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ある皇后の一生  作者: 雪花菜
一章 ある少女
16/86

12

「あ、ああ……!」

 小玉はどうと倒れこんだ。地に伏してしまいそうなところを、手にした大刀で身を支え、何とか膝を突く程度で留める。体の節々が痛い。手足が震えているのは肉体を限界以上に酷使し続けたせいだ。

 このまま眠り込んでしまいたい。その思いは、疲労からだけのものではない。

 立って歩いている者は味方のみという状態。そう、勝ったか負けたかどうかはわからないが、戦いが終わったのだ。夜は、とっくに明けていた。

 とてつもない安堵が小玉の心に満ちる。

 生きている。

 小玉は乾いた笑みを浮かべた。長く水分を補給せずにかさついた唇が引きつれて痛むが、そんなことはどうでも良かった。誰かが死んだなどということは、考えもしなかった。ただ、自分が生きていることが嬉しくてたまらなかった。

「おい」

 後ろから片腕をぐいと引かれた。のろのろと目だけを向けると、そこには見知った顔があった。名前は……ええっと、誰だ。頭が動かない。沈中郎将の側近の一人。

「無事だったか……」

 相手は安堵の表情を浮かべ、また小玉の腕を引いた。

「ほら。こっちに来い」

 小玉は動かない。もう1歩も動きたくない。拒絶のために首を左右に振るのさえ億劫だ。

「お前ここでぼうっとしてると、襲われるぞ」

 オソワレル?……って何だ。ああそう、強姦されるとかそういうこと。いーよもう、休ませてくれるなら襲われたって。

 疲労しきった頭は、とんでもなく投げやりだった。

 相手はため息をつくと、小玉の両脇に手をかけて、体をむりやり引き起こした。そのままずりずりと引きずる。小玉は抵抗しない。相手が連れて行ってくれる分には、問題はないからだ。だが、

「閣下がお前のことを心配なさっておいでだった。来い」

 1拍どころか10拍ほどおいて、小玉は言われたことを理解する。閣下。閣下は沈中郎将さま。あの方は自分に「来い」と言った。自分はそれに従わなければならない。

 小玉は、自分を引きずる男の腕をぺしぺしと叩いた。

「……た……ち、ます」

 喉からしぼりだした声は、老婆のようにしわがれていた。男の腕を支えに立ち上がる。そして足を踏みだそうとして……コケた。

 生まれたての子馬。そう言えば今の小玉の状態がわかるだろう。それでも何とか身を起こし、2、3歩あるいたが、真っ直ぐ進めなかった。

 結局。

「すいません……」

「いや、最初からこうしてりゃ良かったなあ」

 男に負ぶって連れて行ってもらった。恥ずかしくはなかったが、とても辛かった。何がって、眠ってしまいそうになるのを耐えるのが。だが実際のところ、忍耐かなわず、軽く寝てしまったようであった。


 後に男が言うには、

「お前、俺のこと『父ちゃん』とか呟いてなかったか?」

「そ、そんなことありませんよー?」

 多分。


 そうして、沈中郎将のところに連れて行かれた小玉を待ち受けていたものは、熱烈な再会の喜び……などではなかった。いや、生存を喜ばれなかった訳ではない、断じて。ただ、沈中郎将は事後処理で猛烈に忙しく、小玉のために割ける時間も感情も少なかったのだ。小玉の方にしても、相手はもっと喜ぶべきだと思うほど頭は悪くない。

「無事で結構」

「ありがとうございます」

 至極あっさりとしたやり取りの後、沈中郎将はまた方々に命令を下しながら、事後処理に奔走し始めた。そして、小玉もまた。

 小玉を真に待ち受けていたのは、後片づけである。すでに火は消し止められていたが、焦げた天幕を片づけたり、死体を運んだりと、やらなくてはならない仕事は幾らでもあるし、手は圧倒的に足りなかった。

 傷の治療を終えた小玉は、疲れた体に鞭打って、無言で仕事を始めた。ひいひい言わないのは、小玉が偉いからではない。ひいひい言うだけの余裕すらないからだ。それは他の者も同じであり、結果として辺りに声は殆ど響かない。

 いや。

「おい、お前」

 呼ばれたのは小玉だった。下らない用事で呼び止めたんだったら、心の中で八つ裂きにしてくれる……体動かしたくないからな! そんな気持ちで振り返ると、

「叔安……」

 どうやら生きていたらしい。疲労しきった顔に、血と煤が悪い意味で彩りを添えている。小玉もきっと同じような顔をしているのだろうが、その顔には小玉とは決定的に違う点があった。

 怒りである。

 陳叔安は、小玉の肩を掴んで言った。

「お前、あれでいいのか!?」

「……何が?」

 小玉は、確かに疲労のあまり、思考が大宇宙近くをさまよっている。しかし、たとえそうでなかったとしても、まったく同じ反応をしただろう。

 まったく、心当たりがなかった。

「お前、お前って奴は!」

 元気だね。激怒する陳叔安に揺さぶられながら、小玉は場違いなことを考えた。それは、疲労の極致であろうに、よくぞそこまで力が残っているもんだと、感嘆すらできる勢いだった。しかし、やっぱり陳叔安も疲れているらしい。いつまでたってもお前、お前としか言わないので、何に対して怒っているのかがさっぱりわからない。

「ごめん、やめて」

 揺さぶられすぎて、なんだか気持ちが悪くなってきた。自分の襟元を掴む陳叔安の手を引きはがす。

「『あれ』って何?何のことか、ほんと、わかんない」

「手柄横取りされて、何も思わないのか!?」

「……手柄?」

 ますます心当たりがない。

「……本当に覚えてないのか?」

「うん」

 完璧に困り切った様子の小玉に、陳叔安も勢いを緩め、確認の体勢に入る。

「お前、敵の偉い奴倒したろ」

 それは……

「気のせいでしょ」

 小玉はきっぱりと言った。まるで記憶にございません。しかし、陳叔安は更にきっぱりと言った。

「いや、間違いない。俺は見てた」

 ……じゃあ、問いかけの形を取るの、やめといた方が良かったんじゃないですかね。何とはなしにカチンときつつも、小玉は再び否定した。

「混乱で、誰かと間違ったんだと思う」

「絶対無い。だってお前、相手倒した後、そいつの剣奪ってたろ。今持ってるやつ」

 ……そういえば。

 何の疑問も持たずに背負ってしまっているが、今身につけている剣は、明らかに小玉のものではない立派なものだ。しかし、自分の官給品から何をどう変遷して今に至ったのかは、まるで思い出せなかった。

 だから、こういうのも成り立つ。

「奪った人が落とした後、あたしが拾ったという説はどうだろう」

「いい加減、観念して思い出せよお前」


 その後陳叔安が、小玉はいかに敵将を倒したのかということを事細かに説明してようやく、小玉は何となくだが思い出すに至った。


「よく覚えとく余裕あったね。あたし、目の前の敵倒すので精一杯だったよ」

「お前のいたあたり、近寄りたくないくらい激戦だったからな」

 高位の武官である沈中郎将には敵が群がっていた。その辺りをうろちょろしていた小玉は、格好の標的だったらしい。何の間違いか、ことごとく返り討ちにするか逃げ延びて生きているが、沈中郎将から離れて戦っていた方が、生存確率はもっと高かったに違いない。

「……」

 いやでも、中郎将さまは「来い」って言ってたし。うん、まあ……良いことにしておこう。

「で、その……横取りってなに。」

 そう。話は小玉が敵を倒したかどうかでは終わらない。重要なことがまだ説明されていなかった。

「倒した奴放っといたせいで、他の奴が首をあげて自分のものにしちまったってことだ!」

「ああ、そういうことなんだ」

 口にするのも忌々しいといった風の陳叔安に対して、小玉の返事はしごくあっさりとしたものだった。

「……」

 そんな小玉に、陳叔安は信じられないものを見る顔つきで押し黙った。そして小玉の顔を伺い、そこに何の衝撃も無いのを見て、不愉快そうに眉を顰めた。

「怒らないのか、お前」

「いや、別に……欲しい人は持っていけばいいんじゃないかと思……」

「お前、最低だな」

 最後まで言わせてもらえなかった。思いも寄らないことを言われて、小玉の口は「も」の音を発し終えた形のまま固まる。そんな彼女に、陳叔安は吐き捨てるように言った。

「軍隊を本当に腐らせるのは、お前みたいな奴なんだ。くそ、忠告して損した」

 そうして踵をかえし、陳叔安はずかずかと足音高く立ち去っていった。小玉は目をぱちくりさせ、その姿を見送る。そうして、「も」音の唇の形のまま、小首をかしげた。

「……?」

 自分は何か、間違ったことを言っただろうか。小玉はなぜ陳叔安が怒ったのか、まるでわからなかった。

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