10.秘めたるは血に含まれし暗闇の
※流血描写を含みます
「――――ッ!」
切っ先がかすった瞬間に感じた痛みと熱に、セインは小さく声を上げた。幾度目か分からない〈鬼〉の斬撃を避け損ね、ついに右上腕を裂かれた。
深くはないが、出血を伴う損傷は確実に気力と体力を削られる。
苦虫を盛大に噛み潰して〈鬼〉の次の斬撃から逃げる。
――諦めて手持ちを使うか?
心許ないけどな、と思いつつセインは胸元の紅玉に手を遣ろうとするも、その僅かな動作さえ〈鬼〉は許さない。余計なことをする暇もなく繰り出されてくる大剣から、髪の毛一筋のような間合いで逃げて距離を取る。
着実に追い詰められている。打開の糸口はまだ見えない。
怜悧な面に焦りを浮かべてセインは〈鬼〉の側面に回り込む。〈鬼〉が剣を振るう方向を見定め、右に左にと身を躍らせて避ける。
いつまでもセインを捉えられないことに苛立ったように〈鬼〉が喚く。言葉として聞き取れたのは最初の「アスカ」と呼んだ一声のみ。あとは真に獣の咆哮でしかない。
右腕の傷口が疼く。数滴、地面に赤が散った。
「――セインッ!」
思いがけず近くで響いた声に顔を上げると、アレイクが模擬剣でもって〈鬼〉に斬りかかっていた。
「班長さん!? なんで!」
アレイクの剣を〈鬼〉は怒声と共に打ち払った。予想以上の斬撃の重みにアレイクは小さく舌打ちし、数歩間合いを取って〈鬼〉と対峙した。
〈鬼〉も、不意を打って現れた敵に気を向けたらしい。セインが閑地に現れてから初めて、セインから眼を逸らしアレイクに濁った眼差しを向けた。
「セイン、しばらく俺が引き受ける。ミシリーが“石”を持ってくるか、お前が他の手を思いつくかするまで休んでいろ!」
「……他の手、ね」
セインの独白はアレイクの耳には届かなかった。
〈鬼〉の斬撃はアレイクが受けても重かった。身長はアレイクと変わらないが、ガリガリに痩せているその体に、これだけの力があるということが驚異的だった。セインが正面から剣を受けたのであれば、剣ごと頭を割られていた恐れさえある。
剣が重い分、切り返しはやや鈍い。しかし隙はない。
折角引き付けた〈鬼〉の意識がセインに戻らないよう間断なく剣戟の応酬をしつつ、アレイクは〈鬼〉の腕前に舌を巻いていた。
暫くののち、セインが下がれと怒鳴ってきた。
セインを振り向きもせずアレイクは〈鬼〉から距離を取った。
アレイクを追おうとした〈鬼〉はしかし、踏み出した足を止めてアレイクの斜め後ろ、セインに眼を遣ると顔を歪めた。
歯噛みするような口から、呂律の怪しい言葉が絞り出された。
「アぁすかァあ……っ」
憎々しげに呻いた〈鬼〉の足元へ黒い霧が駆ける。小さな円陣の中に〈鬼〉を閉じ込め〈鬼〉の足首に腿に纏わりつき、さらに胴から首、肩へと流れ、やがてその動きを封じこんだ。
異常な事態にアレイクはセインを振り返る。
セインは右拳を地面に突き、据わった眼を〈鬼〉に向けていた。
上腕の傷から血が滴り拳に流れ込んでいる。その右拳から、黒い霧が生まれている。
「セイン――?」
「班長さん、気を逸らさないでくれ。維持させるには力が弱すぎる」
やや蒼褪めた顔で、セインは〈鬼〉から眼を離さずに声をかけた。
アレイクがすぐに〈鬼〉に向き直れば、成程〈鬼〉は縄の拘束を引き千切るように体を捩じって霧から脱出しようとしていた。
じりじりと〈鬼〉との間合いを詰める。だが、〈鬼〉の意識には最早アレイクは存在していない。
己を脅かす存在、セインだけを見ている。
そうして、意味を成す獣の咆哮。
「あすカ、アスカぁ……。ちから、だ。力だ。力を寄越せえええぇぇええ!!」
狂気に満ちた怒声にアレイクは模擬剣を構え直す。
黒い霧の束縛から抜け出し、〈鬼〉はセインを目掛けて走り出す。
その進路を塞いでアレイクが剣を繰り出す。
〈鬼〉の猛撃にアレイクは少しずつ押され、じりじりとセインの方への後退を余儀なくされる。しかし、セインは片膝を突いた姿勢から動くことはなかった。
セインは〈鬼〉から視線を逸らさぬまま、左手で左腰の剣を鞘から払う。逆手に持った剣、その刃の部分に右手を掛ける。
「――セイン!? 何を――っ!」
その様子を横目に確認したアレイクが叫ぶが、〈鬼〉の相手をしていてはそれ以上の余裕がなかった。
セインは構わずに刃を握り込む。その掌には首から取った紅玉がひとつ。
刃に裂かれた指から滴る血を吸って紅玉が暗い光を帯びる。
「班長さん下がって!」
一声と共に血に濡れた拳を高く突き上げる。
昏く赤い光が溢れ渦を巻くようにして、跳び退ったアレイクの脇を擦り抜けて〈鬼〉に向かう。
「ああァァあスかぁぁぁアアぁああ!!」
赤黒い光――あるいは闇、と呼ぶべきか――が〈鬼〉の体に絡みつく。もっとも濃く纏わりつくのはその両腕、両手で握る大剣を奪うようにギリギリと彼の者の肩から手首までを締め上げていく。
だが。
「アアあァアああぁぁッ!!」
咆哮と共に鈍い赤が拡散される。拘束から逃れた〈鬼〉は再びセインに向かう。
アレイクが間に入りその剣を受けつつ、セインに叫ぶ。
「もう一度、一瞬でいいから拘束しろ! その隙で何とか気絶させる!」
「そいつの持ってる“石”を奪うまでは気絶なぞしない! 傀儡だって言っただろ!」
「――くそっ、キリがねぇなっ!」
珍しくアレイクの口調が乱れた。そんな怒声の応酬に高い声が割って入った。
「セイ――ン!! 受け取って――――ッ!」
呼ばれたセインが声の方を見遣れば、潜り戸を抜けてルドが立っていた。
大きく振りかぶった右手から放たれる白銀の光。法術で制御された放物線を描いてセインの許へと落ちてくる。
法術の気配か、それに包まれた“石”の気配か、〈鬼〉も何かを察して目線を空へ走らせる。そして落ちくる白銀の光に剣を伸ばした。
ルドの声を敢えて無視して〈鬼〉の相手に専念していたが故に、アレイクは後手に回らざるを得なかった。
〈鬼〉の剣に弾かれて、ルドの放った簪はセインから数歩離れたところへ着地した。
簪を追ったセインは、しかし簪を拾う前に横手から襲い掛かる〈鬼〉と対峙することになった。
左手で剣を繰るセインは速かった。アレイクとの試合時の比ではないほどに。
斬撃の軽さは変わらないが、大剣を捌き〈鬼〉の腕を狙って繰り出す刺突の鋭さは驚異的だった。上腕に怪我をし、掌に紅玉を握り込んでいる右手は、動きの邪魔にならないよう脇を締めて畳まれている。
そのあまりに慣れた風の戦い方に、アレイクは漸く思い至る。
――お前、左利きかぁあああ!!
騙された。大いに騙された。食事のとき、匙を繰るのは左右をその時々で適当に使っていた。両手を鍛えるためかと感心していたが、実際は無意識に利き手が動くのを意識的に右に持ち替えていただけか。
左腰に剣を佩いているのはその方が利き手を錯覚させて油断を誘えるからか。
この数日の手合せのすべてを右手でこなしたのは丁度いい訓練とでも思ったのか。
色々思うところや突っ込みたいところはあるが、状況的に一先ず置くことにしたアレイクは、セインと〈鬼〉の剣戟の応酬に意識を戻す。
右でも左でも、基本は片手で剣を扱うのがセインの型だ。斬撃は重さではなく速さを重視、薙ぎ払うような振りではなく鋭い刺突が攻撃の主体になっている。やむなく相手の剣を受けとめる時は両手持ちにもなるが、そもそも細身の剣と細い身体では、耐え切れずに叩き潰されるか吹き飛ばされるのがオチになる。
セインの細い剣切っ先が〈鬼〉の右顎をかすめて、小さいながら傷を付ける。
アレイクはそこで二人の間に僅かな隙を見出し、怒鳴りながら割って入った。
「セイン、それがミシリーの持ってきた“石”だな!?」
「ああ、しばらく頼む、班長さん! すぐに片を付けるから!」
セインは素早くアレイクと〈鬼〉の相手を入れ替わり、すぐに簪を拾い上げる。
アレイクが対峙する〈鬼〉はそれまでと様相を異にしていた。狂気がさらに膨らみ、盲目的にセインを、正確にはセインが手にした簪の“石”を求めていた。
セインは簪の“石”を確認すると再び片膝を地につけ、右手に握り込んでいた紅玉と共に簪を足元に置いた。そして軽く右手の袖をめくると、携えた剣で頓着なくその手首を掻き切った。
閑地を包囲していた兵士たちがその行為に大きくどよめくが、アレイクには何が起きているか確認する余裕はない。
ルドは潜り戸の前にただ静かに立っていた。表情を変えることなく自らを傷つけるセインの代わりに、軽く唇を噛んで痛みに耐えるようにして。
傷口から流れ出た血を吸って、簪に留め付けられていた“石”は赤黒い闇を纏った。
「班長さん退いて!」
セインの声にアレイクは左に跳んで〈鬼〉から大きく間合いを取った。
そうしてセインの右手から放たれる闇の塊。
「アアぁァぁすカあアァあぁ!!」
三度拘束された〈鬼〉は、これまで同様に喚き身を捩って抜け出そうとするが、今度は叶わなかった。
闇は赤黒い縄の様相を呈して〈鬼〉を完全に締め上げる。肩から上腕までを完全に覆い、手首に這って指を柄から持ち上げていく。
しばしの抵抗ののち、〈鬼〉は遂に大剣をその手から引き剥がされた。
落ちた大剣を取ろうとアレイクが一歩前に出たところをほの白い光の壁に阻まれた。
「なん、だ?」
「――班長さん、近付かないでください。できれば壁まで下がってください」
高く澄んだ子供の声。潜り戸の側でルドが短い杖を握りしめていた。
ルドを見遣り、顔以外の全身が赤黒い闇に覆い尽くされた〈鬼〉を一瞥し、大剣に眼を戻し――セインがそこに近付くのを認めてアレイクは後退した。
自分の剣を地に突き立て、〈鬼〉が手にしていた大剣に手を伸ばす。セインにその大剣は重かった。持ち上げる必要もないからとすぐに手を放し、柄尻の黒玉を見つめる。
顔を上げれば、僅か二歩の距離に狂気の目を光らせる哀れな傀儡。
セインは血の気の引いた面を歪めた。
小さく零れた言葉は果たして、二歩先の男の耳に届いただろうか。
「……ごめんなさい。解放できるかは分からない、けど、できる限りの償いを」
イマイチ誰も活躍しない…。
戦闘描写は難しいと痛感。




