10.薄闇と不安を混ぜて魔は出でる
「――魔が、湧く?」
繰り返すセインに、大神官は静かに頷いた。
「……ここより西に比較的大きな湖がございます。この数年、黒い靄が生まれている、黒い影に湖に引き込まれそうになった、といった奇怪な話が、当方を始め周辺の神殿に届けられるようになりました」
ふっとセインの表情が消えた。怪訝さすら浮かべずに、冷えた視線で話の続きを待つ。
「先代様はすぐさま湖周辺へ上位神官を派遣され、綿密な調査を行われたそうですが……特に不穏な事物を発見することなく。私の就任後も同様に。
昨年の秋に、私自身も湖まで参りましたが、やはり明確な原因は見出せず、応急処置として湖全体を祓いました――が、それでもどこか歪んでいるように感じられました。湖を中心とした周辺一帯が、何某かの術の支配下にあるような……」
言葉を途切れさせた大神官の正面、セインは闇に沈んだような瞳で黙考していた。
「湖……」
小さく零れたセインの呟きに、大神官は頷いて再び話を続けた。
「はい。周辺住民の水源であり糧を得る貴重な漁場でもあるのですが、最近は漁に出るのも恐々といった有り様で――どうにかしたいとは思うのですが」
「――始まりは、五年前?」
「いえ……? 三年程、になるでしょうか。私が大神官を継ぐ際に、先代様より前年からの懸案事項として伺いましたので」
「……三年……」
再び沈思したセインの隣で、ルドが気遣わしげにセインを見上げていた。が、ルドが口を開くより先に、セインが大仰に息を吐いて長椅子の背に体を預けた。
「成程、神官たちが私に対してピリピリしてる訳だ。ユークリッドである私が、初代と同じ偉業を果たせぬとなれば、歪みを正す役割は法術士が負うことになるから……」
大神官が気まずそうに面を伏せたところで、セインの隣から小さな呟きが落ちた。
「歪んでるっていうなら、ここもちょっと歪な気がするけどな……」
「ルド?」
「あ、ううん。なんでもない」
話の流れを止めてごめん、と呟きを取り消そうとするが、セインは思いがけず険しい表情を見せていた。
「いいから説明しろ。なにが、どう、歪だと思う」
「や、あの。ホントになんとなくだから」
「ルド。お前は今まで神殿に縁がなかった。だから却って先入観の無い感覚を持っている。――言え、なにがおかしい」
セインの勢いに呑まれてルドはしばし視線を彷徨わせ、考えながら言葉を紡いでいく。
「……えっと。キレイすぎる、かな? 空気……雰囲気? が、清浄過ぎてむしろ息苦しい感じ」
「……神殿ですので、清浄な空気に満ちているのは当然です。
そもそも神殿は各地の要となる地に建ち魔を封じる役割を持ちます。常に清めの術式が稼働し、不備の無いよう上位神官が日々管理をしておりますから。私も年に数回、五日ほど最奥の聖堂に籠って術式の再構築を行います」
ルドの言葉に、大神官が必然を返す。
大陸のすべての神殿には邪気を払う清めの術式が敷かれている。基本的な作用範囲は各神殿の敷地内に留まるが、同一の術式を展開することで大陸全土に効力を持つひとつの大きな封印結界に転じる。――この封印結界が『魔界』との道を封じると言われ、故に魔のいない平穏な世界を保つのに神殿は必要不可欠とされる。
セインが大神殿を訪れたのは、まさに大神官が術式再構築行っている最中だった、という訳である。
大神官に当たり前のことだと言われたルドは、だが、ゆっくりと言葉を重ねた。
「あの、薬も過ぎれば毒になるっていうか、……真に身も心も清らかな存在なんて、生まれたばかりの赤ん坊くらいでしょう? 人はそんなにキレイじゃないもの。
でも、ここは、ほんの小さな穢れも許さないような、それが余計に邪心を呼び込むような……ごめんなさい、うまく言えません」
舌足らずな声音は徐々に小さな響きになり、結局最後は顔を俯けてしまう。
しかし、そのルドの話に乗っかってきた声が気軽に響く。
「あー、納得。心をキレイに保つための術が張ってあるってんなら、まともに働いてねぇって感じではあるな」
「……カイル?」
「ほら、ルドを神殿に入れたがったおっさん法術士。心清く高潔であれってんなら、初対面のセインをいきなり見下した発言ってどうよ?」
どうやらメドリングの名前は覚えていないらしい、カイルがつい先程の遣り取りを挙げて「神官サマも凡人と変わんねえわー」と笑う。
大神官は笑えない。深く眉間に皺を刻み、じっとルドとカイルの言葉を反芻しているようだった。
「――アスカの隠居後、数百年来の伝統ですよね? 問題はこれまでなかったのでしょう?」
問うセインに、大神官が重々しく頷く。しかし、その表情は冴えないままだ。
「少し……調べてみましょう。この神聖都市のすぐ近くに魔が湧いた、と噂される原因が、言われるように過剰な術式行使の反動か、どこかに綻びがあるのか……無縁ではないように思われます」
ルドは自分の一言がとんでもない話を呼んだように感じて小さくなっていた。
「あの、本当に、僕はものを知らないので……」
「いいえ。あなたの法力は底知れない。その法力が告げることを蔑ろにはできませんよ」
ようやく微かな笑みを口元に浮かべて大神官がルドに応えた。
「今はユークリッド様に指導を受けているとのこと、よくよく学ぶことです。――気が変わればいつなりと訪ねてきてください、あなたほどの素質は野に放れはしない」
穏やかな表情と声でやんわりと勧誘されたのを、ルドは曖昧に笑って流す。
「買い被り過ぎですよぉ」
「いや、実際ルドは大神官に比肩する法力を持ってるけどな」
『え?』
セインの一言に、大神官は静かに頷き、あとの全員がきょとんとした。
見事に揃った反応に、セインは溜息を落とす。
「――なんでルドまで不思議そうな顔をするんだ。強過ぎる、って言っただろ。
そこそこ高位になれる、くらいだったら私はあそこまで警戒していない。その程度の法力なら意識的に表出させない限りバレないから。なにもしてなくても漏れるくらいの力だから警戒して杖も取り上げて――それでも見つかったんだろ」
『あ――……』
セインの説明に、再び全員一致の反応。しかし一拍置いてアレイクが、訝しげな表情で口を開いた。
「……ゼフィーアではなんで騒ぎにならなかった? 王城勤めの法術士の目の前でルドは法術を使ったよな?」
「あ、そういえば。ルド君が牢獄で法術使ったときに居た法術士、ルド君ガン見してたし。勧誘されなかったの?」
ミシリーが重ねてくる。が、セインは涼しい顔で、
「忘れろっつっといた」
非常に簡単に答えてくれた。
「………………セイン」
ミシリーは乾いた笑いとともに納得し、アレイクは言葉を失くして心底祖国の法術士に同情した。大神官に並ぶ権力者『ユークリッド』の依頼――というか恫喝――と、法術士としての責務との狭間で、恐らく法術士はしばらく思い悩んだことだろう。
話が一段落したと見て、大神官は窓の外へ視線を動かす。
「――もう昼が近いですね。昼食を用意させますのでどうぞ。よろしければ今日はこのままこちらにお泊まりください、ユークリッド様のお部屋の並びを整えさせましょう」
「ありがとうございます。一晩お世話になります」
セインが口を開くより先にアレイクが応じた。さっと立ち上がり、丁寧に礼を取る。その姿に、大神官は僅かに目を細めた。
「こちらはゼフィーアの軍属の御方でしたか。お隣の青年は南部の民のようですし……随分と交友関係を広げられましたね」
辞儀の型で軍人とまで知れたらしい、カイルの方は言わずもがな髪色からだろう。
「好きで増やした連れじゃぁないんですけどね――……」
疲れたようにセインが返せば、大神官は苦笑した。
「お一人でお出でになられたと聞き僭越ながらご心配申し上げたが――お連れが多くおられるなら心強いことでしょう。
……お義兄上のことは、本当に残念でした……」
思い出したように付け足された一言に、セインの表情が硬くなった。
過去に二度、大神殿を訪ねたときには共にいた義兄。今回いない理由を、出迎えた女神官たちには簡潔に話した。つまり、死んだ、とだけ。だから、大神官のこの言葉は、純粋な悔やみの言葉だと分かる。
分かっているが、セインは表情だけでなく身体ごと固まってしまった。
身内を亡くした傷が癒えていない――というには違和感を覚えるセインの反応に、大神官は微かに眉根を寄せた。どうしたのか、と問おうとしたところで、軽く幼い声が大神官の耳に響いた。
「そういえば前に行った神殿で、“石”が祀られてたことがあったけど、神殿ってご神体とか祀るものなんですか?」
あどけない明るい茶色の瞳がまっすぐに大神官を見ていた。隣で硬直しているセインのことは気付いていないのか、気にしていないのか。大神官の答えを促すように小首を傾げて見せる。
いや、気付いているからこその話題の転換なのだろう。大神官はそう思い至って幼子の言葉を口元で反芻し、答えを用意した。
「……そうですね、御神体と称して紅水晶を祭壇に置くことは許されていますよ。総ての神殿で置く訳ではありませんが」
「へえ、ほんとは紅水晶じゃなきゃダメなんだぁ。あの神殿にもあったのかな? セインが暴れるのを止めるのに一生懸命で良く覚えてないや」
「暴れ、る?」
「――ルド」
ルドのさらっとした言葉に大神官が背筋を軋ませ、逆にセインが硬直を解いてルドを睨んできた。
「神官さんが“石”を渡してくれないからって夜中にこっそり貰いに行ったら、神官さんがお祈りしてて。セインが剣を抜くからすーっごく怖がられたもんね」
「…………ユークリッド様」
「ミナトゥス様が大神官に就任される前の話です。若気の至りということで」
『いや今も若いだろ』
セインは、物凄く複雑に苦い顔をする大神官の視線から逃れるついでに言い逃れを図るが、セインより確実に年上の野郎二人に突っ込まれて敢え無く惨敗した。
聞こえよがしに舌打ちするセインを余所に、場の雰囲気は柔らかくなっていた。




