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ある皇后の一生  作者: 雪花菜
一章 ある少女
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11

「小玉です。只今戻りました」

 そう言って天幕に入り、小玉はおやと首を傾げた。沈中郎将がそこにいなかったからだ。しかし明かりを消していないところからして、すぐ戻ってくるだろう。おそらくは厠なのではないだろうか。

 さっさと結論づけると、小玉は明かりの近くに座り、つくろい物を始めた。

 小玉はしばらく作業に熱中していたが、やがてふと顔を上げた。さすがに不審に思うくらい時間が経っても、沈中郎将が戻って来ないのだ。

 小玉は呟いた。


「便秘……?」

 あるいは、下痢?


 恋をしていても、その相手に変に理想を持たないのが小玉である。いくら綺麗な顔をしていても、人間である以上出る物は出るし、それが詰まる時も下る時もあるはずだ。体調は最高の状態を保てと言い、多分それを実行している沈中郎将だが、便通はしばしば人の意志を裏切る。特に、戦場なんて緊張感の連続なのだから、そうなったとしてもなんらおかしくはない。メシも悪いし。

 小玉は、沈中郎将が戻ってきたら腹具合を尋ねてみようと思った。あるいは、本人から言い出すかもしれない。それでもし、下っているか詰まっているかすれば、何か煎じてあげよう……。

 そう思っていると、天幕の入り口にかけられた布が揺れ、沈中郎将が入ってきた。

「ああ、戻ってきていたのか」

「はい」

 やりかけのつくろい物を一旦置いて一礼する。そのまま、沈中郎将が腹の具合について言い出すことを待とうと思ったが、すぐにそんなことはどうでも良くなった。沈中郎将が先ほど手入れをしたばかりの甲冑を身につけ始めたからだ。もう、これから寝るという時間だというのに。

 むろん、戦場である以上、沈中郎将は寝る時でも完璧に武装を解くということはなかった。だが、このように完全武装までして寝ようとすることも、これまでに無かったことだ。

 小玉は条件反射で沈中郎将が武装するのを手伝い始めたが、頭の中は当然疑問で一杯だった。

「これから出撃ですか?」

 沈中郎将は手甲の紐を結びながら、淡々と答えた。

「違う。だが、お前も今日は武装して……眠らないように」

「それは……」

 小玉にでも分かる。沈中郎将は今晩、襲撃があるのだと言っているのだ。


 小玉は、沈中郎将を手伝い終えると、自らもぎこちなく武装した。沈中郎将の腹具合のことは、当然頭からすっとんでいた。というか、この展開からして、沈中郎将が長く天幕を空けていたのは、厠ではなく何らかの打ち合わせか対策のせいだと考えるのが妥当だろう。


 落ち着け、とまじないのように頭の中で繰り返す。負けると決まっている訳ではない。そう、襲撃があればかならず負けると言うものではない。

 勝ったとしても、自分が死ぬ可能性があるということは無視しようと努めた。別のことを考えようとして、ふと、あることに気づいた。まさかね、と思う。だってそれはさっき否定したばかりの考えだ。しかし……。

「あの、中郎将さま」

 堪えきれず、小玉は声を上げた。自分の疑問に的確な回答をくれそうな人に。

「何だ」

「うちの軍は今不利なんでしょうか」

 沈中郎将は小玉を安心させるように、軽く笑んだ。

「襲撃は敗北と同義ではないが」

 あ、はい。それはわかってます。

「そうなんですけれど。今うちの軍がここにあって、で、襲撃があるってことは、敵はこう動けるってことですよね。そう動けるってことは、不利なんじゃないかと思って……」

 小玉はここ、こう、そう、と指示語の部分で身振り手振りを交える。怪しい踊りにも見えるその動作を、沈中郎将は笑わなかった。それどころか鋭い目を向けてきた。沈中郎将は率直にいって厳しい人だが、そこまでにらまれたのは初めてだ。小玉は体を強ばらせた。

「もう1回」

「え?」

「今の動きをもう1回……いや、そこに書け」

 そこ、と地べたを指された。

「あ、はい」

 小玉はぎくしゃくと槍を取り、柄で地面に図を描いた。子供のお絵かきそのものなそれを、沈中郎将は厳しく見つめる。

 沈黙。

 彼から発せられる緊張感に、体が押しつぶされそうだった。

「小玉」

「はっ、はい」

「お前はこのことを誰から聞いた?」

 小玉はあわあわとしながら答えた。緊張と、説明という行為に慣れていないせいで、それは全然まとまりのない言葉の羅列だった。

「いえ、誰からも。あの、いろんな人から戦の噂とか聞いて、自分で今こうかなって考えて、なんか他の人と自分、違う考えみたいだったんですけれど、でもなんかそれ以外考えられなくてですね。えーと……」

 まるで要領を得ないであろう小玉の言葉を、沈中郎将は辛抱強く聞いていた。そしてぽつりと呟いた。

「自力でこの布陣を予想したのか……」

「ふじん?」

「軍の配置のことだ」


 おお。一つ語彙が増えた。


「あの……あたしの考え、どんな風に間違っているんでしょう」

 間違いを訂正してもらうこと前提で問いかけると、沈中郎将はきっぱりと言った。

「どこも間違っていない。お前の言っている通りだ」

「そうなんですか?」

「ああ」

 それじゃあなんで他の人は自分と違う意見なんだろう。

 自分の考えが合っていたことの喜びよりも、戸惑いの方が強い。困った顔を向けると、沈中郎将はどこか疲れたような笑みを浮かべて言った。

「だが、それを誰にも言うな」

 どうしてでですか。

 小玉はその言葉を飲み込んだ。

 それは決して居丈高な口ぶりではなかった。だが、それだけに言葉にこもった有無を言わせない何かをひしひしと感じた。 

 この時の沈中郎将の言葉は、小玉を守ろうとしたものだったのだろうかと、小玉は後に思う。だが、この時の小玉は、沈中郎将の諦観と苦悩を知らず、

「お前なら、これから先、軍をどう動かす?」

「あたしならこれを……」

 地面に描いた丸を槍で示し、線を引く。

「こう動かします」

 手の動きと共に、槍が地を抉りシャッと砂が鳴く。沈中郎将がふっと微笑んだ。

「私も同じ考えだ」

 好きな人と同じ考えだったということに、ささやかな喜びを感じていた。それどころではないというのに。


 そう、本当にそれどころではなかった。


 遠く、悲鳴が聞こえた。

 小玉はびくりと顔を上げた。

「来い」

 沈中郎将が立ち上がり、天幕を出る。小玉は震える手足を叱咤しながら、その後を追った。

 暗くはなかった。

 火矢がまるで雨あられのように降ってくる。それが何かに引火して炎を上げる。明るい……いや、眩しいとさえいえた。天幕の中のほの暗さに慣れた目が、一瞬驚く。

 どこかで、襲撃、襲撃という絶叫が聞こえる。そんな中、沈中郎将は槍を携えて堂々と歩んだ。彼と同じように武装した麾下きかの者たちが、その側を固める。あわてて武装する者、とりあえず武器を持って走る者、派手にスッ転ぶ者などが行き交う中で、その姿はとても目立った。敵にも、味方にも。

 明らかに高位の武官と見えるその姿に、敵が殺到する。沈中郎将はそれを片っ端からなぎ払った。その側で戦う者達の中に、小玉の姿はない。

 最初は沈中郎将の側にくっついていた小玉だったが、彼を守ろうとする精鋭が集まってくると、小柄な彼女は押され、揉まれて、人の輪から押し出された。

 彼らが守るのは沈中郎将であって、小玉はそのおまけにもならないほどの小者である。むしろ邪魔者とさえ言っていい。小玉はそれに対して文句を言う資格はないし、あったとしても言わないだろう。そんな暇などない。

 頭にあるのは、目の前の敵をどうやって倒すかということ。そして、「来い」という沈中郎将の一言。思考はその2点に特化され、すでに恐怖も、他の一切の感情も感じなかった。戦場の中で小玉の頭はおそろしく冴えていた。

 体は鍛練の時の非ではないほど軽やかに動く。おかしい、自分の体力でここまで動けるはずがない、こんな状態、長く続きっこないと頭の隅で鳴る警鐘を無理矢理止める。手の震えなど、とっくの昔におさまっていた。


 さっき手入れしたばかりの槍は、敵兵の体に穂先を残して、中途から折れた。すかさずそこに突きかかってくる敵兵の槍を、手元に残った棒きれで払い、その眼球に突き刺した。絶叫。目から棒を抜こうとして倒れ込む敵兵の手から槍を奪った。その槍もまた、あっという間に役に立たなくなった。躊躇無く投げ捨て、腰から剣を抜く。三人ほど突いて切って、手が血で滑る。服の裾で叩くようにして拭く。こんなことをしている暇さえも惜しい。ほらまた敵が迫ってくる。肩を切られた。大丈夫、これぐらいならば動く。不思議と痛くない。汗が目に入り、視界が霞む。うっとおしい。その隅で、誰かの首が飛ぶ。そんな光景、さっきから幾らでも見ているのに、意識に留まったのは見知った顔のせいか。誰だっけ駄目だ今は気にするな自分の首が飛ぶああほら危ない!


 新たな敵が立った。壮年とおぼしい。鍛え上げられた体が、その甲冑の上からもわかる。その甲冑も、やけに立派で、おそらくは将官級の武将だった。本来ならば歩行で戦うようなことなどないはずの者が、何故ここに立っているのか。おそらく落馬したとか、馬に問題が発生したとかあたりなのだろうが、小玉にとってそんなことはどうでも良かった。重要なことは、相手がどう見たって自分より強いということ。

 どう攻めればいい? 目まぐるしく頭を働かせる。逃亡という選択肢が頭にちらつくが、それを一蹴する。駄目だ背後からばっさりやられる。敵将が武器を振り上げた。

 うそ、隙?

 訝しむ余裕も罠かと疑う間もない。とにかくその隙に一縷の望みをかけて、小玉は突撃しながら剣を捨てた。敵将の顔に浮かぶ驚愕。動きが微かに鈍る。その腕をかいくぐり、小玉は相手の懐に飛び込み力任せに体当たりをした。さすがに不意を突かれて、相手の体が傾ぐ。小玉は共に倒れ込みながら、小刀を抜き、伸び上がるように相手の首をかき切った。血しぶきがほとばしる。

 すかさず身を起こし、けいれんを起こす敵将の手から大刀を奪い取った。自分の剣を拾うより手っ取り早い。すこし自分には大きいが、贅沢は言っていられない。そして立ち上がり、もう振り返らない。

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