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泣きながら目をさました。
「起きた?」
阿蓮の気遣わしげな顔が目の前にある。
「あ……」
悪い夢を見た。そう言おうと……思おうとしたが、しかしそれは出来なかった。
だって血のにおいがする。小玉が殺した二人の血のにおいが。それは決して幻覚などではなかった。
「洗いたい……」
発見された時にはすでに高熱を発していた小玉は、当然身を清める事はできなかった。阿蓮が濡らした布で体を拭いてくれてはいたが、当然こびりついた血が全て落ちるわけもなかった。風呂に入りたい。小玉の希望は至極もっともであろう。しかし、
「あんた死にたいの!?」
この場合、阿蓮の一喝の方が更にもっともだった。この時期に、風邪を引きながらなお風呂に入りたがる奴は、ただの馬鹿か自殺志願者だ。もちろん、小玉はそのどちらでもない。しかし、消えてしまいたいような気分は少しあった。
熱に浮かされた頭で、それでも頭の隅は冴えていた。その部分で昨晩よりはずっと冷静に小玉は自分の為したことを考えていた。
人を殺してしまった。
正直、覚悟などしていなかった。仕事は安全だと思っていたし、誰かを傷つけるようなことが起こるとは思っていなかった。そもそも小玉たちがいるところにたどりつくまでに、他の警備を乗り越える必要があるのだから、そう思うのも無理はない。だが兵を置き、訓練させるからには相応の必要があるのだ。甘かった、と小玉はほぞをかんだ。自分は甘かった。次はうろたえないようにしなければならない。理性はそう考えた。
しかし、頭の大部分は感情で埋め尽くされ、それは泣きわめいていた。もう嫌だ、こんなところ。一生嫁に行けなくてもいいから、故郷に帰りたい。母ちゃん、兄ちゃん、義姉さん。
小玉の目の縁から涙がこぼれ、頬を伝った。阿蓮がはっと息をのむと、彼女はゆっくりと瞼を閉じ、かくんと首が落ちた。そう、それはまるで臨終にありがちな光景……まさか!
「ちょっとおぉぉぉ!?」
阿蓮は慌てふためいて小玉の元に駆け寄って、そのまま覆い被さる。
「小玉? 寝たの? 寝たのよね? 死んでないよね!?」
もちろん襲おうとしている訳ではない。呼吸を確認しようと思ったのだ。阿蓮は彼女の口元に寄せた頬をよせる。呼吸を確認するには、頬が一番いいと誰かが言っていたようなそうでないような。ほどなく、規則正しい呼気を肌に感じてほっと肩の力を抜いた。よかった、寝ただけか。
身を起こし、小玉の顔を見下ろす。真っ赤に染まった顔に汗の球が浮いていた。阿蓮は寝床の近くに置いていたたらいの水に布を浸し、そっと拭った。それが終わると、今度は小玉の髪を布で挟んで引き抜く。布を開くと赤黒い線がうっすらと浮いていた。阿蓮はため息をついた。
小玉が浴びていた返り血を拭ったのは阿蓮だ。しかし、すでに乾きかけていた血は完全にはぬぐい取れなかった。特に髪にはしっかりとこびりついていて、完全には落ちない。風呂に入れるほど小玉の体調が回復するまで、おそらく髪は保たないだろう。
だからといって阿蓮にはどうすることもできなかった。無駄とはわかっていても、再度小玉の髪を拭う。すると、部屋の外から呼ぶ声が聞こえた。
「はい、どうぞ」
呼びかけると、一人の女性が部屋に入ってきた。阿蓮と小玉の上官だ。阿蓮は慌てて礼をとる。上官は寝床に臥す小玉を見て、ほうとため息をついた。
「まだ目は覚めないのね?」
「はい……あ、いえ、さっきちょっと起きましたが、また寝ました」
「そう」
頷くと上官は険しい顔でじっと小玉の顔を眺める。無言のまま時が過ぎる。はっきり言って、居心地が悪い。
「あのぉ……」
恐る恐る声を掛けると、上官はふっと顔を上げ、懐から何かを取り出した。
「あの、これは……」
「起きたら彼女に渡すように」
そう言うと、上官は部屋を出て行った。阿蓮は手渡されたものをためつすがめつし、少し考え小玉の枕元に置くことにした。そうすれば風邪も早く治るのではと思った。
いつの間にかまた眠りに就いていたのであろうか。
再びの覚醒は唐突だった。まるで水面へと急上昇するように、頭の奥底から押し上げられるような感覚。ぱちりと目を開くと前回の覚醒の時に頭にまとわりついていた靄が取り払われたように、意識は澄み渡っていた。どうやら熱は下がったらしい。目の奥に微かな痛みを感じるが、これは寝すぎたからであろう。
あたりはもう暗い。自分のやったことを意識しないようにしながら身を起こし、視線を巡らしても暗がりしか見えない。しばらく闇に目を凝らしていると、ようやく物の輪郭が見えてきた。隣の寝台にある膨らみは阿蓮だろう。起こさないようにそろりと寝台から降りると、小玉は部屋を出た。決して自棄を起こそうとしている訳ではない。喉が渇いているのと、用を足したかっただけだ。
部屋に戻った頃には、すっかり目が暗さに慣れていた。阿蓮の寝台の膨らみが呼気にあわせて微かに上下しているのもおぼろげに見て取れた。自分も布団の中に潜り込もうとして、ふと枕の脇に置かれたものに気がついた。なにやら白いもの。手に取るとそれが紙であることがわかった。
すぐわかった。この大きさは手紙だ。
小玉は転がるように寝台から降り、部屋にただ一つある明かりとりの下へと行った。微かに漏れでる月光にかざせば、表書きが見えた。小玉は字を読めないし書けない。だから表書きも模様にしか見えないが、それが実家から来る手紙にいつも書かれているものだというのはわかった。
小玉はすがりつくように手紙を胸に抱え込んだ。帰りたい、帰りたい。静かに嗚咽をこぼしていると、肩に手が置かれた。いつの間にか起きていた阿蓮だった。その手に促されるまま、小玉は自分の布団の中へと潜り込んだ。しっかりと手紙を抱きしめたまま。
やはり若さが物を言ったのだろうか。小玉の風邪は数日間で完治した。
「こじらせなくてよかったね、ほんとに」
「ん……」
小玉の髪を切る阿蓮が呟くのに軽く頷いた。頭がどんどん軽くなっていくのは、それが毛先を整えるような簡単なものではなく、首の付け根からばっさりと切り落としているからだ。ここまで思い切りよく散髪しているのは、もちろん精神的な区切りをつけようというものではない。血がこびりついた状態で洗えなかった髪は、やはり手の施しようがないほど傷んでいた。
仕方がない。髪はまた伸びるのだし、風邪っぴきの風呂で死ぬよりはましだ。小玉は自分にそう言い聞かせる。桶に張った水に映る自分はまるで少年のようだった。
「はい、これで……」
「ありがとう」
阿蓮に礼を言って、小玉は頭に手をやる。襟足の短くなったところに触れ、さわさわとその場所を何度も撫でる。無心に同じところを繰り返し撫でる小玉に、阿蓮は怪訝そうに尋ねた。
「どうしたの?」
小玉は真顔で答えた。
「意外に手触りがいいんだね、ここ」
「やぁだ、何言ってるの!」
阿蓮が大笑いしながら、小玉の肩にかかった細かな毛をバシバシ払い落とす。
「これから、柳 隊正さまのところへ行くのよね?」
柳隊正は、小玉の上官・柳銀葉のことで、隊正とは、軍において50人の兵を率いる地位である。そこそこ偉い。
「うん。なんか呼ばれてて」
「何だろうね。ご褒美でももらえるのかな?」
「んー……」
小玉は曖昧に頷く。ご褒美を貰えるような「何か」をしたのを思い出して、少し気が重くなった。それを見て、阿蓮が慌てて場を取り繕うとする。
「あ、や、えと、ほら柳隊正さまのご用が終わったら、手紙読んでもらえばいいんじゃないかな、あなたの実家から来たやつ!」
なるほど。それは……
「いいね!」
小玉は顔をほころばせた。
実家から来た手紙はまだ読んでいない。というか、読んでもらっていないといった方が正しい。読み書きができない小玉は、誰かに朗読してもらわないことには、内容を把握出来ないのだ。しかし、風邪で臥せっていた間、小玉が誰かにお願いしに行く余裕など有るわけがなかった。もちろん、同室である阿蓮も文字を読めない。だが上司である柳銀葉は読み書きができる。そしてしばしば部下の手紙を読んでやったり、代筆してやったりもしていた。小玉も阿蓮もそのお世話になっているクチである。
思い立つと、今すぐにでも手紙の内容を知りたくなる。これまで精神安定の道具としての活用にのみ終始させて、本来の用途を失念していたが、そもそも手紙は情報を伝達するものである。小玉はようやくそのことを思い出した。
小玉は毎晩抱きしめて寝ていたせいでしわが寄っている手紙を懐に入れた。
「じゃあ、行ってきます」
行ってらっしゃいという阿蓮の声を背に、小玉は部屋を出た。
「関小玉参りました……」
いらえに応じて柳隊正の部屋に入ると、彼女はどこか困ったような笑いを小玉に向けてきた。
「これから、私と一緒に出かけてもらうわ」
「ど、どこへですか?」
唐突な宣言に、小玉はうろたえて尋ねた。
「沈中郎将閣下のもとよ」
「しんちゅうろうしょう……」
「偉い人です」
小玉が「それって誰ですか?」と聞く前に、上官はさっさと答えた。部下の質問を先読みする洞察力。これが上に立つ人の力……! などと小玉は胸の裡で感心するが、この場合は単に小玉があまりにも読まれやすいだけであって、むろん柳隊正の指導力その他とは一切関係がない。
「そのぉ、偉い人の所にあたしなんかがどうして行くんでしょうか」
この場合の「なんか」というのは、謙遜でも卑下でもない。なんといっても、小玉は下っ端の中の下っ端。「沈中郎将閣下」というのがどれくらい偉いかわからないが、自分よりずっと偉い上官が更に偉いと言うのだ。本来自分が目通りできるような相手ではないということくらいはなんとなくわかる。
「沈中郎将閣下は今回の事件の後始末をなさった方で、あなたから話を聞きたいそうよ」
一拍の沈黙。
「あー、えー、何を話せばいいんでしょうか……」
「聞かれたこと何もかもを、よ」
恐る恐る尋ねる小玉に、柳隊正は明快に答えた。明快だがあんまり参考にならない。なんかこう……。
「そうね、付け加えるならば、聞かれない事は何も言わないように。ボロが出るから」
「わかりました!」
すごく参考になった。小玉は力強く答えた。何か喋るとボロが出ると思われていることに、馬鹿にされたとは思わなかった。だって、あまりにも当然すぎる。小玉は己を知っていた。
「あとは、部屋に入る時……」
その後、いくつか礼儀上の注意が続く。小玉はそれを神妙に聞き、あとはとりあえず大人しくしてりゃいいんだろうと腹を決めた。一つ気になることは、懐の手紙はいつ読んでもらえるのだろうかということだった。