愛憎
乳母の死から三日が経とうとしていた。彼女の死を悼む人々の心を写すかのような雨模様である。郊外の公共墓地、その一角に人々が集まっている。皆黒い喪服に身を包み、沈痛な表情を浮かべている。悲劇の傷跡癒えぬナヴィアス聖堂からやってきた長身で痩せた司祭が式を進めている。参列者のほとんどは彼女の同業者だが、一人だけ目立って身なりの良い女性がまぎれている。マリアである。ここしばらく思い悩んでいたらしい、目の下には化粧でも隠せぬほど濃いクマができている。
「マリア様、本当によく来てくださいました。彼女もきっと喜んでいると思います。」
使用人の一人がマリアに話しかける。彼女は静かにうなずくが無言のままである。周囲の人は皆彼女のことを気にしている。もちろん心痛の彼女に対する気遣いもあるのだろうが、やつれた彼女の顔は不思議に美しく、見る者は感動すらおぼえるのであった。
葬儀は粛々と行われ、静かに終わった。人々は悲しみを押し殺すように皆黙ってオレフィス家の別邸へと帰っていった。後に残されたのは式を執り行った司祭とマリア、そして彼女の護衛兼監視の憲兵二人のみであった。
沈黙を壊すまいとするような小声でマリアは憲兵を呼ぶと、「司祭様とお話がしたいのです、少し外していただけませんか?」といった。憲兵たちは顔を見合わせ、一人がマリアに向かって返答する。
「申し訳ありませんが要求にはお応えできません。片時も目を離すな、という支持がありますので。」
「そこをなんとかお願いします……、司祭様になら……、話せると思うのですが……」
マリアは目に涙を浮かべ懇願するような表情で彼らを見つめる。彼女の様子は憲兵がたじろぐほど可憐で儚げである。彼らの意思はいとも簡単におれた。
「……わかりました。ちょうど雨ですので声も通りにくいでしょう。聞こえない距離まで離れます。が、あくまで見える位置で待機します。それでもよろしいですか?」
「……もちろんです、……どうもありがとう。」
距離をとりながら二人の憲兵は直前の彼女の表情を思い浮かべる。
「いくらなんでもあの顔は反則だろう、あれとお前の彼女が同じ生きもんだなんて信じらんねぇぜ。」
「テメー、俺の彼女のこと悪く言うんじゃねーよ。でもまぁ、アレはヤバいよな。アレで揺らがない男がいるなら教えて欲しいゼ、まったく!」
監視の二人が十分遠ざかったのを確認すると、なんと司祭の方から話を切出した。葬儀中とは打って変わって奥底に冷たさを感じさせる口調である。
「どうも、お初にお目にかかります、マリア様。お手紙は読んでいただけたようですね、こちらもリスクを冒して出てきた甲斐があるというものです。それで……、約束の情報はちゃんと持ってきたのでしょうね?」
マリアも先ほどとは別人のような冷徹な表情に変わっている。
「もちろんです。私としてもこのまま怯えるのはまっぴらですから。私の情報は手紙に書いてあります。そこに供えてある花束の中に隠してあるわ。カモミールなんて普通花束に入れないでしょ?探せばすぐわかるはずだから。それより早くそちらの情報を教えなさい。」
「まぁ、情報の真偽はいずれ確かめますので今はいいでしょう。いやぁ、それにしてもたいした演技力ですね。様子から察するに、その手で今まで随分色々な局面を乗り越えてきたのではないですか?いやはや、自身が美しいことをよくご存知だ。」
「御託はいいから早く言いなさい。」
マリアはあからさまに苛ついた顔をした。
「怒った顔もまたかわいらしい、……おっと、これ以上はやめておきましょう。
さて、では情報をお伝えいたしましょう。この状況で手紙の手渡しは危険すぎますからね。お教えできることは手紙にありますように二つ、すなわちガムザ焼殺事件の詳細と首謀者です。まぁ、ショックの程度から言ってガムザの方から話しましょうか?
まず犯人ですが、おそらく予感がしているとは思いますがクロード皇子の乳兄弟、彼です。一度目の襲撃に失敗した彼は炎の男となった後、目的を遂げて燃え尽きたのです。ではどうしてそんなことになったかと言いますと、その理由は今あなたの目の前に立っていますよ。さらに言いますと、ここに眠っている女の死も、実を言うと私の指示でこうなったのです。」
「どういうことですか?あなたはあの子に、それからここで眠る人に、いったいなにをしたんですか?」
遠くで雷がなる。少し雨が強くなってきているようだ。
「さすがに少し動揺していますね、自然な反応ですよ。実はさる情報筋から宮廷の簡単な様子を仕入れていたのです。そこで少々予感がしたものですから、いくつか網を張らせていただきました。そして網にかかったのがあの男だったというわけです。方法は……、まぁ、言ってもすぐには理解できないでしょう。『奇跡的な方法を使って』とだけ言っておきます。彼の母の死は言うまでもなく情報収集の一環です。」
「方法についてはもういいわ、結果があれですから、突飛もないことをしたんでしょう?乳母の件も予想した答えだったわ。それよりも首謀者を、こんなこと考えたのはだれなの?」
「私が彼をあんな状態にし、あまつさえその母親まで殺した原因だとわかったのに、以外とあっさりしてるんですねー。」
男は特徴的な人懐っこい笑顔を見せた。
「あなたが憎くないと言えば嘘になります。ただ、こうしたことに関しては私も人のことをとやかく言えない部分があります。それに、今一番大事なことは、いったい誰がこんなことを考えたのか、ということです。」
「では申し上げましょう。その人物はルイ様の誕生を快く思っておらず、ガムザが関係者であることを知っており、あの可哀想な男を自由に動かすことが出来る、そんな者は帝国広しといえどそうはいないでしょう、おそらく今あなたの頭に浮かんでいる三人以外にはいませんよ。」
少し考えたマリアの顔はみるみる青ざめていった。雨はよりいっそう激しさを増してきている。
「……いえ、……でも、私ではありませんから、残る二人……。まさか、でも兄上の治めるケーダ州は遠すぎるわ……。」
「現実はいつも残酷ですよ。では乳兄弟口から語られた事実をお聞かせします。」
そう言って男はマリアに顔を近づけ、耳打ちをした。
次の瞬間、マリアは卒倒した。
どれくらいの時がたったのだろうか。マリアが目覚めるとそこは見慣れた自室のベッドだった。カーテンの隙き間からのぞく空は、分厚い雲を割ってオレンジ色の陽光がさしはじめていた。
彼女は気を失う前の記憶をたどる。考えるだけでも気分が悪くなりそうだ。男は小さな声で、しかしはっきりとこういった。「息子さんには気をつけてください。」と。
彼女は考えた。別に発生した事件そのものに戦慄しているわけではない。おそらくそれが必要だと判断すればその時点で彼女も同じ行動に出たであろう。彼女が恐怖したのは、あの年齢の子どもがそのようなことを考え、実行した、という事実であった。しかも彼女にはいっさい相談なしに、である。マリアはクロードが何を考えているのかまったくわからなくなっていた。「ガムザを消したということは、秘密を知るものをすべて消してから弟と帝位と争うということなの?すると私も標的なのかしら?」
事実を確認したいものの、本人に尋ねるわけにもいかない。それこそ親子で殺しあいをするはめになりかねないからだ。彼女は考えた。そして、外がすっかり暗くなった頃、ある答えに行き着いたのであった。
「あの男だわ。もっと色々聞くべきだったのよ!あの人はなにか目的があって動いている。だからそのうちクロードにも近づくだろうし、そのために私のこともまだ必要としているはずだわ。ちょっと回りくどいけど、彼と取引すればクロードの狙いもわかるかもしれない。そうすれば、私もあの子が皇帝になるために動きやすくなるはずよ。
確かに彼は私の大事な人を奪った敵だけど、私の前に素顔を明かして出てきたってことはそれなりに信用できるということでもあるわ。悔しいけど、今はあの男を頼るしかなさそうね。」
彼女は侍女を呼ぶためにベッド脇のテーブルから呼び鈴を取り上げると静かに振った。リリン、と軽やかな音が響き、すぐさま廊下を急いでこちらに向かう足音が聞こえてくる。
寝室のドアからノックとともに若い女性の声が聞こえる。
「いかがなさいましたか?」
マリアは心持ち気分が軽くなるのを感じた。
「頼みがあるのよ。入って来て。」
ドアが開き、侍女が姿を現した。
「どうされましたか?」
「明日でいいから言伝を頼まれて欲しいの。流通大臣に『夕方五時に、偶然にも中庭にある木陰のベンチで私と出会って欲しい。』と伝えといてくれない?当然だけど、誰にも聞かれちゃダメよ。」
「かしこまりました。あの……、差し出がましいようですが、また何かなさるのですか?」
「まぁ、そう言うことね。じゃあ、よろしくネッ!」
そう言って彼女はとびきりの笑顔をつくってみせるのだった。