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あの女、腹立つ、腹立つ、腹立つ!
周文林は、荒れ狂う気持ちを押さえながら、表面上は落ち着き払って筆を動かしていた。だが、そんな状態で集中が続くはずがない。
「あ」
という声を発するよりも早く、筆からしたたった墨が紙をよごした。これから提出する報告書だ。
周文林は我知らず舌打ちをした。どうしようかと数瞬間考え……あの女こと、上官の言葉を思い出した。
ええ?いいのよそんなもん、多少汚れてても。
迷わず書き直すことに決めた。
失敗した紙をぐちゃぐちゃに丸めて机の端にのけると、新しい紙を求めて立とうとし、急に目の前に白いものがひらめいて驚く。新しい紙を、同僚が差し出していた。
「どうぞ」
「……ど、うも」
言葉が不自然に区切れたのは、驚きがまだ持続しているからではない。周文林にとって、相手はちょっと苦手な存在だったからだ。
綺麗に施された化粧、簡素だがよく似合った髪型。中々の美女に見えるが、その身長は中背の周文林よりも高い。
そう、相手は女装した男だった。
それだけでもちょっと引くのだが、
「ああ、良いってことよ」
中身や声が男のままというのが、なによりもアレである。一体なんのための女装なのか、苦手な相手でなければ直接追及しているところだ。
そして、
「気にしなくていいわよ。復卿は外見が女ってだけだから」
それを「だけ」ですませる上官もとってもアレだ。しかも関小玉は復卿こと、黄復卿の女装の理由を聞かずに許容しているらしい。
はじめて黄復卿に遭遇(文林的にはその表現が一番正しい)し、驚愕のまま関小玉に尋ねたときの返答を、周文林は忘れない。
「さあ?」
その一言で済ませる関小玉を、大物と称する者もいるかもしれないが、周文林はただのバカだと思っている。
「彼女はね、裸で出勤しなければなんでもいいと考えているんだと思うよ」
と、黄復卿と同じく同僚の張明慧は笑う。彼女も見た目の上では、黄復卿と逆の方向性に衝撃的な人物だ。おそらく、関小玉の腰回りくらいはある腕といい、筋骨隆々とした肉体は、大抵の男性兵士よりも鍛え抜かれている。武威衛最強と言われているのが、見た目だけで納得できる人物だ。
こちらは黄復卿と違い、言われるまで……言われても女性とは信じられない。
なんでも剣術道場の末娘なのだとか。息子に恵まれなかった父親が張明慧に自分の技量を伝えたところ、想像以上に素質がありすぎたせいか、今のナリに成長したのだという。
娘の成長っぷりを父親が後悔しているかどうか、少し知りたい。
「おかげで嫁の貰い手がなくてね」
はっはっはっと磊落に笑う張明慧は、そういう理由で軍に入ったのだとか。
大体、この時代に女性で軍に入っている者というのは、なにかしらの問題のせいで嫁に行けなかった者ばかりだったりする。だから、結婚相手を見つけたらさっさと退役することが、暗黙の了解となっている。たぶん、張明慧は一生軍人だろう。
だが、軍にとってそれは幸運なことだろうと周文林は思う。張明慧は、有能で尊敬できる武官だった。
身近にあまり尊敬できない女性武官がいるせいで、余計にそう思うのかもしれないが……たとえば関小玉とか、あるいは関小玉とか、もしかしたら関小玉とか。
彼女こそ結婚して退役すればいいのにと周文林は思った。けっしてまずい顔をしている訳ではないのだから、男の一人や二人くらいすぐ見つかるはずだ。そしたら……。
いや。
周文林は思い直した。あんな女を外に放つのは迷惑だし、一人の男に面倒を見させるのはあまりにも不憫すぎる(もちろん男が)。やはり、あの女は軍で囲い込んで面倒を見る方が、世のため人のためというもの。そう思えば、関小玉の下で働く自分の苦痛も、多少は意味があるもののように周文林は思った。
なお結婚後も軍で働く、あるいは最初から軍人を志して軍に入る女性の登場は、何年も後になる。
「どうぞ」
「読んで」
周文林が差し出した文書を一瞥すると、関小玉はすぐさまそれを周文林に差し戻した。今に始まったことではないが、別にそれは嫌がらせではない。
関小玉は読み書きができない。
今の時代、それは珍しいことではない。とくに関小玉は貧しい農村の出だという。識字率が限りなく低いであろう地で生まれ育った彼女が、名前しか書けないということを責めることはできない。
だが、今もそうであるということは責めてもいいのではないだろうか。部下に書類を読ませて署名と押印だけすませるというのは、機密の漏洩や改竄の恐れを生む。
そもそも、そういう人間を出世させるのはいかがなものかと、文面を淡々と読み上げながら周文林は思った。
関小玉は目を伏せて、文林の声に耳を傾けている。寝てないだろうな、と周文林は思った。関小玉の勤務態度に対する彼の信頼は、最低値に近い。口を閉ざしてみる。関小玉が顔を上げた。
「どうしたの?」
「いや」
一応聞いていたらしい。周文林は読み上げを再開した。
関小玉の対応は素早い。まるで、なにも考えていないかのようだ。
「ん、わかった。貸して」
とくに内容を検討する様子もなく署名する彼女に苦々しさを覚える。押印しようとしたところで、周文林は彼女を止めた。
もう少し考えたらどうか。苦言を呈する周文林に、関小玉は「わかってないわね」とでもいうような態度で言った。思いもよらぬ言葉を。
「信用はしてるの、あんたのこと」
言葉を失った周文林をよそに、ポンと押される印。
「あ、やば。ちょっとズレた」
その言葉で我に返った。
「……って、なんてことを!」
慌てて書類を取り上げる。見れば、関小玉の言葉は嘘だということがわかった。
ちょっとではなく、かなり。
「枠、なんで枠使わなかった!」
「いや-、ごめん。これはごめん」
書き直し決定という事実に、頭を抱える周文林は、関小玉の衝撃的な発言をすっかり忘れていた。