5
少年には長い間名がなかった。
理由は、名付けてくれる人がいなかったからだ。いや、いるにはいるが、その人と生まれてこの方会ったことがなかった。
その人は、少年が生まれる前から遠い都で働いていた。どうしてなのかはわからない。両親と祖母はその人を恩人だと言っていた。お前の命の恩人なのだと。その人がいなければお前は生まれてこなかったのだと。
だから、お前の名前は、その人がつけるべきなのだと。
もっと幼い頃ならば、顔も知らないその人を素直に慕っていた。しかし、何年もここに来ず、その感ずっと自分の名前がないとなるとそうもいかない。
名無しと毎日のようにからかわれると、否応無く心も荒む。
やがて、父が死に、祖母が死んだ。それでもその人は来なかった。
だから少年は、その人が嫌いになった。
顔も知らぬ叔母を。
祖母が死んでから、母はめっきりふさぎこむようになった。姑と嫁という関係であっても仲の良かった相手が死に、心に打撃を負ったのだろう。彼女が唯一微笑むのは、まるで自身に言い聞かせるようにある言葉を呟くときだけだった。
「大丈夫、もうすぐ彼女が帰ってくる」
何の根拠があるんだよといつも思っていたが、後で知ったところによると、何の根拠もなかったらしい。
この時少年には知らされてなかったが、当時叔母は戦場に行っていたのだという。母は本当に自分に言い聞かせていたのだ。だが、知らされていなかったため、彼の叔母に対する悪感情はうなぎ上りもはなはだしい状態だった。
そんなある晩、扉をほとほとを叩く音がした。おとぎ話や怪談の契機となるような状態だ。
母が警戒しながら声をかける。
「あたし、あたしよ。三娘さんじょう」
詐欺かよ。
しかし母はそんなあやしいいらえに目を見張った。つまずきながら扉に駆け寄り、開けるとそこには祖母によく似た、しかし祖母よりずっと若い女性がいた。
驚いてその人を見つめていると、彼女はみるみるうちに目に涙をため、泣き出した。母も彼女に抱きつき、泣く。しばらく女二人の泣き声だけがその場を支配した。
説明されなくても、状況からわかる。彼女が叔母だ。
叔母は、戸口で泣くだけ泣くと、祭壇の前でも泣いた。簡素なこしらえのそれの前に這いつくばり、頭を地に打ち付けながら泣いた。祖母と……それから、先に亡くなった父に詫びながら。
自分もこっそり涙ぐんだのは内緒だ。
そうしてようやく落ち着いた叔母は、自分の頭をなでながらこう言った。
「本当に兄ちゃんにそっくり……名前は?」
母と自分の間に衝撃が走った。
「……!!」
「?」
母がふるえながら言う。
「ままま、待って、あんたに名前つけてもらうために待って……」
「は!?」
今度は叔母に衝撃が走った。
そこから先、呆然とする自分をよそに二人の会話が怒涛のように流れたことをよく覚えている。
ちょっとなにそれ聞いてないけどだって妊娠したときにあんたが帰って来たときに名前つけてもらうって書いていや読んでない何回も家から来た手紙読み返してたけどそんなこと全然書いてなかった書いてたら帰るなり人づてで名前寄越したりするわよてっきり忙しいんだと思ってたそんなときは確認しようよ義姉さん誰に手紙書いてもらったのえっとあの時は向かいの王さんとこのご隠居に……。
ここで叔母が絶叫した。
「あのジジイ!」
そして、そこらへんに立てかけておいたクワを片手に飛び出して行った。
呆然としっぱなしの頭で思った。
そういえばあそこのじいさん、10年近く前から呆けかけてるって話だった。そして……。
ほどなくして、叔母は何故か両手にたくさんの野菜を抱えて戻って来て、開口一番。
「ちょっと、あそこのじいさん死んでるじゃない!」
王さんとこのご隠居こと、王八さんは去年ご逝去している。
とりあえず、誰を恨むにしても、自分が名無しだったのは叔母のせいではないということはわかる。
なにしろ、最初から知りもしなかった事情なのだ。叔母が手紙で名前を聞こうとしなかったのは、幼い子供の名前を書きつけると悪い霊がよって来るという風習によるものだから納得できる。
では、この鬱憤はどうしよう。
しばし悩んだ後、よしと頷く。
……まいっか。
このしばし後に丙へいと名付けられた少年は、後によく叔母に中身がそっくりと言われるようになる人物だった。
特に、後に引きずらないという点で。