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ある皇后の一生  作者: 雪花菜
終章
85/86

 畑を耕す合間にほんのちょっと、と思った午睡は思いのほか深かったらしい。

「叔母さん、叔母さん」

 呼ぶ甥の声で目が覚めた。


「なに?」

「客が来た」

「誰?」

 甥はニヤリと笑って言った。その顔、なんだか自分に似てて嫌と言ったら、本人も嫌そうな顔をしたことがある。甥の嫁はそんな顔が好きらしい。物好きな。

「見ててなんだかいかがわしくなる感じの客さ」

「なるほど」

 くっくっとのどの奥で笑いながら、どっこいしょと声をあげて立ち上がる。

「ババくせぇなあ……」

「実際ババアだしねえ。もうすぐお迎えがくるよ」

 その言葉に、一瞬だけ遅れて、甥が返した。

「世にはばかってくださいよ、叔母さん」

 声が少し震えていた。そのことには触れず、

「もうずいぶんはばかりすぎたよ」

 と言って、彼女は家路についた。




 家に戻ると、土間に一人の男が這いつくばっていた。

「母后陛下にお目通りかないましたこと、恐悦至極……」

「ああうん、立って」

 しゃがみこんで、彼を立たせる。こうしないと、この男はいつまでたってもこの体勢でいるからだ。

 あんたまさかあたしが戻ってくるまでずっとこの体勢かい……? と思ったりもするが、怖い答えが返ってきそうなので、あえて聞かない。

 顔を上げた男は、彼女の夫だった男によく似ている。当然だ、息子なのだから。とはいえ、関小玉の産んだ子ではない。結局彼らの間には子供は生まれなかった。やることあんまりやってなかったから、当然だが。

 この男……いまや皇帝となった義理の息子は、父の正妻である彼女をこよなく尊敬して、礼儀をつくしてくれるいい子だ。

 夫の子供で生存しているのはこの子だけだ。この子の兄たちはある事件に連座して、夫の命令で処刑された。痛ましい事件だった。

 いろんな人間が死んでいった。その大半は、自分が見送ると思っていなかった相手だ。友人、上司、部下……夫。特に夫は、あいつ年下のくせにと何度言いたかったことか。自分で蒔いた種は自分できちんと刈り取って死んで欲しかった。


 そう、自分のこととか。


 夫が死んだ後、一番問題になったのは、おそらく彼女の処遇であったのだろう。なにしろ立場が複雑すぎる。だから、自分が庶人に落とされた時も、彼女はそれくらいは当然だと甘受していた。

 むしろ、処置を下す義理の息子の方が「お許しください」と頭を下げたくらいだ。悔しそうに「父帝陛下のご遺言なのです」と付け加えられた言葉に安心すらした。あんたちゃんと、後のこと考えて死んだのね、と思った。

 とはいえ、民衆に人気のある彼女に対する処置で、彼が突き上げを食らったのは間違いないから、やはり夫は死ぬのが早すぎた。彼女が夫より先に死ねば後腐れなかったのだ。

「母后陛下、息災でございましたか。不自由はございませんでしたか」

 皇帝となった義理の息子は、おりにふれてお忍びで様子を伺いに来る。忙しいだろうに、本当にいい子だ。

「ああ、元気でやっていたよ。不自由はないね。そちらはどう?」

「皆、何事もなく……」

 男は、彼女も知る者の近況を、細かに説明していく。彼女はそれに、うんうんと頷く。


「……ですが、将軍たちの中には、母后陛下にお戻りいただきたいと申す者もおります」

「ま、頑張れ」

 そこはうんと言わずに突き放しておく。


「陛下……」

「あたしがあの場に戻っても、長い目で見れば悪い結果にしかならないよ。あたしはあそこにいすぎた……ぎりぎりまで、いさせてくれて、感謝してる」

 そう、十分すぎるほどに。限りなく若い頃の決意通りに。だから、彼女は自分の現在になんら悔恨の念を抱いていない。しかし、男は違うようだった。

「母后陛下……いえ、義母上」

 そう言って居住まいを正し、関小玉の手を取る。

「余……私には納得ができないのです。父帝陛下のなさりようが」

「あたしには納得できてるから、安心しなさい」

「ですが……!」

「年寄りを、あまり働かせるもんじゃないよ」

 悪い子ではないが、結構頑固なのがたまに疲れる。



 しぶしぶと帰っていく義理の息子を見送るのは存外骨が折れた。年寄りであることを強調したせいか、健康に気をつけて欲しい旨を表現を変えて何回も言ってくるのをなだめて、半ば無理矢理追い返した。あの語彙の多さ! さすが最高の教育を受けただけある。


 

「やれやれ……丙! あたしはもう一回、畑行ってくるわ」

「あんま根を詰めんなよ、叔母さん!」

「はいよ」

 赤ん坊を抱きかかえた甥が、奥から出てきた。

「わたくしも、一緒に……」

 そう言うのは甥の嫁だ。

「いや、いいから」

 家族水いらずで過ごして欲しい。一人で外に出た。

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