僕の悩み
「おーい、さとしー」
これで五度目。
僕はその声に無視を決め込んでいた。
おーい、おーいと何度も声を投げかけてくる。僕の両目の上からだ。
「おーい。いい加減無視やめろよなーさとしー」
その言葉に深くため息をつくと、僕は視線を上げた。
視界には入らない、彼(ら?)の姿。僕の意思とは関係なく、上がったり下がったりして遊んでいる。
僕の『眉毛』だ。
「さとしー何だよ、悩みごとかー?」
一体どこでそんな言葉づかいを覚えたのか。
僕は机に広げていた算数の教科書を閉じると、頬杖をついた。
正面の壁には小さな窓がある。もう空は夜の景色に変わり、高台に建てられた僕の家からは、星くずをばらまいたような夜景を見渡すことができる。
イライラした時や、泣きたくなる時。寂しい時。僕はひとりでその景色を眺めることで心を癒していた。だから、今日も宿題をしつつ心を癒していたのに――
「さとしー! さとしってばよー!」
「うるさいっ!」
ばんっと力任せに机を両手で叩く。その反動で、部屋の中は静寂に満たされた。
耳に残るしんとした空気。
「……よぉ、何怒ってんだよ」
窓に映った自分の眉毛は、眉間にしわを寄せて見事な八の字になっていた。情けない顔だ。
僕は口を尖らして窓越しに眉毛をにらみつける。
「別に。怒ってなんかないよ」
「だったら何だよ、その態度はよー」
「…………」
「ちっ。冷てーなぁおい。さとしとはそれこそ十年来の付き合いだってのによ」
ふんっと鼻息(?)荒く、今度は眉尻を吊り上げた。怒りの表れなのだろう。
僕は実際のところ、本当に怒ってなんかいなかった。ただ、ずっとずっと、長い間悩んでいることがある。
「おまえには言ってもわからないよ」
俯いて、声を小さくして訴える。
「僕のこと、何にも知らないくせに」
泣き言のようにとられるのが悔しくて、声に怒気を込めて言った。でもそれとは裏腹に、自分の瞳が涙に濡れているのがわかる。
そんな僕の様子に気づいたのか。ふぅと大げさなため息が降ってきた。
「さとし、ごめんな」
眉毛の態度が一変した。
顔を上げると、窓に映った自分の眉毛が一文字に真っ直ぐと伸びていた。姿勢を正して僕を見つめているのだ。
「俺が……あれだろ? 眉毛のくせにベラベラと喋ったりするから、さとしも迷惑してるんだよな。ごめんな」
そう言って、また眉尻を下げた。今度は悲しみを表しているのかもしれない。
僕は頬を伝った涙を拭って、窓越しに眉毛を見上げた。
「……さとしのことは、何でも知ってるつもりなんだけどなー」
え? と僕が首をかしげると、眉毛はうねうねと毛虫が這うような形になった。
「悩みがあっても絶対誰にも相談しないよな。独りでうじうじ悩んでよ。変わらないっていうか」
眉毛が僕に初めて声をかけてきたのは、二年生に上がったばかりの頃だった。
学校の友達と喧嘩をしたことや、テストの点数が悪かったことや、授業中先生に怒られたことなんかは、お母さんにもお父さんにも話し辛かった。
家の一部を床屋として開放している為に、二人とも夜遅くまで共働き。僕のことで心配をかけたくなかった。だから黙っていた。
黙って、こうしてひとり部屋から外の景色を眺めていた。
気が付いたら、涙で頬が濡れていることが多かった。我慢していると、自分でも気づいていた。でも、それでも迷惑はかけたくない。
そんな時、『眉毛』が声をかけてきたのだ。
最初は幻聴だと思った。思いたかった。寂しくて、悲しさに打ちひしがれて、僕は聞こえもしない声を聞いているんだと。
でも、鏡越しに見た自分の眉毛が、自分の意思とは全く異なる動きをしていたのだ。
「毎日毎日、辛気臭ぇなーさとしはよー」
ぽっかりと口を開けて驚いていた僕に、初めてかけてきた言葉だった。
「これはずっと、さとしには黙っていよーかと思ってたんだけどさ」
眉毛が神妙にかしこまって続けた。
「さとしが寝入った後に、夜毎さとしの父ちゃんと母ちゃん、寝顔を見に来てんだよ」
そう言われて、僕はその光景を思い描いた。すると、次第に胸の内側から熱いものが込み上げてきた。
「今日も一日大きな怪我もなく、大きな病気にかかることもなく、元気でいてくれてありがとう。笑顔をありがとう。そう言って、さとしの布団を掛け直して部屋を出ていってんだ。あの時の優しい声と顔を見たら、そりゃあ俺も黙っていられねーんだよ。親は子どものことをいつも一番に考えているってのにさ」
そして、また眉毛は僕の意思とは関係なく八の字になった。
僕はその話を聞いて、いつの間にかぼろぼろと涙をこぼしていた。そんなことがあったんだ。そんなことが、毎日行われていたんだ。知らなかった……
「さとしは愛されてるなぁ」
ぽつりと呟いた眉毛の言葉で、僕は流した涙を手の甲で拭った。
目を細めて、眉毛を窓越しに見つめた。
「ありがとう、教えてくれて」
「な、なんだよ。礼なんていいよ、照れ臭ぇなー」
「僕、もっとお父さんとお母さんに甘えてもいいんだよね?」
「当たり前だろー。さとしはまだまだ子どもなんだしな、じゃんじゃん頼って甘えていいんだよ」
眉毛はそう言って高らかに笑った。
「俺にももっと甘えろよー」
そう言って、また笑った。
ちょっと変わった僕の友達。
時には口うるさく、時には慰めてくれる僕の眉毛。
悩み多き年頃の僕を、一心同体となって支えてくれる彼に心から感謝をしている。
だけど、一つだけ。
ずっとずっと、長い間悩んでいることがあるんだ。
十年来の付き合いだっていうのに、僕のことを何でも知っていると言い張るのに。
いつまで経っても間違えてる。
僕の名前は『さとる』なんだってば。
了




