11.闇の石清めるだけで命懸け
※流血描写あり(冒頭にちょろっとだけ)
セインは握り込んでいた簪と紅玉を大剣の柄に添えた。
先に斬った右手首からの出血は勢いがなくなり、たらりと細く滴っている程度。
足りないと判断し、地に立てた剣を引き抜き、その刃を右腕に添える。既にある傷の少し上をざくりと裂けば、新たに赤い流れが生まれる。深めに傷つけている筈なのに噴き出すような勢いがないのは、体内に流れる血液そのものが少なくなっているからか。
流れ出る己の血を三つの“石”に振りかけ、早々に肉体から離脱しようとする意識を辛うじて引き留めて小さく口の中で詠唱を行う。
血流は暗い光を帯びて“石”の周囲に円陣を描き、やがて小さな半円の屋根を形成してすべての“石”を包み込んでいった。
詠唱の最後に浄化の呪を結ぶ。
刹那。
黒と赤の複雑に入り乱れた暗い光が膨れ上がりセインと〈鬼〉を呑み込む。それは時に暴れるように大きく、時にもがくように小さく、収縮と膨張を繰り返す。徐々に赤が黒を駆逐し、セインの首にかかる紅玉と同じく深い紅の光へ、さらに薄赤の光へと変じ、セインを中心に鎮まっていく。
〈鬼〉を拘束していた黒い戒めも同時に赤に浸食され引き剥がされ薄赤の光となり、セインの身体に吸収されるようにして消えていった。
奇跡の残滓が完全に消え、軽く膝を曲げて立ち尽くす〈鬼〉と、彼を見上げるようにしてその前に跪くセインの、まるで絵画のごとく動かぬ姿だけが残された。
閑地を取り囲むゼフィーアの兵士たちも微動だにできずにその光景を見つめていた。
その人々の塊から、ふわりと動き出した小さな影。
セインの傍らに立ったルドは、セインの血に濡らされた三つの“石”がすべて真紅であることを確認し、それからセインの数歩先に立ち尽くしている〈鬼〉を見遣った。
「……セインは、間に合ったのか、な……?」
ぽつり、独白じみた言葉はセインの耳には届かなかった。
否、届いていたかもしれないが、セインはそれを認識できなかった。
セインは目を開いて〈鬼〉を見上げていたが、その瞳は何も映していなかった。薄赤の光の収束と同時に意識を引き留めることを放棄し、セインは気を失っていたのだ。ルドの言葉に応える代わりに身を傾げ、そのまま横ざまに地に伏した。
「セインッ!」
ルドの焦燥の声に揺さぶられたか、〈鬼〉が微かに身じろぎをし――セイン同様に横ざまに地面へと崩れ落ちた。
◆◆◆
闇は漆黒だという。
月も星もない夜の、死を最も身近に感じるそれが闇だという。
だがセインにとって、闇は真紅だ。自分の大切なものを失うとき、そこに必ずある紅玉と同じ全き紅。それが魔の棲む〈闇〉だ。
――今、自分を取り巻くのは漆黒。だから何も失くしていない。大丈夫。
その黒が灰の色に変じ、いつの間にか灰は白に追い遣られた。白はやがて様々な色彩に取って代わられる。
ぼんやりと霞む視界をそのように認識してセインは意識を取り戻した。
「……セイン? 起きた?」
耳元に、いつになく低く抑えた子供の声。もう数年来なじんだはずのその声が妙に緊張しているようだ。
違和感にセインは眉根を寄せ、一度きつく目を閉じ、そしてしっかりと開いた。
横から覗き込んでいたのは旅の連れ。自分の鳩尾の下までの幼い背丈、柔らかい茶色の髪と、同じ色の明るい瞳。だが今は心配を溜めた色をし、愛らしい顔立ちも険しく顰められていた。
大丈夫だ、と声を掛けようとして咳き込んだ。
仰向けでは苦しいばかりで、横向きに体を丸めて呼吸を確保する。
「セイン、お水! 飲める?」
あわあわとルドが湯呑みを差し出すが、咳は落ち着きだしたものの体を起こせない。
全身がぐったりと重くままならない。
喉が渇き過ぎていて声が出せないと理解する程度に意識は晴れていたので、ルドの目をしっかりと見て口だけを「起き上がれない」と動かす。
セインの意識がはっきり戻っていることに安堵したらしいルドが、軽く息を吐いて湯呑みを脇机に置いて場を去る。その背を眼だけで追えば、扉を開けて廊下に居たらしい誰かに声をかけている。
ルドが押し開く扉に新たな違和感を覚えてくるりと視線を巡らせると、セインが寝ているのは妙に広い部屋の無駄に大きな寝台の上のようだった。城門内に立ち入りが許されると同時に間借りさせてもらった兵舎の一室とは、はっきり言って質が違い過ぎる。
そもそも兵舎の寝室は机と椅子と寝台と棚が一揃いあるだけ、それでほぼ部屋の面積が埋まっていた。しかもその調度のいずれもが、屈強な兵士が使うには小振り過ぎないかと思えるほど無駄のない造作のものばかり。
今、セインが寝ているのはルドと二人で両手足を広げて転がってもまだ余るほど大きく、ゆったりとした寝台。敷布も掛布も上質の絹、掛布にはおそらく羽毛入り。
その寝台を中心に据えている部屋もまた十二分に広い。寝転がった状態のセインから見える範囲は限定的だが、毛足の長い絨毯だの豪奢な彫り物がされた脇机だの重厚な扉だの、どうやら王城本宮の客間と思われて、セインは不意に虚脱した。
その重厚な扉を全身の筋力を使って開け閉てして寝台の傍に戻ったルドは、後ろに見慣れた青年を連れていた。
アレイク班長である。
班長や師団長の制止その他を振り切って色々やらかした自覚はあるセインだ。さすがに気まずく顔を歪めてしまう。
自覚はあれど反省も改善もしないのじゃ意味がない、というのはルドの嘆き。
セインの表情の意味が読めたのだろう、アレイクも苦笑を返し――すぐに、ひどく真面目な顔になった。何も言わずにセインの背を抱えるようにして体を起こさせ、口元に湯呑みを運んでくれる。
ゆっくりと嚥下した液体は甘露そのもの。湯呑みになみなみと注がれていたそれを、ほぼ一杯を飲みきる頃にただの湯冷ましと知れる。
ふうぅ、と大きく息を吐いたところで班長の固い声がした。
「お前は、もう少し、自分を大切にしろ」
背中を支えられたままなのでアレイクの顔はセインの斜め後ろ、やや上方。
振り仰ぐようにその顔を見れば、真面目な顔の眉間に深い皺。茶色の混じる緑の瞳に自分の呆けたような顔が映り込んでいる。
「自分で自分を斬り付けて、大量出血で死線を彷徨うってどんだけ阿呆だ」
ふと視線を転じれば、アレイクと同じような顔をしたルドが立っている。杖を持たない時に胸元を握り込むようにしているのは、その下にある物の存在を確かめるルドの癖。そしてその癖は、ルドが不安や心配や、恐怖を感じている時に表れる。
「…………ごめん、心配かけた」
ルドの目を見て、小さく零す。見つめた茶の瞳にじわりと膜が張り、すぐに溢れた。
そうしてかなり長い時間、ルドはセインの膝に縋りつくようにして寝台に乗り上げて、顔を伏せたまま声を殺して泣いていた。
ルドが泣いている間に、アレイクはセインの背に枕をいくつも当てて上半身を起こした状態に固定すると、一旦退室した。戻って来たときには手に盆を持っていて、湯気を上げるそれを覗き込めば、一見して病人食と分かる食事だった。
ルドがようよう落ち着き、ぐしゃぐしゃになった顔を洗って人心地ついたところで盆を受け取り、ゆっくりと二日ぶりの食事を摂る。
セインは微妙に力の入らない手に苦心しながら、水分の多い雑穀粥と小さく刻んだ野菜と肉の羹をせっせと口に運んだ。なんとか食べ終えるとアレイクが盆を部屋の隅の卓子に下げる。
そして思い出したようにルドが脇机の引き出しから布包みを出してきた。
中には大小三つの紅玉。
セインは、ひとつずつ手に取り目の高さにかざしていく。
一番小さいのは簪についていたもの。親指の先ほどの小粒。
一番大きいのは〈鬼〉の剣の柄尻に埋められていたもの。人差し指と親指で輪を作ったほどの大きさは“石”の最大限度の大きさだ。
それより一回りだけ小さいのはセインが手持ちから抜き取ったもの。
いずれも鮮やかでありながら底の見えない真紅。午後の光にきらりと輝きを返す。
「……すべて問題ないな。剣についてたヤツは一度で浄化しきれるか怪しいと思ってたけど、きっちり祓えたらしい」
確認を終えるなりセインはその三つを首元の連なりに足していく。カチカチと硬い音が響いて、三つの紅玉は首飾りの中に落ち着いた。
それを見ていたアレイクの顔が『謎だ…』と雄弁に語っていたので軽く説明する。
「班長さん、“石”同士は引き合うってのは、同類を呼び寄せるってだけじゃないんだ。“石”同士が磁鉄鉱のようにくっつけられるんだよ」
言ってセインは適当な紅玉をカチカチと付けたり離したりして見せる。
へえ、とアレイクが目を丸くするが、ルドが一言付け足した。
「ただし、セイン以外には付け外しできないですよ?」
「ん? そうなのか。さすがはアスカの魔石だな」
「……ビミョーな命名……。初代が聞いたら全力拒否しそうだな」
単に『アスカ』と呼ばれるのは一族の始祖、救世の魔術士である初代のみである。その名を冠して“石”を括られては不本意であろう。
「あ、駄目か。『ヤバイ石』とかよりマシかと思ったが」
『班長さんの感覚、ビミョー……』
アレイクの思わぬ欠点に、セインとルドの呆れ声が重なる。
ふと三人で目線を交し合い――そうして大きく笑い合った。
笑いが収まってから、セインは自分が気絶した後のことを聞いた。




