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ある皇后の一生  作者: 雪花菜
一章 ある少女
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「ええっと、今日は……」

 小玉は今日やらなくてはならないことを、口の中でぶつぶつと呟いた。あれと、これと、それと……やらなくてはならないことは、合計で七つだ。

「七つね」

 頭に刻むために、はっきりと口に出して言った。

 小玉の1日はとてつもなく忙しい。去年軍に入ったばかりの時も、毎日やることが多くて目が回るようだった。1年目が終わる頃には大分慣れたつもりだったのだが、異動したとたんにまた忙しくなった。それは環境が変わったからというだけの問題ではなく、去年より明らかにやることが増えているからだ。

 しかし、人間というのはどんな環境にも適応する生き物なのだから、生きていればそのうち慣れていくのではないかと、小玉は楽観している。


 異動先での小玉の仕事は、沈中郎将の従卒であるが、これまでも柳隊正相手に似たようなことをしていたので、ある程度要領は掴めている。相手が自分で出来ることは自分でする人間であるため、仕える相手の地位が高くなったからといって仕事量が増えたという訳ではない。あくまで、この件については。

 やることが増えたのは、武術の稽古である。これまでは一般的な武器のみの稽古だったが、今はべんだのすいだの、これまで名前も聞いたことがなかったのも含めて、武器全般を一通り学ばされている。体を動かすことは嫌いではないが、ここまでして将来何の役に立つのかという疑問はある。というか、役に立たせる以前に、重くて持つのも難しい武器もあるんですが、どうせよとおっしゃる。


 まあ、芸は身を助けるというし、誰かに襲われた時は本当に助けになるだろう。それ以外役に立ちそうもないが……あ、武器商になるか、嫁入りするかすれば、役に立つのかな……? あと、鍛冶屋とか。

 

 小玉が思い付くのは、せいぜいそのくらいだ。


 そもそも自分のように徴用されたばかりの兵って、数年間は雑用と使いっ走りで終始される方が普通なのではないだろうかと小玉は思う。率直にいえば、彼女としてはそちらの方が嬉しかった。稽古における人間関係があまり良くないので、余計にそう思うのだ。


 小玉は、基本的には職場での人間関係には困っていなかった。異動前は言うに及ばず、今いるところも上司には恵まれていると思う。直接仕えている沈中郎将は、最初会ったときは少し怖いと思っていたが、側近くにいると下の者にも気配りをする人だということがわかる。その周囲も同様だ。怒られることもあるが、それについては自分の方の問題だ。

 生活する場も大体同じ。女性が少ないために士卒入り交じった寮は結構気を使うが、小玉くらいの年頃の者がいないせいか、かなり可愛がってもらっているのも事実だ。みんなアメをくれる……というか、なんでみんなくれるのはアメなんだろう。


 閑話休題。


 そんな生活の中、武術の稽古を共にしている相手たちとの関係だけは少しぎくしゃくしていた。

 武術の稽古は、小玉だけ特に受けるというものではない。小玉のように、従卒をしている若年の者が15人ほど集められているのだが、その中で性別が女性なのは小玉だけである。それまで女ばかりの職場で気楽に過ごしていただけに、とてもやりにくい。多分向こうもそうなのだろう。

 それに加えて、嫉妬を向ける、あるいは、なんでこんな身分の奴がと思う者がいるようだった。小玉は全然わかっていなかったが、今回の異動はどうやら異例の栄達ということになっているらしい。小玉の稽古仲間たちは、小玉と同じ従卒だが、小玉よりちょっと家柄がいいか、小玉よりちょっと長く軍に身を置いている者ばかりだったのである。

 とはいっても、別に苛められているわけではない。中には相性の悪い者がいるが、好意的に接してくる者もいるというくらいだ。現時点では特に実害はない。生きている限り悩みが尽きるということはないのだし、悩みがこれ以上のものでなくて良かったではないかと、小玉はなるべく割り切ろうとしていた。

 思春期って難しいと、自分自身のことを含めてそう思う昨今である。


 ……などと考えながら仕事をしていると、地味に焦る事態発生。

「ええっと、今日やったのは、あれ、これ、それ……あれ、六つ?」

 やるべきことの最後の一つが、どうしても思い出せないんですが、こういう場合どうすればいいんでしょうか。

 こういう時、読み書きが身に付いてたら、覚え書きとか出来るのになあと思ったりする。だが、最近になってようやく自分の名前を書けるようになった程度なのだから、そこまで到達するのは無理だろう。


 ……いや、それより、忘れた用事って本当に何だっけ!?


 考えこみながら、小玉は足早に進む。前方にあまり注意を払っていないが、向かいからやってくる人間に軽く会釈した後、ぶつからないよう半ば無意識に体をよける。そのまますれ違おうとすると、相手が声をかけてきた。

「ああ、待て」

「え、はい」

 顔を上げ、相手の顔を確認すると、すぐ小玉は礼儀に則って目を伏せた。髪に白い物が交じった壮年の男性だ。見知らぬ相手だが、おそらくはかなり地位が高い武官であるはずだ。

「何のご用でしょうか」

「沈中郎将はどこにいるかな?」

 仕えている人の名を出され、小玉は少し考えて、心当たりを述べる。

「この時間なら多分……」

「わかった」

 これで用は済んだだろうと思うのだが、相手の許しが無い限り、立ち去ることができない。だが、「もう良い」という言葉は発せられず、小玉は恐る恐る目を上げた。目がバッチリ合う。相手は小玉の顔を覗き込んでいた。

 小玉はひゃっと驚いて、再び目を伏せる。

「ああ、すまない。もしかして、君は沈中郎将のところに新しく来た子かい」

「は、はい……!」

 小玉はこくこくと頷く。

「呼び止めて悪かった。もう行って良いよ」

「はい!」

 小玉は一礼して、その場を立ち去った。あー、なんかびっくりした。


 そのまま数十歩ほど歩いて、はたと歩を止める。

「あ、そうだゴミ捨て……」

 忘れていた用事をようやく思い出したが、頭を悩ませた時間がもったいないくらいささやかなものだった。




 従卒というのは、主の側近くに控えて雑用をこなすのが仕事である。つまり、雑用をこなした後は、ただただ待ちの姿勢でいなければならない。小玉にとっては、これが結構苦痛な時間である。

 今日も墨を擦り、茶を出すなど細々したことを済ませると、あっという間に暇になった。しかし、この暇な時間を、たらたらと待っていてはいけない。「いかにも真面目に待機しています」という風に見せるのが、従卒の腕の見せ所である。

 顔はきりっと引き締める。耳と目は主の言動に集中させる。そうすれば、頭は多少お留守にしていいのだが、考えることがそうあるわけでもない。だから基本的に、小玉は沈中郎将の横顔をぼーっと眺めることが多い。あくまで、ぼーっとしているようには見えないように。

 小玉が仕えている沈中郎将は、もうかなり見慣れているが、これまで会ったことのある人間の中では文句なしに1番美しい人だ。後宮におわすお上のお妃さま方も、このように美しいのだろうかと思うが、この人の場合、男性的でもあり、女性的でもある美しさだから、多分ちょっと違うのではと思うことがある。比べたことはないが。


 宦官は、実年齢よりも早く老けていくため、皺だらけの者が多い。だが、ごく若い頃は、特に端整な容姿を持つ者については、一種独特な美しさを誇る。沈中郎将は典型的ともいえるほど、この類に属していた。


 小玉は、後宮の警備をしていたが、それは外部のことであって、中のことは覗きすらしていない。時々、塀の近くを歩く者たちの笑いさざめく声を聞くくらいで、妃嬪を見たことは1度もなかった……いや。

 そういえば、一度だけ妃嬪を見たことがある。後宮から逃げ出そうとし、小玉が斬り殺した女。だが、闇の中に浮かび上がる肌の白さと、瞳に宿した憎悪の色しか覚えていない。だがその僅かな記憶の鮮やかさ。一生忘れることができないのではないかと思う。

 小玉は、脳裏に蘇った記憶をもとあった場所にしまった。そして、沈中郎将に意識を戻し、ふと考えた。この人は職業柄、何人もの人間を殺しているはずだ。しかし、そのような人でも、初めて人を斬った時は何かを思ったのだろうか。それを今でも覚えているのだろうか。

 何かを書きつけている横顔は、『綺麗』という言葉が似合うが、生きている人間という感じが少ない。まるで川底に転がる、磨きぬかれた石ころのようだ……と、小玉は失礼なことを思い、いや、石ころなんかよりはずっと綺麗ですよと、口にしてもいないことに対して弁解した。もし自分が、宝石など話でしか聞いたことのない美しいものを見たことがあるのならば、多分それに喩えていただろう。

「小玉」

 名を呼ばれ、はっと我に返ると、書き付けをしていたはずの沈中郎将が、こちらを向いて湯飲みを差し出していた。中身は空。

「はい、ただいま!」

 手を伸ばして受け取ると、小玉はお茶のお代わりを煎れ始めた。その間、沈中郎将は仕事を再開せず、小玉を考え深げに眺めていた。

「何を考えていた?」

 小玉が差し出す茶を受け取りながら、沈中郎将が尋ねてきた。

「え、何の……いつのことでしょうか?」

「茶を煎れる前。心ここにあらずという風であったが」

「……」

 繰り返すが、「いかにも真面目に待機しています」という風に見せるのが、従卒の腕の見せ所である。小玉、かなり駄目である。

「考えて、いたこと……」

 茶を煎れる直前に考えていたことは、絶対に口に出せんと小玉は思った。石ころ云々はちょっと。

 それに、聞いてみたいと思うこともあったから、石ころ云々の前に考えていたことを口にした。

「閣下は、初めて人を殺した時、何か考えたことはあるのかと思いました」

 沈中郎将は、小玉の顔を見て眉を微かに動かすと、何も言わず茶杯を机案の上においた。コトッという音が、やけに耳に残る。彼は机案にひじをつき、手の甲にあごをのせると考え込む風情で目を伏せた。

 小玉は、やはり言うべきことを間違えたのだろうかと、どこか落ち着かない気持ちで沈中郎将を見つめた。しかし、相手が何も言わない以上、謝罪するのもはばかられる。

 しばらく無音の時が部屋を支配し、やがて沈中郎将が口を開いた。

「何も思わなかった。不思議なくらい」

「は……あ、そうですか」

 それはあまりに唐突なことだったので、一瞬何のことかと思ったが、すぐにそれが、小玉が抱いていた疑問の答えなのだとわかった。だが、わかったところでその後の反応に困る回答である。「何も思わなかった」とは。

 しかし、小玉が次の言葉を選ぶより先に、沈中郎将は言葉を続けた。

「その事に恐怖した」

 小玉は口をつぐみ、沈中郎将の顔をまじまじと見つめた。彼はどこか遠い目をして、ここではないどこかを見つめているようだった。見つめているのは自身の過去なのだろうか。

「それは、私生来の気質によるものだったのかもしれない。だが、環境さえ整えば、初めての殺人にさえ何も思わない子供が出来上がるのだということに、私は恐怖した。だから、私は……」

 不意に言葉を切ると、沈中郎将はかぶりを振った。

「少し話しすぎたようだ。今日はもう下がっていい」

「はい、わかりました」

 何と言えばいいのかわからなかった。ならば、何も言うべきではないのだろう。だが、聞くのではなかったとは思わなかった。小玉はただ諾々と沈中郎将の命に従って、部屋を出た。

 そして立ち去ろうとして、小玉は不意に振り返った。その顔に浮かぶのは驚愕。だがそれは誰かに声をかけられたなどの外部からの刺激による者ではなかった。むしろ内部からの刺激。自分の心の動きが信じられず、小玉は呆然とした。


 どうしよう。あたし、あの方が好きだ。


 まるで逃げるように自室に戻った。あの場で退室を命じてくれた沈中郎将に感謝である。もし、一緒にいる時に自覚していたら、どんな醜態をさらしたか想像すらしたくなかった。


 沈中郎将に恋をした。


 その感情はいきなり芽生えたものではなく、元からあったものだった。ただそれに、ついさっき気づいたのだった。

 だが気づいた小玉は、恋する少女としてときめいたり心を弾ませたりすることはなかった。ただただ混乱していた。そもそも、何故自分が沈中郎将に恋をしたのか、それがわからない。小玉にとって、沈中郎将は決してその対象にならない存在であるはずだった。

 女性は子を産んで当然という環境に育った小玉にとって、恋愛とは結婚に結びつくものであり、結婚とは出産に結びつくものであった。自分が独身で生きるということは考えたとしても、出産・結婚に結びつかない恋愛をするなど想像もしていなかった。だから宦官である沈中郎将ははなから恋愛の対象外だった。どれくらい対象外なのかというと、元上司の柳隊正(注:同性)と同じくらい対象外なのだ。

 そんな相手に恋愛感情を抱いてしまった。

 小玉は自分の心のありようがまるでわからなかった。だからこそ、自分の感情に気づくのが遅れたともいえる。

 だが、思い返せば、自分が彼に好意を持っていたという心当たりはある。


 沈中郎将は時々、思い出したように尋ねてきた。

「もう慣れたか?」

 小玉はちょっと笑って答えた。

「はい、仕事には」

 そんな何でもないやりとりですら無性に楽しかったという時点で、自分の気持ちに気づいても良さそうなものだった。


 恋をしたことについて、「これからどうしよう」ではなく「なぜそうなったのか」の方が気になって仕方がない。多分今夜は眠れない。

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