蝕
「それでは、戦争しかありませんな」
人間ではない。
田中はハンカチを取り出し、冷や汗を拭った。
彼は今、非公式に料亭を訪れていた。人払いが済んだ畳張りの小部屋には、これでもかと懐石料理が並べられている。
天ぷらの、
釜飯の、
魚の焼けた匂いが何とも旨そうに彼の鼻を擽る。どれも彼の大好物だった。しかし彼の箸は、まだ一向に進んでいなかった。
それどころか、まだ酒の一滴も。
永田町では無類の酒好きで知られる田中にとって、これは号外に等しい事件だった。
「戦争しかないでしょうなぁ」
向の男はそう繰り返し、呵呵と嗤った。大柄な男である。何と不気味な嗤い声なのだろう。得体の知れない妖気に気圧され、田中は震え上がった。妖気……そう、正にこの男は妖怪なのではないか?
鬼、悪魔、怨霊、死神、外道……何と言い表せば良いか分からないが、とにかく邪な存在に違いない。この世のものではない。およそ人間ではない。
「はぁ……戦争ですか」
気がつくと田中は、自分でも拍子抜けするほど間抜けな返事をしていた。この会話は記録されない。政府は存在すら否定する、非公式な会談、いや交渉だった。向の男のとの。明らかな人外との。
「そう……確かに我々は、人間ではない」
黒い薄布で顔を覆った男が、旨そうに酒を啜った。田中はギョッとなった。この男、人の心が読めるのか!?
「あなた方が俗に言う、あの世に棲んでいる……ふふふ」
田中の目が不安げに虚空を泳いだ。あの世だと。全く。こんな与太話、普段の自分なら一笑に付すところだ。だが彼の頬は、今にも引付けを起こさんばかりに震えるのみだった。何せこの眼で見てしまったのだから。この男の力を。何よりも、そう、あの世を。
「一体何が気に食わんのですか」
田中は前のめりになり、気色ばんだ。構うものか。心が読まれているのなら、今さら本音を隠し立てする意味もあるまい。
「もちろん人間には寿命がある。そりゃそうだ。しかし、出来るだけ長生きしたい。生き永らえたい。当たり前のことでしょうが!」
「我々が望むのは、あなた方の死です」
向の男がくっく、と肩を揺らした。
「この世に住むあなた方が、生きたいのと同じように、我々はあなた方に死んで欲しい……そんな顔しなさんな。そりゃ理解できないでしょうな。棲んでいる世界が違う。ふむ。これはあの世に棲む我々の、生存本能に近いものなのです……いや、死存本能とでも言うべきか」
「し……しかし」
田中は再び汗を拭った。さっきより大量の汗がどっと噴き出てきていた。本能として生者の死を望む? この男、やはり死神か何かだろうか?
「多すぎる」
「ん?」
「多すぎる。二百万人はいくら何でも多すぎる。二百万人の命だぞ!? そう簡単に、はいそうですかと差し出せるような数ではない!」
「では何人なら良いのです?」
顔の見えない男は、愉しそうに首を傾げた。
「何人の命なら差し出せるんですか? 二百人? 二千人? その線引きは何処にあるんですか?」
「せ、線引きなどできるものか……命の数に……ッ」
「ですから、我々は力づくでも構わない、と言っているのです」
障子の向こうから、何処からか三味線の洒落た音が流れ流れてくる。男が唄うように囁いた。
「戦争でも」
「ま……」
「……それでは」
「待ってくれ!」
男が腰を上げかけた。田中は思わず立ち上がった。グラスが畳に落ち、溢れた酒が彼の足を濡らした。
「こ、これは非公式な情報だが……」
声が震えているのが分かる。だが、ここで引き下がるわけにもいかなかった。
「……我々は近々、他国が大規模な軍事訓練を行うとの情報を掴んでいる」
「ほぅ?」
「もう決まっているんだよ。数年先まで……世界史の年表は。裏でな。もちろん誰も、存在を認めないだろうが」
「未来の予定……ですか?」
「その年表を、情報を君たちに開け渡すと約束しよう」
「約束……ねぇ」
男が再び腰を下ろした。田中は男の目を……おそらく目に当たるであろう部分を……ジッと見つめた。目を逸らさないよう必死に堪えながら。
「……決して今すぐとはいかないが、その年表を確認してもらえれば、君たちが十分に満足できる数が載っているはずだ」
「…………」
「…………」
「……ハーッハッハッハァ!」
すると突然、向の男が哄笑し出した。田中は呆気に取られた。さっきまであれほど圧を放っていた男が、まるで無邪気な子供のように、膝を叩き腹を抱え、大笑いしている。
「いやぁ……笑わせてもらいました」
薄布の中に指を入れ……涙を拭いているのか……男が嬉しそうに嗤った。
「まさか自らの未来を売り渡すとは、こりゃ参った。つまりこういうことですか? 別に我々が仕掛けなくても、近々、人間は勝手に戦争を始める。そしてその未来は既に決まったことだ……と」
「……あくまで非公式な情報だが」
「面白い。面白い」
男がすくと立ち上がった。あんまり突然だったので、田中は思わず尻餅を突きそうになった。男が右手を差し出した。
「俄然その年表とやらを見たくなってきましたよ。一体何年先まで計画しているのやら。どれだけの規模の……おっと。愉しみはまだ取っておきましょう。分かりました。あなた方は自分たちの未来を約束する、と」
「何度も言うが、これはあくまで……」
「御約束ですよ」
「……嗚呼」
田中がゆっくりと男の右手を握り返した。何だかひどく冷たい手だった。
「決まりだ」
向の男が満足そうに頷いた。田中は一瞬、自分がとんでもない間違いを犯したのではないか、という考えに囚われた。
「やれやれ。良い話が聞けて何よりです。未来の年表とは。今夜は良い酒が呑めた。ねぇ?」
「…………」
男は帽子を被り、部屋を出て行こうとした。
「しかしまぁ」
去り際、ふと立ち止まり、男は田中の方を振り返ってこう尋ねた。
「私が言うのもなんですが……人間って、自分で自分の未来を変えようと思ったことはないんですか?」
田中の返事を待たずに、男は部屋を出ていった。1人部屋に取り残された田中は、しばらくその場に立ち竦んでいた。『来年の話をすると鬼が笑う』、そんな言葉をふと思い出しながら。
◻︎
「これがその年表だ」
暗がりの中で、男がそう言って大きく肩を揺すった。此処は、何処だろうか? 分からない。大きな椅子に座った男は、酒も入っているのか、上機嫌で目の前にいる少女に語りかけていた。
「『世界史の未来年表』……多少のずれはあるが、概ねこの通りだ。おかげで仕事が大分やりやすくなった。ククク。連中め、思いのほか義理堅いじゃないか」
男が満足そうにツノを撫でた。少女は動かない。立ったまま、黙って男の話に耳を傾けている。
「だが、奴らが御約束を違えた時は……」
云いながら、少女の手に刀が手渡された。柄の黒い、鍔に真言が刻まれた
無銘
の刀だった。少女は刀をじっ……と見つめた。魚を捌くには大分長い。かといって杖代わりにするにも一寸短そうだ。
正に。
少女は静かに唾を飲み込んだ。
正に、人を斬るためだけ……人を、
人を殺す、そのためだけに作られた武器……。
その刀は、暗がりの中で、常人には視えない、禍々しい妖光を放っていた。少女はしばらく目を離せなかった。魅入られていた。小さく鼻の穴を膨らます少女を見、
「その時は」
黒い、半透明の薄布の向こうから、嗄れた嗤い声が轟いた。
「構わん、迷わず殺せ。分かったな、エクリプス」




