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紅の闇  作者: 水無神
第二章 神聖都市エレアザル
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07.儘ならぬ思い抱えて向き合うは


 ――……。


 柔らかな声に呼ばれて振り返る。

 生まれる前から聞いていた声が、自分の名を呼んでいる。


 ――こっちへおいで。


 伸びてくる、白く繊細な、それでいて自分よりも大きく力強い、手。

 小さな自分の頭を撫で、体を抱き上げる。


 ――僕がいるからね。


 細く整った造りの顔。

 穏やかな琥珀色の瞳を髪と同じ黒く長い睫が縁取る。


 ――僕と、一緒にいよう。


 抱きすくめられた小さな体は僅かに動くことも許されない。

 かけられる言葉に応えたいのに、なにかが喉を塞いで声が出ない。


 ――かわいい、僕の……。




  ◆◆◆




 こうべを垂れるのは三十を越えたかどうかの、まだ若い男。


「……アスカ様には、非礼の数々、誠にお詫びのしようもございません」


 男が身分を名乗って次に、歓迎の言葉より先に発した言葉が、それ。

 男はミナトゥスと名乗った。神聖都市エレアザルの大神殿を治める、全神官の長たる大神官であるという。



 セインが大神殿に押しかけてから三晩が明けた早朝。朝食もそこそこに大急ぎで身支度をさせられ――着てきた服は剥ぎ取られ、滞在中は神官の御仕着せを(頭巾と帽子は無しで)着せられている――赴いたのは大神殿最奥、敷地中央に位置する静謐な区画であった。

 一般開放はもちろん、上位神官でも更に高位の者しか立ち入りが許されぬ、いわば聖域だという。本来ならばたとえ一国の王が訪れたとて軽々に立ち入りを許される場ではない、と世話役の女神官には言外に分不相応の立ち入りだと言われたのだが。


 辿り着いてみれば廊下の脇にずらりと神官が並んでいた。その数二十ほどか。上位神官でも高位であることを示すように、帽子の刺繍はいずれも赤から紫だった。

 そして彼らの中心に居た、赤と金を縒り合わせた色の刺繍を施した帽子を戴く男が、大神官ミナトゥスだった。


 セインの頭に最初に浮かんだのは白髭にふくよかな腹の老人だった。次いで「あ、代替わりしたのか」という、一般的には重要なようで、セインにとってはあまり大きな問題ではないことを思った。



 大神官が頭を上げるのを待って、セインはいつもの無表情に感情のこもらない声音で声をかけた。言葉にだけ、ほんの少しの棘を含ませて。


「特段、礼に欠ける待遇を受けたとは思いません。むしろ、大神官サマの御手を煩わせるどころか、上位神官の皆様方のお時間まで割いてしまったようで恐縮です」

「いいえ。そもそもアスカ様のご来訪がわたくしに届くのが遅すぎました。即時、私が参るべきでございましたのに、三日もお待たせした挙句、呼び付ける形になるなど」


 どうあってもセインを上段に置くつもりらしい大神官の態度に、これ以上は押し問答にしかなるまいと内心で息を吐く。

 だが、一点だけは譲れなかった。


「謝罪を容れます。その代わり、私のことを『アスカ』と呼ぶのを止めてください。それは始祖を指す呼び方であって、末裔たる私にはそぐわない」

「……失礼いたしました、セイン・ユークリッド様」

「で、“石”は」

「こちらに」


 大神官が片手を上げて示した先は壁にぽかりと口を開けている小部屋。入り口に立って中を見れば窓ひとつない白壁の正方形、法術の明かりに照らされた部屋の中央に、小さな台座が置かれている。

 その台座の上に、白い絹に乗せられた黒玉。


 一歩下がって入り口を見直す。扉の無い入り口の、その扉の代わりをするように、うっすらと白い光を放っている結界が見えている。数歩入ったところにもう一重ひとえ。台座の周りに最後の一重。


「台座の天面に一重で四枚か……施術は大神官サマが? 最高位の法力無駄使いの上に、この数の上位神官をお付けとは」

「通常は二名を置いているだけです。今朝はユークリッド家の魔力を秘めた“石”の処置について興味があると言うので、立ち合いを認めました……が、お気に障るようでしたら下がらせます」


 セインの軽い皮肉にも揺るがぬ静かさで大神官は言葉を返す。セインは軽く肩を竦めるに留めた。見物人の有無に興味はない。

 それより気になるのは、なぜ“石”が大神殿に持ち込まれ、大神官の管理下になっているのか。


「何がどうしてここに?」

「一年ほど前にイーハ公国の神殿から、行商人より買い取ったと送られて参りました」

「……貢物とかでなく、わざわざ買い取って?」

「私の指示に従ってのことです。二年前、私が大神官に就くと同時に、『何かしらの力を感じる黒玉を見付けた場合、即刻私の許に届けよ』と全神殿に通達を出しましたので」

「……?」


 微妙な話だ。なぜ大神官が“石”回収の指示を出すのか。

 セインの無表情に疑問が現れてしまったのだろう、それまで凪いだ湖面のようだったミナトゥスの表情が僅かに緩められた。


「あなた様の助けになるかと思いまして。旅のどこかで再びこちらにお寄りいただけることもあろうから、それまでに集めうる限りをと……結局、ひとつきりでしたが」

「はあ。それはお手数を」


 世話役の女神官を筆頭に、古参らしい神官たちが、ユークリッドの兄妹きょうだいがかつて大神殿を訪れたことを覚えていたのは確認済みだ。しかし、いくら事情を知っていても、この対応は過剰ではないか――という疑問も、続く大神官の言葉に解を見出した。


「十年ばかり前、まだお小さくていらしたユークリッド様の、お話し相手を務めさせていただきました」


 約十年前。故郷シルグルアを出てすぐ、セインは義兄と共に転移陣を使用して大神殿を訪れている。旅の今後について各地の神殿での便宜を図ってもらうためだったが、それらの交渉に当時七歳のセインは関わっていない。

 義兄が大神官らと会談をしている間、セインは体よく放置されていた。しかし、いくら『できそこない』とはいえ貴賓である子供を一人にするわけにもいかないと、子守り役が付けられていた。それがミナトゥスであったというなら。


「……やたらと、ユークリッドの魔力やら術やらについて訊いてきたお兄さんでしたか」

「若気の至りでご無礼を」


 深々と頭を下げる大神官に、今だって年寄りにはならないでしょーよ、という突っ込みは内心で入れるに留めた。

 あのときの子守りの神官は、確かにセインを『できそこない』とは扱わず、ただ、セインの持つ力、その力でできることに、随分と興味を示していた。

「それで、この強固な結界と神官たちの見物、ですか?」

 含みを持たせて問えば、薄い笑みだけが返ってきた。


 同じく薄い笑みを佩いて、セインは小部屋に足を踏み入れた。なんの妨げも抵抗もないように、すたすたと歩を進めてしまう。


 神官たちが明らかに息を呑み、一拍置いて盛大なざわめきを起こした。

 大神官が自ら施したという結界は維持されている。解呪されたわけでも、破壊されたわけでもない。神官の群れから、堪えきれないように一人が駆け出し、小部屋の入り口に手を翳した。そこには間違いなく僅かな燐光を保つ壁が存在し、神官の侵入を阻んでいた。


「どういう……ことだ?」

 結界の存在を確認した神官が呆然とした呟きを漏らす。

 それはこの場に見物に来ていた神官らの内心を代弁していた。

 ただ一人、大神官だけは落ち着きを保つ。


「セイン・ユークリッド様は、確かにその御力を顕わにはなされない。しかし、御身には間違いなく救世の魔術師アスカの、血と力を受け継いでおいでです」


 大神官の静かな声音に、入り口前に立ち尽くしていた神官は大神官を見遣り、次いで室内のセインへ眼を戻す。


 セインは迷いのない足取りで部屋の中央に据えられた台座へと辿り着いていた。入り口の物と合わせて三重の結界を、すべて素通りして。今、まさに、最後の一重に手を触れようとしていた。

 最後の一重は、特に複雑に強固に施されたものだと、場にいる神官たちは知っている。小部屋を覗き、張り巡らされた結界の術式を読み解けばそれは自然と知れたからだ。


 ――さすが、過去最年少で大神官の座に登りつめた者の業は見事よ。


 誰もが感嘆と尊敬と畏怖と、微かな嫉妬をもってその出来を認めていた、その結界を。

 何ものにも妨げられることなくセインは“石”を掴み出す。

 それを右手に握り込んで踵を返した。



「で、見物みものになったかな?」


 ニヤリと意識的に口角を釣り上げて見せる。

 神官たちのセインへの対応について、冷や飯を食わされたとも、煮え湯を飲まされたとも思わない。

 それでも、ユークリッドの――神の子〈アスカ〉の威を示すことは必要だと考えた。

 少なくとも、大神官はそれを必要としているようだった。


 だからセインは不敵に笑う。

 決して神々しいものではなく、不遜に満ち、翳りを帯びた笑みだとしても。


「ものはついでで浄化まで披露した方がいいですか、大神官サマ?」

「――叶いますならば」

「では、外に。白亜の石床を血で穢すのも気が引けるし。小刀と手桶に水を一杯、あと、手拭いをお願いします」


 言うだけ言ってセインは歩き出し、外に面した回廊に出るなり手摺を乗り越えて芝生の空間に降り立つ。

 大神官以下約二十名は回廊にぎっしりと立ち尽くした。


 まだ朝の光を残す木漏れ日の中に座り込んだセインの許に、所望の三点が届けられて、セインの儀式が始まる。



 セインは右手の指先で“石”を持つと、左手一本で器用に小刀の鞘を払って右の掌を切り裂く。流れ出る己の血の中に“石”を落とし、一度握りこんで血を纏わせる。再び開いた掌の端から血が零れるのも構わず詠唱を始めた。見物人に聞こえるよう、はっきりとした声で。

 掌の上で血流は暗い光を帯び、“石”の周囲に円陣を描いて半円の屋根を形成する。完全に“石”が赤黒い屋根に覆われたのを確認し、詠唱の最後に浄化のしゅを結ぶ。


 黒と赤の複雑に入り乱れた暗い光が膨れ上がりセインの全身を呑み込む。それは収縮と膨張を繰り返し、そうする内に徐々に赤が黒を駆逐していく。ほんの一時ひととき、セインの首にかかる紅玉と同じく深いあかの光を帯びたと思ったときには薄赤の光へと変じ、やがてセインを中心に鎮まっていった。


 光が消えるなり右手ごと“石”を水桶に突っ込み、ざばざばと洗う。左手で“石”だけを取って手拭いで拭きあげれば、底の見えない光を弾く紅玉が現れた。


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