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今日、自分の部下が皇帝になった。
文武百官が立ち並ぶ中皇帝が現れた。つい先ほど即位したばかりの新帝だ。
関将軍は武官の立ち位置から感慨深げに遠くから眺めた。
知的さと嫣然さを足して割らない顔は、遠目から見ても整っていることがわかる。微笑めば女より男を籠絡できそうな容姿であるが、彼がそのために笑ったことなど一度もないことを関将軍はよく知っている。見た目を裏切って苛烈な性格をしていて、口も性格もそれなりに悪いということもよく知っている。
つい数ヶ月前は、関将軍がため込んだ仕事と一緒に向けられていた代物だ。
彼は自分と約10年軍人として共に働き、副官としてこき使ってもいた相手だった。だからまさか彼が皇帝の血を引き、あまつさえ即位するなどとは思いもしなかった。普通思う訳がない。
むろん彼から自身の出生について語られたこともなかった。そのことについては騙されていたとか隠されていたなどとは思わない。
というより、もしかしたら言う機会がなかったのではないかと思っている。なにせ皇帝の遺児といっても、3代前の皇帝の10男か11男なのだから、帝位との距離ははるかに遠い存在だ。とりたてて自分の血筋を吹聴するほどのものでもない。
本人でさえ自分が帝位につくとは思っていなかっただろう。だから素性を教えてもらっていないことについては本当にどうでもいい。
ただ多少迷惑は被ったのは確かだ。彼が即位することが決まったとき、周囲の人間が関将軍に細かい事情を聞こうと集まってきたのだ。つまり周囲がそういう態度をとるほど、彼と関将軍は親しい仲だった。
しかし関将軍も彼らと似たり寄ったりな情報しか持っておらず、何も答えることができなかった。知らないものは答えようがないのだが、何人かは納得してくれなくて辟易した覚えがある。
「知らないものは知らないんだって。今情報集めてるんで、もうちょっと待って」
頭痛がし始めた頭を抑えながら、関将軍は呻くように言った。
「本当に何も聞いてないんだよな?」
「くどい」
機嫌が急降下するのを感じる。今日は朝から何人ものわからずや相手に同じ問答をくり返してきた。さすがに色々と限界だ。これ以上いいつのるようだったら、茶の一杯でも引っかけて追い返そうと思い始めた。幸い手にある湯飲みはほどよく飲み頃だ。ぶっかけてもやや熱い程度ですむだろう。
このままならば、茶の行く末が本来あるべき場所ではなくなるところだったが、しかし相手はそれ以上問いただすことはしなかった。ただ少し肩を落として、こう呟いた。
「……俺は、お前達が一緒になるんだと思ってたんだが」
「……」
虚を突かれた彼女は茶を一口飲んだ。確かに飲み頃だった。
「……そうだね。確かにそういう考えがなかったとはいわない」
いずれ自分と彼は所帯を持つだろうとなんとなく思っていた。相手もそう思っていた。口には出して語り合ったことはなかったが、相手も同じ考えを持っていることをお互い漠然と理解していた。
もうありえない話だが。
確たる約束はない。そしてあったとしても自分と彼が結ばれることはおよそないだろう。関将軍は自分に恥じることはおおむねないが、皇帝の妃になるには不足が多すぎると思っていた。まず身分が違う。関将軍はまがりなりにも将軍と呼ばれる身だが、生まれは決して良い物ではない。むしろ下層から数えた方が早い。
間引きされなかったのが幸運なくらいの貧しい農家に生まれた彼女は、16才になるまで自分の名前を書くこともできなかった。今彼女がここにいるのは、なりゆきで徴兵に応じがむしゃらに働いたからだ。そうやっているうちにすでに30才。すでに出産が難しい年齢だ。妃嬪の役目は皇統を絶やさないことである以上、それはあまりにも大きな問題だった。
だが……。
それ以上に、関将軍が皇帝となった彼の妃になることを望まない。女にとって皇帝の妃嬪になることは大きな出世ともいえるが、それはあくまで皇帝の感情に依った地位だ。自分の働きで得た将軍という地位をそれと引き換えにしたくはなかった。彼に対する愛が足りないといえばそれまでの話だ。
だが、同僚である彼は愛せても、皇帝である彼は愛せないのかと言われれば半分正しく半分間違っていると答えるだろう。皇帝である彼は愛せない。しかし、同僚である彼を愛していた訳でもない。ただ、隣にいることが誰よりもしっくりくる相手だった。おそらく同性同士であったら親友としてあれた相手だった。
そんな彼だから、自分が妃嬪の地位を望まないことを誰よりもわかっている。関将軍はそれを確信していた。
そしてそれは正しかった。彼が即位してから何の音沙汰もなく、もちろん入内せよという命令もなかった。
「だから」
関将軍は酒を一口飲んだ。
「だからあんたが好きだったよ」
彼の名前をそっと呟いた。諱を口にするのもこれが最後だろう。
「おーし、休憩!」
掛け声にわっと歓声が上がる。関将軍は首から下げた手拭いでやれやれと顔を拭った。
「じゃあ、あとは頼む」
「はい」
副官が頭を下げる。前任が一身上の都合により皇帝になったため、至急補充した後任である。元々はいいとこの出で、就任当初は将軍ともあろう方が土木工事の現場監督をなさるのはいかがなものか等々あらゆる方面で関将軍に苦言を呈したものだ。
関将軍もこういう人材をよこした上官に苦情を申し立てた。
「贅沢はいいませんから、もうちょっと庶民派をいただけませんかね」
しかし上官は涼しい顔でさらりと述べた。
「おぬし、ああいうのと相性いいだろう」
関将軍は憮然とした。ああいうの、が何をさしているのかは瞭然だ。
「確かに前任もあんなのでしたけどね。でもあたしももう、若くありません。昔みたいにぶつかり合うようなこともできませんし」
「いや衝突はせんでいいから」
まあ、育てると思って見てやってくれと言われて3年。それなりに面倒くさいこともあったが、口うるさかった副官も今ではすっかり朱に交わって赤く染まっている。確かにこういう類の人間との相性はいいのかもしれない。
口うるさい面も残ってはいるのだが、これについては関将軍に非があることばかりなので文句は言えない。そういうところも、細かい仕事が得意なところも確かに前任とよく似ていた。前任の方が有能であったが、後任はまだ20才そこそこの若者だ。単純に比較するのも可哀想であろう。
副官を見ていると前任と衝突していたばかりの昔を思い出す。後任については前任と違って青いなと思うが、それは自分が変わったからだろう。昔と違ってむきにならず余裕を持ってあしらえるのは、やはり年を重ねた証だ。
同時に、前任と同じ水準で張り合っていた自分も青かったのだということを目の当たりにされるようで、何だか気恥ずかしくもある。
その前任が皇帝になって3年が経つ。際だって国が良くなっているわけではないが、生活の水準は徐々に上がっているように感じる。軍の方も土木工事や治安維持がもっぱらの仕事になっている。関将軍はどちらかというとそちらの仕事の方が素質はともかく性に合っているため、実に結構なご時世であると考えていた。おまけに治安に関しても、不届き者が以前より目に見えて減っているのだからますます結構なご時世である。昨年皇子も誕生し、国家はまず安泰であった。
あれから、彼とは1度も会っていない。
関将軍もそれなりの地位を持っているため、皇帝に拝謁することはしばしばあるが、個人的に会話をすることはまるでない。それでいい。ただ、彼の子供が生まれた時は、個人的に祝いの言葉を言いたかったとも思ったが、所詮は個人的な感情だ。一人でいい酒をあけた。
彼女はまだ独り身だった。3年間浮いた話がなかったとはいわないが、この年になると結婚までこぎ着けるのはなあと思っている。周囲も色々と諦めているのか、縁談を持ち込むこともない。まあそれは今に始まった話ではないが。
「ああ、関将軍」
宮城に戻ると声を掛けられた。直属の部下ではない。話を聞き、関将軍は上官の元へと足を向けた。
「おお来たか」
「何かありましたか?」
「うむ。話したいことがあるので、今晩飲みに出よう」
「別に構いませんが……」
ここでは話せない話とは一体なんなのだろう。不思議に思ったが、そこで聞き返すほど関将軍も拙速ではない。何かがあるのだ。そしてその何かは夜まで待っていればわかることなのだから、今急かす必要はどこにもない。
「で、ご用はそれだけですか?」
「それだけだ」
関将軍は踵を返し、立ち去ろうとした。
「ああ、ちょっと待て」
「はい?」
「せめて風呂には入ってきてくれんか?」
土木工事現場から直行した彼女は率直にいって汚かった。