向かっている。
朝、ルドが目覚めると、セインはすでに身支度を終えていた。
相部屋で眠ったミシリーはまだ気持ちよさそうに寝台の上で丸まっていた。
宿には朝食を付けない値で泊まったので、どこかで朝食を摂らねばならない。
と思ったらセインが冷めかけの麺麭を出してきた。
早くに目が覚め、早朝の散歩ついでにウロウロしていたら、夜明けと同時に窯の火を熾し食事を提供する露店に行き当たったと言う。早くから働く人足たち向けの店であるらしかった。
匂いに刺激されたのかミシリーが目を覚まし、いいなぁいいなぁと二人の周りをウロウロした。
セインが半眼の不機嫌面を向けると、とりあえず黙った。
しばらく未練がましく二人の手にある麺麭を眺めていたが、セインが完全無視を決め込んでいるのを見取ると、諦め顔で身支度をし、朝食を摂るべく部屋を後にした。
麺麭は刻んだ肉と野菜に味付けをして小麦の皮に包んで焼いた素朴なものである。
宿に戻った時に汲んできた水で流し込んで簡素な朝食を済ませると、セインが今日の予定について話を始めた。
いわく、探し物は北、おそらく王城の辺りにありそうだから、とりあえず行ってみる。
いわく、可能性としては王城内にあるだろうから、入城できないか訊いてみる。
ルドは重い気分でセインの予定を了承した。
共に旅すること数年。ルドは、セインのこの「訊いてみる」は、状況によっては容易に「力尽くで押し入る」へと変換されうることを正確に理解していた。
ミシリーが朝食から戻るのと入れ違いに宿を出た。
この後どうなるか分からないからと、荷はまとめて持っていく。宿の清算を済ませ、念のため今夜も泊まれるかの確認をする。
親爺は、同じ客とまた相部屋でいいなら空けておくと言ってくれた。
確約の無い客に、部屋を確保するのは相当の好意と言えたが、ミシリーとの相部屋でもう一泊、というのにセインは渋面を隠さなかった。
そんな朝の一幕を回想しつつ、無言で長い長い城壁沿いに東西を横断することしばし。
セインはきっぱりと、探し物は敷地中央の奥、王の住まう居城空間のどこかだと宣言した。