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ある皇后の一生  作者: 雪花菜
一章 ある少女
19/86

15

 あーなるほどねーと、小玉は納得していた。陳叔安は馬鹿ではない。他人の言葉をあっさり信じたのは、よほど相手が信頼のおける人物だったからだ。魏光は確かにそういう人間だった。つい先日までは。

 その魏光は、論功行賞で褒美をもらい、近々階級が上がるそうだ。魏光の直属の上司の後押しもあって、今や彼は見事な出世株。常日頃良い子で通っている魏光の武勲を立てたという主張は、誰も疑わなかった。まだ沈中郎将に相談する前の小玉は何も言わなかったし、陳叔安も黙っていた。彼にしてみればとてつもなく不本意だったようだが。

 上司に相談したら、制止されたらしい。おみごと中郎将さま。あなたの言った通りでした。

 今や魏光の人物評価は、陳叔安の中で最低値を更新し続けている。彼は小玉にも憤っていたが、小玉を嫌うに至った経過をふと思い出し、あんな奴の言うことを信じて良いのかと疑問を抱いたのだという。

「や、嘘だからね。でまかせだからね」

「わかってる」

 叔安は重々しく頷いた。そして、ちっと舌打ちすると呟いた。

「あいつ、天罰とか当たって、今雷にうたれないかな……」

「死んじゃうじゃない。仮にも仲間に物騒なこというもんじゃないわよ」

 小玉はそっとたしなめた。陳叔安はそんな彼女をきっと睨んだ。

「仲間じゃなくて、仲間だったんだ」

 「だった」の部分が強調される。小玉はぽりぽりと頬をかいて、

「でもさあ、あたしにも責任あることだし」

「……そうか」

 その言葉に、陳叔安は渋い顔になったが、

「だからせめて、いきなりイチモツが役立たずになったせいで世を儚んで山に引きこもるとか……願うならそれくらいでいいんじゃないかな」

「そっちの方がエグいわ! せめてひと思いに殺してやれ!」

 小玉にしてみれば、雷にうたれて死ぬよりは、生きているだけマシだと思うのだが。結局、この件に関して二人の意見は、平行線のまま終わった。


 こいつ、光のヤツに怒っていないように見えて、相当怒っている……?

 叔安は、関小玉の表情を伺った。怒りの色は見えないが、その事にかえって不安を感じた。そんなエグい発言を、素で出来るということになるからだ。もう1回まじまじと、関小玉の顔を見たが、やはり怒っているようには見えなかった。代わりに別のことに気づいた。目元が赤い。

 そういえばこいつ、さっき泣いていたんだっけと思い出した。そしてそれは、叔安に対する申し訳なさによるものではないという、関小玉の申告も。叔安は尋ねた。

「なあお前、さっきなんで泣いてたんだ?」

「あー……それはー……」

 関小玉の目が泳ぐ。言ったらまずいことならば別にいい。そう口を開こうとするのが、あとほんの少し早ければ。

「失恋しちゃってさあ」

 叔安が硬直するようなこともなかったはずだ。

「……………………………………………………………………………」

 それでべそかいたらあんたを見つけたんだけど、「あ、そういえば謝らなくちゃいけないな」ってこと思い出しちゃったんだ。そしたら、頭ン中に余裕なかったからさ、それ以外考えられなくなって、泣いてるまんま突進しちゃったよ、あはは。

「……………………………………………………………………………」

 などと脳天気に頭をかく少女を、叔安はアホみたいに目をかっぴらいて、声もなく眺めていた。

 失恋。こういう状況に対して、どういう反応をすればいいのかわからない。お前も女だったんだなとか、おいおい誰に振られたんだよとかいう疑問を抱いて、そして口に出せるような人間ならば、叔安はもっと気楽な人生を送れるはずだ。

 しかし、この時の叔安は、

「……………………………………………………………………………」

(失恋したということは傷ついているということでだから泣いていたのであってこの場合なにか慰めの言葉をかけるべきなのだろうかとも思うが何を言えばいいのかわからない上にかろうじて思い浮かぶ言葉を検討しても例えば「ご愁傷様」というのはなんだか不吉だし「男は他に幾らでもいる」というのは男がいてもこいつが惚れるかどうかはまた別の話であって……)

「……………………………………………………………………………」

 大まじめに、(しかもいささか明後日の方向に)悩んでいた。句読点は適度に入れよう。

「……………………………………………………………………………」

(考えろ、陳叔安。お前はこんな事でくじけるような男ではないはずだ。突発的な事態に対処できない武官など、オガクズにも劣る。いいか、お前は今、男としての、武官としての度量を試されているんだ……!)

「……………………………………………………………………………」

 そして、勝手に己に試練を課していた。

 長い沈黙。叔安の首筋を、一筋の汗が伝う。

「……………………………………………………………………そうか」

「うん、そう」

 結局、何の捻りもないたった3音の言葉しか発せられなかった己に、叔安は言いようのない敗北感を覚えた。




 風が吹く。

 1年前に比べると大分伸びた髪がなぶられる。視界を遮られ、小玉は手で髪をおさえた。別れる相手をその瞳に焼き付けようと思って。

 引き継ぎのやりとりを、同輩達に混じって小玉は黙って眺める。それはどこか儀式めいていた。声は聞こえない。距離が離れているからだ。

 去っていく人を、所属する軍の多くの士卒が途中まで見送る。相手が兵卒ならばこうはならないが、今日出て行く人は文句なしの高官だ。その地位の高さに正比例して、見送りの数は多いし引き継ぎは長い。

 

 沈中郎将との個人的な別れは、もうとうに済ませている。これは公的なお別れだ。そして、今日を境に、自分は沈中郎将と2度と会うことはない。

 だが、まあ……機会が有れば、遠目で姿を見ることはあるだろう。だが、元より成就するはずのない恋だったのだから、その相手が下手に近くにいるよりはそれだけという方が良いのかもしれない。

 小玉はそう思うようになっていた。この考えが前向きなんだか後ろ向きなんだかは、今後の自分次第だろう。


 あ。

 

 小玉にはよくわからない、なんやかんやのやりとりが終わったらしい。沈中郎将が馬に歩み寄り、軽々と騎乗した。あの馬、小玉が世話をした沈中郎将の愛馬ともお別れだ。


 ふと、ここ数日の記憶が頭に溢れかえった。


 沈中郎将に連れられ、対面した新しい上官。ずいぶん気さくそうだが、堂々とした武人らしい人だった。今度の小玉の仕事は従卒ではなく、一般の兵卒としてのものらしい。おそらく、補給とか、後方支援関係の仕事をやらされるのであろう。

 特に不満はない。性に合っている仕事だ。

 それに、不満があったとしても、それが個人的なものであるのならば口にも顔にも出さない。それが勤め人というものだということを、小玉は軍に入る前から知っていた。その考えは、今後も変わらないだろう。だが、軍に入ってから考えが変わったことがある。


 自分は、このままずっとここでそういう仕事をしようと思った。


 徴兵される前は、そして、徴兵されてしばらくは、軍にいる間に後々の生活の算段をつけるつもりだった。退役が前提であるということが、小玉にとっては当たり前だった。

 だが、自分が求めていたのは、自分の力で自分の口を養うということだ。それが軍の中であっていけない理由はあるだろうか。

 そう考えた時、小玉は軍に骨を埋めることになっても悪くはないと思ったのだった。どこかに行くことも、戻ることもない。自分はここにいるのだ。

 覚悟というほど強いものではない。それに、一生を決めるには弱すぎる考えかもしれない。

 たまたまやった仕事を惰性でずるずる続けていると、たしなめられても否定できない。するつもりもない。

 実際、これ、と決めて軍に入った訳ではない。だが、2年働いて、この仕事を続けることを嫌だと思わない……その「嫌だと思わない」ということも、仕事を続けるに足る理由になるのではないだろうか。

 小玉にとって、1番重要なことは、自分で生きていくということだ。仕事はそのための手段であって、手段まで「これ」と決めてしまうほど拘りはない。そもそも、そんな余裕がない。

 自分は今、色んなものに押し流されている最中なんだと、小玉は思っている。選べるのは流れる時の体勢くらいだ。それで、流れの中に時々突き出る石にぶつからないようにすることが、出来ることのせいぜいなのだ。

 だから……そう、「悪くない」は今の自分の精一杯だ。

 それに小玉は、人生が自分以外の意志で容易く左右される可能性があるということを、これまでの経験からよくわかっていた。あまり頑なに決意していると、それで頭がいっぱいになってしまう。すると予想外の事態が起こった時、頭にはそのことを思考に組み込む余地がなく、取り乱したり、足下をすくわれてしまいかねない。

 そう考えた。

 それは賢い考えなのかもしれないし、臆病な考えであるのかもしれない。


 沸き起こった声に思考を中断された。

 沈中郎将と共に出立する兵達が一斉に声を上げた。沈中郎将が馬上で片手を上げ、号令をかけたのだ。

 沈中郎将の馬が動く。軽やかな並足で小玉達の前を横切る。それに続く兵達。向かう先には遮蔽物がなにもない。だから小玉は、人影がどんどん小さくなり、やがて見えなくなるまでをつぶさに見届けることができた。

 何も見えなくなっても、沈中郎将の消えた方を見つめた。やがて士官が号令をかけ、小玉達も動き出す。去っていった人たちとは反対側の方向に。


 小玉は1度だけ振り返った。

 吹き付ける風から砂のにおいがした。

 

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