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ある皇后の一生  作者: 雪花菜
一章 ある少女
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 寒い日にはよくある、月がきれいな晩だった。

 外を1歩出て、小玉は身震いした。雪が無い夜にありがちな鋭い寒気が身を苛む。

「さむっ」

 言葉と共に白い息が吐き出される。息を吸えば鼻の奥がちりちりと痛んだ。

 腕をさすりながら、小走りで鍛錬所の厠へと向かう。幸い、月光のおかげで足下ははっきり見える。厠の中もすき間から差し込む光のおかげで明るく、探し物はすぐに見つかった。安普請も時に利点があるものだ。あまりにも限定的な上に特殊な状況下であるため、利点といえるかどうかは難しいかもしれないが。

「あー、よかった……」

 見つけた剣を鞘から引き抜く。確かに自分のものだ。鞘に収めると、小玉は剣を抱えてそそくさとその場から立ち去った。

 先ほど兵舎へ戻った時同様、後宮の塀に沿って進む。寒いし眠いしで、足は自然小走りになる。順当にいけば、ほどなく小玉は兵舎にたどりつき、剣の手入れをした後布団に潜って熟睡したであろう。しかし、そうはならなかった。そしてこの夜の不眠の理由が、小玉の人生における転機の一つとなる。



 あれ?


 前方になにか動くものを認めて、小玉は足を止めた。動くものといえば生き物であろうが、警備の者ではないはずだ。さっき小玉が通った時には、そこには誰もいなかったのだから。かといって野生動物でもない。宮城の内部の、それも後宮の周辺に生息しているというのは、ちょっと考えられない。当然不審に思って、小玉は目をこらしつつ、歩を進めて近づいた。高い塀のせいで月光がかなり遮られているが、夜に慣れた目はそれが一組の男女であることを認めた。

 その時、小玉が思ったのはこんなことだった。


 はあ、こんな寒い夜に逢い引きかあ。熱いねえ。


 小玉はこれを、後宮警備の女性兵と一般兵の逢瀬だと考えた。となると、その横を突っ切るのはあまりにも気まずい。どうしようかな、と考えていると男の方がこちらを向いた。

 その瞬間感じたものを、小玉は何と表現すればいいかわからなかった。彼らの置かれた状況からして、それはおそらく、驚愕、怒り、憎悪、恐怖などの感情が渾然一体となって男から発せられたものだったのだろう。だが、まだ人生経験の浅い小玉には『嫌な何か』としか感じ取れなかった。しかし、それだけでも今自分が目にしているものが、ただの逢い引きではないということがわかった。

 そして、自分は今何かまずいものを見ているということも。

 我知らず、手にした剣をぎゅっと握りしめた。するとまるでそれを合図にしたかのように、男が歩み寄ってきた。シャッという音が響く。何の音だろうと疑問に思うより早く、月光を反射した刃が目に入った。男が剣を抜いたのだ。

 小玉がはっと息を呑んだ瞬間、男が斬りかかってきた。


 その時の自分のことを、小玉は覚えていない。もしかしたら訳の分からない絶叫をしていたのかもしれないし、あるいは無言であったのかもしれない。気がついた時には小玉は、抜き身の剣を手にし地に伏した男をぽかんと見下ろしていた。

 男の体は左の脇腹から右の肩まで斜めに開かれ、ぴくりとも動かない。絶命しているのは明らかだった。どうしてこうなったのだろうかと思う以前に、今自分が何を見ているのかがわからない。

「ひっ……」

 声が聞こえた。小玉はのろのろと顔を上げた。女がいた。夜目にも白く見えるかんばせを引きつらせて、彼女は言った。

「ひとごろし……」

 喉からやっと絞り出した、微かで裏返った声だったが、小玉は打たれたようにびくりと身をすくませた。

 それに力を得たかのように、女は絶叫し、駆けだした。手には匕首。

「人殺し!」


 思考は停止したまま、それでも今度はきちんと覚えていた。


 まるで動いていない頭と裏腹に、体は滑らかに動いた。女の手から匕首をはじき飛ばし、その首を薙ぐ。噴き出す血が全身にかかる。女が地面に倒れ臥す。生暖かかった血が急速に熱を失っていく。


 手から力が抜け、剣が滑り落ちた。がちんという鈍い音が耳に入った瞬間、小玉の頭は『記憶』するだけの状態から、『理解』という状態に移行した。

「あ、ああ、あ……」

 体がおこりのように震える。足に力が入らず、崩れるようにその場に座り込んだ。

 何が起こったのか、何をされたのか……何をしたのか。

 理解はした。だが、受け入れられるかどうかは話が別だ。思わず震える手を口元に持って行き、ぬるりとした感触と生臭さに気づいて盛大に吐瀉した。地面に手をこすりつけて必死に血を拭う。手が土まみれになることを今日ほど歓迎したことはない。血まみれよりずっとましだった。

 やがて小玉は、うずくまってすすり泣き始めた。いつまでも帰ってこない小玉を心配した阿蓮が駆けつけてくるまで、ずっと。




 何とも面倒なことになったと、銀葉はため息をついた。もっともそれは心の中でのみ留めておく。なんといっても上官の前なので。

おそらく、自分と並んでいる同輩も同じ気分であろうが、今もっとも憂鬱なのは自分だろう。

 

 夕べ、ある事件が起きた。といっても、事の次第は単純な話である。

 後宮に入った女には言い交わした男がいた。男は後宮に忍び込み、二人は手に手を取り合って逃げようとしたところを見つかってバッサリやられた。なんてかわいそうだこと。小話などでよく聞くような悲恋である。しかし、関係者にとっては単純に同情できる話ではない。おそらく彼らの身内は刑に処されるであろうし、銀葉ら後宮周辺の警備を行う者たちも、男を侵入させたということで責任を問われかねないからだ。

 だが、今回それは無いだろうということを銀葉は予測していた。逃げようとした二人を始末したのは警備隊に属する者だ。もし男の侵入についてこちらに非があったとしても、これで相殺されるはずだからだ。上官の気分次第で変わることも考えられるが、今回この事件の後始末をしている上官は、謹厳実直で人望をあつめている人間だ。そういうことはまずないだろう。

「……次はない。それを覚悟しておくように」

 案の定、上官からは叱責というか訓戒で終わった。安堵してもいい。実際、同輩たちはそうしているだろう。しかし、銀葉はまだ安堵できない。

「ところで、彼らを斬った者は誰だ?」

 予想していた問いがついに発せられ、銀葉はああ、と頭を抱えた。もちろんこれも、心の中でのみのことだ。

 同輩の視線が自分に集まる。銀葉は口を開いた。

「今はおりませぬ」

「では連れてこい」

 上官の言うことはもっともであるが、銀葉はそれをしたくなかった。

「……どうかお許しくださいませ」

「なぜだ?」

 当然、理由を聞かれる。銀葉は重ねて言った。

「今、せっておりますゆえ」

「怪我でも負ったか?」

 怪我ではない。上官もそれはわかっているだろう。死んだ男の剣にも、女の匕首にも誰かを刺した跡はなかったということを気づいていない訳がない。それなのに、このような問いを発せられるということは、自分が部下の手柄を横取りするつもりで連れてこなかったのだと思われているのかもしれない。もちろんそんなことはない。銀葉はきっぱり言った。

「いえ、風邪をひきました」

 一拍間をおいて、上官が呟く。

「風邪」

「はい。夜間に大立ち回りを繰り広げた後、汗を拭く余裕がなかったらしく」

「なるほど」

 相手が納得した顔で頷いた。実際、銀葉が言ったことに何ら偽りは交じっていない。

「ならば、本復した後に私の元に連れてくるように」

「御意」

 それで話は終わりだった。銀葉たちは礼をすると、上官の前から退出した。


 確かに銀葉の部下は風邪をひいている。だが、銀葉が部下を連れてこなかったのは、別の理由からだ。


 ゆうべ、銀葉が報告を受けて現場に駆けつけた時、彼女の部下はうずくまって震えていた。怪我はなかったが、初めて人を殺したことで心に大きな負荷が掛かっていることは明白だった。15歳といっても兵士なのだから、甘いといえるかもしれない。だが、銀葉たちの仕事というのは少し特殊で、誰も傷つけずに仕事を終える者もいるのだから、部下には人を殺す心構えが出来ていなかったはずだ。精神的な打撃は相当なものだっただろう。

 かわいそうに。

 銀葉はため息をついた。銀葉にとっては死んだ二人よりも、それを斬った部下の方が哀れだった。しかしそれは、部下が人を殺したことに対してではなく、心構えなしに人を殺したということに対してだった。

 銀葉は将来的に部下は人を斬るであろうと思っていた。もちろん、滅多に刃傷沙汰にならない後宮周辺の警備の場においてではない。あれはその枠に収まらない器だと銀葉は考えていた。

 銀葉は、図らずとも部下の修行の成果を示した死体を思い出す。

 見事な切り口だった。

 もちろん、一流の腕とはいえない。しかし、あれを為したのが剣を握って約1年の少女だと考えると、なんとも末恐ろしい。

 銀葉はその才能を潰さないよう慎重に育ててきたつもりだった。だから、そのために人を斬る覚悟をおいおいつけさせて行こうと思っていたというのに、ここで潰れてしまうのだろうか。

 銀葉はもう再びため息をついた。そうはさせたくない。だが……そうなった方が、人として幸せな人生を送れるかもしれないということも頭にはあった。


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