10
「うわっ」
「え?」
かがんだ状態から立ち上がろうとすると、背後から焦った声が聞こえた。慌ててその体勢のまま振り向くと、その拍子に背負っていた剣で相手の足を見事に払ってしまった。
「いっ……づ!」
「わー、ごめん!」
さすがに転びはしなかったものの、痛かったらしい。腿のあたりをさする相手は、小玉の同輩の従卒仲間だった。
「……というか、最初の「うわっ」って何があったの」
「お前な……」
たまたま小玉の背後を通ろうとしたとき、立ち上がりかけた彼女の剣が突き出され、思わず声を上げてしまったのだという。
「あー、それもごめん。本当にごめん」
「いや、わざとじゃねえからいいんだけど、お前、これ邪魔だよ。外せば?」
「だよなー」と、同意する声が右方から聞こえる。これ、というのは小玉の背負う剣のことである。彼がそう言うのも無理はなかったが、小玉は外す気はさらさらなかった。
「さすがに腰に佩いてる訳じゃないんだし、これくらいは」
だってここ、後方とはいっても戦場ですから。
派兵の決定から実行までの間はおどろくほどに短かった。遺書を書いてもらってから1月も経たないうちに、小玉はせっせと国境へと行軍することになった。実家に出した手紙は、多分まだ届いていない。
そして戦端もあっさりと開かれたのだが、小玉はまだ誰も殺していないし、誰にも殺されそうにはなっていない。小玉を含む従卒仲間たちは、高位の武官に付き従っているということもあってか、前線に送り込まれることはない。戦闘中はもっぱら後方で待機することになっている。
もっとも、のんびり休む暇がある訳ではなく、ありとあらゆる雑用にかり出されてはいる。そんな中、小玉は意外に重用されていた。
戦場では女手が不足する。女性の士卒も従軍してはいるのだが、数は少ない。その中で後方の業務に専従している者は更に少ない。したがって、手すきの男性が炊事、洗濯その他の作業を行うが、普段やりなれていないことなので、効率はあまり良くないし、完成度も低い。
それに対して、小玉はこれでも一応、嫁入り直前まで話が進んだ娘である。一流とは言い難いが、一家の主婦としてやっていく上で恥ずかしくないだけの技量は持ち合わせていた。
まさに、「大活躍」という言葉が相応しい。小玉は、身につけたまま廃れていくのではと思っていた花嫁修業の成果を、思う存分発揮していた。
まさか、ちょっとつくろい物をしてやっただけで、これほどまでに喜ばれる日がくるとは思っていなかった。そしてお礼には何故かまた、アメ。
まあ、「女なんだからお前がやって当然」と、自分に割り振られた雑務を押しつけてこようとする輩がいるのにはむかっ腹が立つが、そこらへんは何とかかわしているのでいい。たまに失敗するが。
さて、ちょこまか動くとなると、身軽にしておいた方がいいのは当然のことである。そして、後方にて待機して数日。危険なことは何も起こらない。
後方では徐々に気がゆるみ始めていた。
雑用に従事する者たちは、すでに武装を解いている者が多い。小玉の従卒仲間も殆どそうである。殆どというか、未だに律儀に武装しているのは、小玉と陳叔安の二人だけである。
「警戒しすぎじゃねえ?ここに敵が来るわけないだろ」
あきれ顔で言い放つ相手に、小玉は困り顔で言った。
「あたしにしてみると、敵が来ないと言い切るのも、ちょっと……」
「でもお前、遺書といい、心配しすぎだと思うよ」
沈中郎将に遺書を書いてもらった。そう言うと、同輩達に笑われたのだ。これについては、陳叔安にも。
「初めての戦だからって、そんな気負わなくてもいいと思うんだけど」
そういう彼らは、盗賊の討伐などには参加したことがあったのだが、全くの無傷で終わったのだという。だが、それと戦は違うのではないかと小玉は思い、すぐさま自らの考えを一部訂正する。
いや、同じだ。たとえこれが盗賊の討伐だったとしても、戦だったとしても、油断をしてはならないのではないかと思う。何が起こるかわからないのだから。
かつて小玉がいた場所は後宮の近辺だった。軍内で1、2を争うほど危険の少ない場所であったにも関わらず、小玉はそこで生命を脅かされ、そして人を殺した。むろん、あんなことがそうそう起こるわけはないということは、わかっている。だが、起こらないとは言い切れない。
まして、ここは後方とはいえ戦場だ。後宮の周辺などよりずっと、死の可能性が高いに決まっている。それをどうして否定できるのだろうか。敵の思考を読めない限り、油断すべきではない。そもそも下っ端の小玉たちは、味方の作戦行動自体、全て把握しきっていない。
例えばの話である。
あくまで例えばだが、いまここで敵襲があったと仮定しよう。
そうなると、残っている人間だけではここは支え切れず、この部隊は瓦解するだろう。運良く逃げ出せたとするが、その後どうすれば助かるだろうか。沈中郎将などが率いる前線部隊が襲撃された後方部隊を見限り、移動してしまった場合、最悪自力で合流しなければならない……。
「お前、よくそこまで悲観できるな」
「……否定はしないけどさ」
小玉にしたって、自信を持って武装している訳ではない。経験が少ない上に、数少ない経験があまりにも特殊だったから、もしかしたら従卒仲間の言うとおり、自分は考え過ぎなのではないかと思うこともある。同時に、そう思うのは自分の願望のあらわれなのではないかとも思うのだ。
揺らいでいるのなら、とりあえず武装はしとこう、安心だし。
それくらいの考えである。
それにもう一つ、武装を解かない理由がある。というか、最初の理由を長々と説明していて悪いのだが、実はこっちの理由の方が強い。
沈中郎将は派兵の前に、小玉にこう言った。
「いいか、小玉。戦の最中は、気が昂ぶるせいで不届きな輩が現れやすい。たとえお前でも襲われる可能性がある。決して一人になるな。警戒も怠るな。武器は必ず身につけていろ」
小玉の両肩を掴んで、それはもう真剣に。小玉は「たとえお前でも」という言葉に失礼さではなく、真実味を感じた。
好きな人の言葉だからという以前の問題だった。
先触れが戻ってきた。今日の戦闘が終わったのだという。がぜん後方の者たちの動きが慌ただしくなる。小玉たちもまた例外ではない。戻って来るであろう……もしかしたら来ないかもしれない上官のために、色々と用意した上で所定の位置で待機しなくてはならないのだ。
「戻ってきた」
遠くから風にはためく旗が見え、その下にいる人影が徐々に浮かび上がってくる。やがて、小玉は沈中郎将の姿を認めて、ほっと息をついた。血に汚れてはいるものの、怪我はないように見えた。
号令が響き、軍勢は小玉の目と鼻の先で止まる。指揮官が全軍に待機命令などの指示を出し始めた。命令が後方の兵にまで伝わったことを確認すると、騎乗していた者が馬から下りる。小玉たちは駆けだして、自分の仕える上官の元へ行き、竹筒に入った水を差しだした。
沈中郎将はそれを一息に飲み干すと、何も言わずに容器を返し、歩き始める。これから軍議があるのだ。小玉はそれを追わず、沈中郎将の乗っていた馬を引き取った。気が昂ぶっているせいで動きが荒いのを、なんとか引っ張って所定の位置へとつなぎ、水を与えてから走る。沈中郎将が自らの天幕に入った時には、そこに待機していなくてはならない。
天幕にたどり着きしばし待つと、沈中郎将が入ってきた。再び飲み水を渡し、飲み終わるのを待ってから水でぬらした手拭いを渡すと、沈中郎将はまず顔を拭いた。手拭いを顔から離すと、隣に立つだけで突き刺さるような感じを与える気配がすこし緩む。沈中郎将は続いて手を拭くと、身につけた甲冑を取り外し始める。小玉もそれを手伝う。血でぬめった甲冑は取り外しづらい。二人は無言で作業を行った。
甲冑を取り外し終えると、小玉は桶にくんだ水を沈中郎将の前に置き、新しい手拭いを渡す。そして、血で汚れた甲冑を持つと、天幕の外へ出た。血が完全に乾く前に、手入れをしなければならないのだ。
天幕に戻ると、沈中郎将は身から血を落とし、小玉が洗濯しておいた服に着替えていた。ざっと汚れを落とした甲冑を見て、軽く微笑む。
「仕事が早いな」
「ありがとうございます!」
小玉はにかっと笑うと、沈中郎将が脱いだ服と、赤く染まった水の入った桶を持って再び出て行った。これから食事の支度をしなければならないので、今すぐ洗濯をすることはできないが、汚れ物は今の内に水につけておきたい。
沈中郎将の食事の給仕をすませた後も、小玉の仕事は終わらない。食器を下げに行ったついでに、自分の食事をもらい、立って食べる。この時、従卒仲間たちも一緒にいるが、特に会話などはしない。忙しいし、相手もそうだということがわかっているので、ただひたすらに口に物を運ぶ。
食べ終わると、今度は馬の世話をしなければならない。餌をやらなければならないのはもちろん、乗っている主同様に血で汚れた体を洗ってやるのだ。ここで必要なのは口ではなく手であるから、無駄口をたたく者も出てくる。
この場にいるのは、従卒ばかりではない。従卒を持たないために、自分で馬の世話をしている者……つまり、ついさっきまで戦っていた者たちもいる。そういう者たちの間から聞こえる話を、小玉は注意深く聞いた。
あちらの誰かは敵将の首を取った……。
こちらの誰かが討ち取られた……。
戦っている最中、敵がこんな風に動いた……。
周囲から得られる情報の断片から戦況を組み立て、それを日々更新するのがここでの小玉の日課である。今日も話を聞きながら、自軍が今どのように戦っているのかを小玉は思い浮かべた。
そして、首をかしげた。
興奮しながら語る者たちは、さも自軍が優勢であるように言っているが、そんな彼らから得られる情報から考えると、どうやっても自軍の方が不利のように思えるのだ。
小玉は不安になった。だが、自信満々に語る当事者たちの態度と、実際に戦っていない、情報は少ない、おつむの中身が足りない、つまるところ有るものの方が少ない自分の見解のどちらが正しいのかを考えると、自ずと答えは出る。
自分はどこかで判断を、あるいは情報の拾い方を間違えたのだ。
もし、小玉の考えが、これほどまでに他者の見解と異なっていなければ、小玉は結論を急がなかったかもしれない。
しかし、あまりにも自分の考えが他者と違いすぎたために、小玉はどちらかの考えが間違っているのだと考えた。そして、それは順当に考えれば自分であると。小玉以外の大多数とっても、それはすさまじく説得力のある答えだっただろう。
だから小玉はあーあ、と思いながらも、かけらも疑問を持たず馬を洗い終え、飼い葉を与えるとその場を立ち去った。