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「宦官? あの人が?」
小玉は驚きに目を見張った。その目を向けられた阿蓮もまた、驚いた顔になった。
「そうよ。というか、沈中郎将さまのこと、あなた知らなかったの?」
有名な方よ~と言われ、へえと生返事をする。脳裏にはつい先ほど見た美貌が浮かぶ。男性的でもあり女性的でもあった姿。この国で尊ばれるという両性というのは、あのような姿をしているのだろうかと思った。
宦官とは、去勢した男性官僚のことだ。官僚といっても、彼らが司るのは表向きの政治ではなく、後宮での諸々の業務である。男性皇帝の時代においては完璧な男子禁制の場になるこの世界では、宦官という存在はなくてはならない存在であった。
しかし、皇帝の妃の側近くに使え、時には皇帝の生活の世話さえもする彼らは、大きな実権を握りがちであり、結果として専横を招いた例がままあった。小玉の死から約100年後にこの大宸帝国は2度目の滅亡を迎えるが、その原因の一つは宦官による国政の乱れである。
しかしその中でもごく僅かであるが、忠臣として名を残した人物もいる。その中の一人が沈賢恭である。先ほど必死に笑いを堪えて関小玉の実家への手紙を読み上げた人物のことである。彼は、後に「最後の忠良な宦官」とまで呼ばれるほどの人物だった。
彼は宦官としては珍しく武勇にすぐれ、武官として多大な功績をあげた。しかし、本来後宮の業務に専念すべき彼らが職分から逸脱したところで功績を上げたために、宦官が重用されるようになった。それを考えれば、結果として沈賢恭らは大宸帝国滅亡の遠因になったともいえる。
もっともそれは、沈賢恭ら個人の功績を宦官全体に投影して、宦官を重用した者の責任であるともいえる。別に彼らは、宦官だから有能であったり忠良であったりした訳ではないのだから。
……などという話は置いておいて。小玉が考えているのは、「欲しい物はないか?」と聞かれた時、「性別教えてくださいって言ったらまずいかなー」とちらっと考えた自分は正しかった、ということである。
宦官に性別を聞くほどまずいことはないとされる。性の象徴を切り落とした彼らは、なぜか感情の起伏が激しい者が多く、自らの性別について触れられると激昂する場合がままある。宮城での慣例に明るくない小玉ですらこのことを知っているのだから、相当なものだ。
もっとも、たとえ宦官であろうがなかろうが、性別を尋ねるのは失礼なことであるに違いない。良識に従って変なことを頼まなかった自分は正しかったと、小玉は頷いた。あー良かった。
もちろんこの時、彼女はまだ自分がとんでもなく無礼なことをしたことを分かっていない。
「あ」
唐突に阿蓮が声を上げた。小玉が彼女の方を見ると、阿蓮はぱっちりとした目を向けて尋ねてきた。
「それで、手紙は読んでもらえたの?」
「あーそのことね……」
小玉の返事は歯切れは悪い。
「え、読んでもらえなかったの?」
意外そうな顔での問いに、小玉は苦笑しながら手を横に振った。
「いや、そんなことないよ」
「そう?」
「うん」
「じゃあ、何か悪い知らせとか?」
「それもない。全然」
「ふうん」
それで話は打ち切りになった。
嘘は何一つ言っていない。手紙に書かれていたのはむしろめでたい話だ。
小玉は自分の寝台に転がり、手紙を広げた。自分にはまるで読めない黒い線が行き来しているが、この線のどれかが義姉の懐妊を伝えているのだと思うと不思議な気持ちになる。
しばらくそれを見つめて、小玉は深くため息をつくと、手紙を胸に押し当てた。甥か姪が生まれるのが嬉しくない訳ではない。というか、すごく嬉しい。ただ、これは戻れんよなあと思うのだ。
これから子が生まれる兄夫婦の元に迷惑の種が転がり込むことは、絶対に避けなくてはならない。小玉は実家に帰るのをすっぱりと諦めた。自分はここで何とか生きていかねばならない。
だけど、と小玉は自分のことを複雑に思う。
これですっぱり諦められるあたり、やはり自分はどっかおかしいのだろうか。それとも、嫌なことは3歩歩いてすぐ忘れるトリ頭なだけなのだろうか。それはそれで嫌だ。
でも考えてみれば、沈中郎将閣下が「欲しいもの」を聞いた時、目先の願望に囚われて手紙を読んでもらうことを請うたが、大局を見れる人間だったのならば「実家に帰らせて欲しい」と頼んでいたはずだ。 結果としてはそうしなくて正解だったのだが。
自分はやっぱりトリ頭なのかなあと、小玉は自身以外にとってはどうでも良い悩みに頭を抱えた。
小玉は思わず叫んだ。
「えー、嘘!」
「ちょっと小玉!」
阿蓮が血相を変えて叱りつける。小玉の叫んだ対象が阿蓮だった訳ではない。むしろそうではなかったからこそだ。
「本当です。それからあなたはもう少し言葉に気をつけなさい」
叫んだ対象こと、柳直長は厳しい声でたしなめた。
「すみません……」
小玉は素直に謝る。謝るだけのことをした自覚はある。だがそれ以上に、思わず叫んだのも無理はないと認識していた。その認識は彼女だけのものではなく、その証拠に柳直長もそれ以上言いつのることはなかった。
今彼女たちが取りざたしているのは、小玉たちの人事のことである。軍に入ってようやく1年目が過ぎた。新米兵卒にだって一応異動だのなんだのがあるのである。
といっても、ほとんど無いが。
あったとしても、同じ部署内だが。
「でも、何であたしが右鷹揚衛に移ることになったんでしょうか?」
だから、この質問も、小玉が思わず嘘と言ったのも決しておかしいことではなかった。
小玉が所属している軍は禁軍である。禁軍とは皇帝を護衛するための存在だ。この禁軍は二つに分けられ、片方を北衙禁軍と、もう片方を南衙禁軍と呼ぶ。
この二つの違いは何かというと、北は皇帝が直接指揮下に置いてある軍で、南は総じて宰相の指揮下にある軍であるということだ。また、南は皇帝の護衛だけではなく、都の警備なども行っている。
したがって狭義の意味では、禁軍とは北衙禁軍のことのみを示すが、そこはあまり気にしなくていい。北と南とでは北の方が格上であり、もちろん小玉が所属しているのは南衙禁軍である。
この南衙禁軍は十六衛と呼ばれる。その名の通り、十六の「衛」という単位に別れ、それぞれの衛の頂点に大将軍を擁している。小玉はその十六衛の一つである右玉鈐衛で後宮警備に従事していた。
女性の場合、士官はともかく兵卒は基本的に後宮の警備にあたるのがほとんどなので、衛内でさえ異動することが特に少ない。ましてや、衛を飛び越えての異動など、一大珍事と言っていい。衛が変わるということは、後宮警備以外の仕事に就くということなのだが……後宮警備以外の何をしろというのだろう。小玉は自分に何が期待されているのか、まるでわからない。そして多分柳直長もわかっていない。
「それは……沈中郎将閣下のご意向です」
としか言わなかったのだから。
沈中郎将閣下。縁が切れていると思っていた……そもそも結ばれてさえいない相手の名前が、なぜここに出てくるのか。
今の小玉には、ちょっとばかり心当たりがあった。
「……ふ、復讐戦ですか!」
「そんな訳ないでしょう。しかも『戦』って何なの」
一刀両断のもとに否定された上に、突っ込みまで入れられた。
「じゃあ、何でしょう」
実は言った小玉も、相手が復讐するとは思っていない。するならとっくの昔に懲戒されているはずだ。そんなありそうにない可能性ぐらいしか心当たりがない。
「多分……閣下のお心に触れるものがあなたにあって、目をかけられたのではないかと思うわ」
それ『目をつけられた』の間違いじゃないかと、誰もが、言っている本人でさえ思った。
ほらあなた、一応武功立てているから……一応ね、という柳直長の言葉が空々しい。そして繰り返される「一応」という言葉が柳直長の本心を反映していて素敵である。
「まあ、」
ふっと微笑んで、柳直長が小玉の肩を叩いた。
「なるようになるから、なるようになりなさい」
禅問答のような激励だったが、小玉は結構無責任なそれに反発せず素直に頷いた。
「はい、そうします」
いや本当に、なるようにしかならないのだし。
異動まで三日間の猶予が与えられた。三日目には荷物をまとめて新しい宿舎に移らなければならないが、元々私物は少ないのだから急ぐことはなかった。小玉が荷物をまとめ始めたのは、二日目の朝からだった。
小玉以外の女性の兵卒は、定型通りに異動はない。従って、宿舎で荷物をまとめるのは小玉だけだった。片づける小玉を手伝いながら、阿蓮がぽつりと言った。
「寂しくなる……」
「……うん」
小玉の声も浮かない。気心の知れた仲間と離れるのは寂しいし、何より不安だ。特に、これから行く先に女性がほとんどいないとあれば。
二人はしばし無言で手を動かす。それほどたたずに荷物はまとめ終わった。あとは明日掃除して、転居すればおおしまいだ。
「おつかれー、ありがとう」
「ちょっと汗かいたね」
二人、汗を拭きがてら水でも飲みに行こうかと部屋を出た。そして気づいた。どことなく騒がしい。
「なんかうるさい」
「何だろ」
と首を捻りつつ、井戸まで行く。そこには数人の同僚達がいて、何やらさざめき合っていた。世に言う井戸端会議の様相である。
その中の一人が、近づいてくる小玉達に気づくと手招きしてくる。二人はそれに従い、彼女たちに近づいていった。
手招きした相手が、開口一番言ってくる。
「ね、聞いた? 昨日の夜、大家が崩御なさったらしいわ」
「へ?」
「えっ!」
この時代、皇帝の尊称として「大家」という言葉が使われている。