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小説

雨に咲く、藍色の花

作者: ちりあくた

「気象庁め……」


 予備校を出てからの第一声はそれだった。


 真っ黒い空からは、威勢のいいシャワーのように水滴が降っている。傘のない塾生たちがカバンで頭を覆い、闇の中へと走り去っていく。街灯に照らされてシルクのように光る雨の線を見ながら、僕は静かにため息をついた。

 ああ、彼らのささいな抵抗も無駄だろう。きっと家に着く頃にはずぶ濡れになっているはずだ。


 ……それにしてもおかしい。昨夜の天気予報では「明日は一日中晴れる予報です」と言っていたのに。

 アメダスもたまには失敗して注目して欲しかったのだろうか。いや、機械がそんな意思を持つことなんてありえない。フィクションじゃあるまいし。


「疲れてんのになぁ……」


 僕はただぼーっと立ち尽くすしかなかった。朝から夜まで狭苦しい教室に拘束されて、やっと解放されたと思えばこのザマだ。朝一番に「大凶」と書かれた占いでも見ていれば、幾分か覚悟は決まっていただろうに。もちろん、ラッキーアイテムは折りたたみ傘で。


「何してるんですか?」


 ふと、そんな声が鼓膜を震わした。湿っぽい空気に溶けて消えてしまいそうな、あまりに波のない少女の声だった。

 僕はその声に聴き覚えがあった。


「風野……お前も模試だったのか」


 振り向いてみれば、そこにはスラッとした少女の姿があった。しなっとした黒髪を長々と垂らし、気だるげな目つきで僕を見下ろす、百八十センチはあろうかというセーラー服姿の少女。


 風野玲は僕の幼馴染で、一つ下の後輩だった。彼女とは幼小中と仲良くやってきたつもりだったのだが、なんの気の狂いか、高校になってからは急に敬語を使われ始め、そのせいで距離が生まれ、ここしばらくは「疎遠」と称しても差し支えない距離に落ち着いていた。

 そのはずなのに、なぜ。

 僕の鼓動はだんだんと、雨音のアップテンポなBPMに近づいていた。過去のトラウマもどきが心中に蘇ってきたのだ。


『中谷くんってさぁ、風野さんと歩いてると身長差エグくて面白いよね〜』


 この発言の主に悪気なんか一片もないのだろう。中学二年生の時のことなのだ、本人もこんな些細な事件は覚えていないだろうし、そもそも人を傷つけたという事実さえ認識していないのかもしれない。

 だが確かに、当時の僕は致命傷を負ったのだ。ごく自然と思っていた風野玲との日々が、第三者からは奇異な風景に映っていたという気づきは、僕を四日ほど寝込ませるには十分なショックへ変換された。

 けれど、僕とて漢気に憧れる一人の人間だ。一個人の発言など気に留めず、風野玲に気遣いをさせないように普通ぶって、懸命に仲良くしようと努めてきたのだ。


 それでも、心に空けられた一点の穴は、いつまでも冷たい隙間風を通し続けていた。

 二人で登下校をする時も、教室で他愛ない会話をしている時も、そして、今ですらも。彼女といると、僕は胸がドキドキしてしまうのだ。恋とはまた一味違うような、恐怖に近い感情に襲われてしまうのだ。


「大丈夫ですか。具合悪そうに見えます」


 淡々とした心配の声がかかり、僕はハッとする。慌てて返事をしたところ、つい、ぶっきらぼうになってしまった。


「い、いや、雨のせいだよ。心配なんかいらない」

「そうですか」


 背後の雨音は止むことを知らず、むしろ勢いを増していった。呑気にもシャワーのようだと感じていた雨は、次第に滝のようになり、ついにはバケツを一思いにひっくり返したかのような大瀑布へと変貌した。


「……早く帰りましょう。ここに傘があります」

「えっ?」


 唐突な提案に、僕は思わず聞き返してしまう。それが単純な驚きなのか、もしくは拒否感から生まれた言なのか、うまく判別はつけられなかった。


「あなたのことですから、天気予報を鵜呑みにして、傘なんて持ってきてないはずです。困りますよね?だから一緒に……相合傘をしようと言っているんです」

「いやでも、もう少し待ってからでも……」

「『今日の夕飯はホイコーローなのよ。あの子が昔っから好きで好きで……』」

「なっ、お前っ、いつ母さんと話したんだよ」

「今朝です。偶然会ったんですよ」


 ダメだ。一体何を考えているのか、マネキンのような表情からはさっぱり読み取れない。


「それで、どうするんですか?胃の方は、愛しきホイコーローを待ちわびているようですが」


 彼女の発言に呼応するように、雨音の中を一つ、グゥゥという間抜けな音が通り過ぎた。僕は仕方なく、「腹のせいだ」と心中で呟いてから吐き捨てた。


「ああもう、分かったよ、行くから……!」


 情けない姿を嘲笑うように、雨音は語気を強める。

 そんな最中、白熱灯の下にパッと、藍色の花が一輪咲いた。


 僕らは駅へ向かって歩みを進めた。先程から強風も吹き荒れ始め、横殴りの雨には傘など功をなさず、はみ出た左肩などは既にずぶ濡れだったが、彼女はお構い無しに相合傘を続けている。交わされる会話が皆無なのは以前と同様だったが、今となっては気まずさしか感じられない。

 ……何か話題を作らねば。でなければ、僕の心が持たない。好きな曲、好きな映画、好きな食べ物……。

 脳内で話題候補を作っては、片隅の屑箱へと投げ捨てていく。ありきたりの話題は全て、彼女とは飽きるほど話していた。となると、残弾は、ずっと気になっていた一つの疑問だけだった。


「なあ……なんで僕のこと、敬語で呼び始めたんだ」


 沈黙。雨音がそれを覆い隠してくれている。

 何か彼女が呟いた気はしたが、雨粒のノイズに邪魔されて、伝わったのは唇の動きだけだった。もちろん読唇術などできるわけもなく、僕はやや大きめの声で聞き返すしかなかった。しかし、その時。


「あなたのせいですよ」


 はっきりとした九文字が、僕の鼓膜を震わした。その音の輪郭は、ぼやけた暗闇の中でも鮮明に浮かんでいた。彼女らしくない言葉だった。


「あなたが距離をとったから、私も合わせた。レディの優しさというものです」

「は……?何言ってるんだ、先に距離を取り始めたのはそっちだろ」

「違います。私が敬語を使い始めたのは高校一年生の春休み明けからですが、あなたの態度に変化が表れたのは中学二年生の終わり頃のことでした」


 その回答に僕は面食らってしまった。あんなに平静を装おうと努力していたのに、彼女には僅かな機微がバレバレだったのだ。

 しかし当然、そんな事実を認めるわけにはいかなかったし、認めたくもなかった。


「なっ、何言ってるんだよ。僕はずっと昔からこんな感じだったぞ。変わったのは僕じゃなくて、そっちが僕を見る目なんじゃないのかよ」


 何も考えずにつらつらと述べただけだった。

 しかし、返答はない。代わりに聞こえてきたのは、息を飲むかすかな音だった。


 ザアザアザアと、スノーノイズのような雨音は続く。


 不審に思いながら横を向くと、そこには黙りこくって俯いている彼女の姿があった。

 ふと、目が合ってしまう。からかわれるかと身構えたが、彼女は瞬きを数回した後、プイッと視線を背けて元に戻るだけだった。


 ああ、調子が狂う。

 開き直って言おう。どうして僕の接し方が一ミリほどズレただけで、こんなにも態度を変える必要があるんだろう。やっぱり、変化しているのは彼女の方もだ。敬語も、よそよそしい態度も、一概に僕のせいではないのだろう。


「……確かに、変わりました」


 おずおずとした声。わずかな抑揚が含まれているのは、彼女にしては珍しかった。


「何がだよ」

「私の見る目……いや……やっぱり、先輩の方が変です。変わってます。撤回させてください」

「なんなんだよ……」


 駅も近づいてきたというのに、人の姿はまばらだった。彼らは例外なく水に塗れて、お守りをつけた身体を引きずって歩いていたが、なぜか示し合わせたように、無意味な傘をいつまでも掲げていた。

 沈黙はもはや苦ではなかった。いや、雨による不快感がそれを上書きしてしまったのだ。やがて言葉は湿気に隠れ、鼓膜には絶え間無い雨音だけが残った。


 突然、背後から轟音が響いた。

 視界の端にはヘッドライトの黄色光が映り始める。


「風野っ!」


 咄嗟の反応だった。僕は車道側にいる彼女を抱き寄せると、車と彼女の合間にするりと入り、立ち昇る濁流を一手に浴びたのだ。

 なんと無意味な行動だろう。すでに双方とも、これ以上湿りようがないほどに濡れていたのに。


 反動で、藍色の傘はぽとりと落ちた。


 風雨が二人の全身を叩きつけては去っていく。

 僕は自分がしたことの無益さを、今更ながら痛感していた。なんでこんなことをしたのか、結局は風野玲の傘を落花させるだけに終着し、物事はマイナスへしか動いていない。

 心は上空の漆黒に近かった。虚しさを噛み締めるようにただぼうっと、雨天に身を任せているしかなかった。


「なんで、風野って呼ぶんですか」


 気づけば、目の前には彼女の姿があった。僕を見下ろす表情には、涙のような雨粒が流れている。


「距離感に合わせただけだ。僕は……」

「全部あなたの勝手じゃないですか。そんなこと、頼んでもないのに」

「お前だってさっきから言ってるけど、急に敬語なんか使い始めてさ」

「それは別にいいんです。その理由は仕方がないんです、あなたのせいなんですっ……!」


 両者とも、この議論が泥沼状態に突入していることに気づき始め、やがては本音を押し込めた仄暗い表情を突き合わせるだけになった。僕はやるせなくなって、「ほら、行こう」と逃げるように傘へ向かった。


 その時だった。


「センパイ」


 片言のような四文字が、不意に僕の胸を貫いた。

 ハッとして振り向けば、そこには唇をぎゅっと結んだ彼女がいた。ふと、僕は雨に濡れる子犬の姿を連想する。

 その言葉は、得体の知れぬ巨大な力で僕の足を堰き止めていた。なんの意図があっての言かは知るよしもない。名字で呼ぶ僕への当てつけか、それとも無意識下で僕をそう形容していたのか、いずれにせよ、僕は無性に悲しくなってしまった。

 ああ、僕の心に芯などないのだ。自分から彼女を遠ざけて、「風野」だなんて呼称を変えておいて、彼女の方から距離を取られるのが嫌だなんて、まさに先刻の発言通りじゃないか。あまりに身勝手すぎる。


 嫌に熱していた心は、雨によってだんだんと醒めていく。僕は自分の情けなさと、ずっと昔の記憶を撫でてから、二人の間にそっと言葉を置いた。


「……行こう、玲」


 雨風はますます気勢を増していたが、彼女の表情は静かに晴れていた。穏やかな晴天を一瞥し、ふと、僕は手を伸ばす。その手は間も無く、雨水を通じて彼女と繋がった。


「…………ありがとう」


 暗雲と闇の中に、藍色の花が再び咲いた。

 雨も悪いことばかりじゃない、かもしれない。心の曇天に射した一条の光を、確かに僕は感じていた。

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