手折る
親友に恋人を奪われた。
ドラマや小説で使い古された、陳腐な設定。ありがちな出来事。でも、実際に自分が経験することになるとは思ってもみなかった展開。
親友に恋人を奪われた。
百合は涙を流していたし、望はひたすら頭を下げていた。二人とも、私のことを気遣ってくれているのが分かった。でも、百合は望と付き合うことになったし、望は私のもとから離れていった。
親友に恋人を奪われた。
私は、一人になってしまった。
百合は高校の時からの親友だ。選択授業でたまたま一緒になったのがきっかけ、と百合は思っているだろうが、実際は少しだけ違う。選択授業の後で、当番も決めていなかった黒板の掃除を、当たり前のようにやっている百合を見たのが、本当のきっかけ。先生は立ち去り、他の子もだらだらと片づけながら移動している中、ささっと黒板の文字を消している後ろ姿を見て、自然とそういうことができる子なんだな、と私は感心した。その後何事もなかったかのように友達に混ざって談笑する百合の顔を眺めながら、彼女と話してみたいなと思った。ある意味、私の一目ぼれと言えるだろう。そこから私たちは仲良くなった。百合は純粋で優しい。私は百合のそういうところが大好きだった。
望と付き合ったのは二年前の冬。春から部署が同じになり、関わることが多くなったのがきっかけだ。
望は三歳上の先輩で、社内でも有名な「できる人」だった。頭の回転が速く、上司に重宝されていて、将来の有望株。そのうえルックスも良く、腰の高いスラリとしたスタイルにやや目尻の垂れた甘い顔立ちは女性人気が高かった。それほど恵まれた性質を持っておきながら、未婚で硬派だったので、「おまえは仕事と結婚したいんだろ」と同僚にからかわれているような人だった。
望の凄いところは、仕事ができるところはもちろんのこと、誰にでも何にでも安定した姿勢で臨めるところだった。嫌味な上司に雑用を頼まれても、不器用な後輩に助けを求められても、いつも穏やかな顔で了承していた。彼は「できる人」な上に「怒らない人」だと思われていた。
しかし、私は気づいてしまった。望には、一瞬だけふと見せる無表情があった。上司の前から下がって、机に向かう一瞬。部下が立ち去って、コーヒーを飲む一瞬。感情を押し殺し、平坦な目をする時があった。望は、仕事に感情を持ち込まないようにしていたのだ。本当は愚痴や悪態をこぼしたいところを我慢して、一人でひっそりと抱えこんでいた。それに気が付いた途端、私は、この人の傍にいたい、と強く思った。
それからは、私から意識して声をかけるようにしたり、望から声をかけてくれることも増えたりして、徐々に親しくなった。そしてクリスマスを迎える少し前、望から交際を申し込んでくれた。
百合とは社会人になってからも定期的に会っていたから、望のことも当然話した。同じ会社の先輩で、春から異動してきて一緒に仕事してるの。すっごく頭の回転が速くて、上司からも頼られてて、かっこいいの。いろんな子から憧れられてるのに、私のことを好きになってくれたの。かっこいいふりをしているのに、私の前では子供みたいに笑うところが大好きなの。私は、百合には何でも話した。
百合も、いつものように素直に私の話を聞いてくれた。祝福もしてくれた。つまらない愚痴にも楽し気に付き合ってくれたし、相談事にも真剣に意見してくれた。
大切な親友と大好きな恋人。私が二人を会わせたのは、自然なことだった。それがどうしてこうなってしまったのだろうか。
望から別れ話を切り出されたのは、二人でデートをした帰り。行きつけの喫茶店で一息ついている時だった。梅雨前線がすぐそばまで迫ってきて、窓の外はいつでもどんよりしていた。私が望のレインコートを選び、望が私の傘を選んで買った。具体的な言葉こそ出したことはなかったけれど、私はいつか望と結婚するのだろうと思っていた。
「椿、聞いてほしいことがあるんだけどさ。」
望はあまり珈琲を飲んでいなかった。私は、少し真剣な話が飛び出すことを予感していた。でも今思えば、私は呑気なものだった。デザートフォークを安定させてお皿の上に置くことに気を配っていたし、ケーキの欠片がついている気がして、念入りに紙ナプキンで口元を押さえていた。そんなことどうでも良くなるくらい悲しいことを、これから言われるというのに。
「椿、俺と別れてほしい。俺、百合ちゃんのことが好きになった。」
私は息ができなかった。
言っていることの意味が分からない、と混乱する半面、別れを切り出されたことを瞬時に理解し、絶望している自分もいた。望の真剣な目に射抜かれて、胸が苦しくて、息ができない。このまま死んでしまうのではないかと思った。
望は、ごめん、本当にごめん、と言って頭を下げた。柔らかな髪が垂れていた。見慣れた分け目がぼんやりしている。涙が溢れて止まらなかった。
どうして?と、かろうじて声に出すことができた。望はそっと頭を上げた。私が泣いているのを見て、痛まし気に顔を歪めたけれど、慰めてくれる様子はなかった。望は静かに話しだした。
「最初は、本当にただ椿の友達としか見てなかった。でも、何回か三人でご飯に行ったり、椿から百合ちゃんの話を聞いたりしてたら、百合ちゃんっていい子なんだなって思うようになった。椿が大事にしてるのも分かった。
椿と百合ちゃんを比べたことは一回もない。でも、だんだん百合ちゃんのことが気になるようになった。椿のことが嫌いになったんじゃなくて、百合ちゃんの傍にいたいと思うようになってしまった。こんなこと言ったら、椿が傷つくのは分かってた。間違ってるとも思った。だから隠していようと思ってたけど、この気持ちを抱えたまま椿の傍にいるのも、椿のこと裏切ってるみたいで、耐えられないんだ。
だから、俺と別れてほしい。椿。本当にごめん。」
望はもう一度頭を下げた。そして真面目な顔で私を見つめた。
望は本気だ。それだけが私に理解できたことだった。望は本気で、私と別れようとしている。百合が好きになったから。私じゃなくて、百合と一緒にいたいから。
望のことが好きだった。別れたくなかった。でも、別れたくないと言ってどうなる?だって、私はもう知っているのだ。望は、私より百合の方が好きなのだということを。知らなければ、今までどおりでいられたのに。黙っていてくれれば良かったのに。どうして望は私にこんなことを言うんだろう。どうして百合なんだろう。百合は私の大事な親友なのに。百合のことも望のことも、私は失いたくないのに。
目から零れる涙をそのままに、私は目の前の望を見つめた。望は目をそらすこともなく、静かに私を見ていた。私を丸ごと慈しむような、穏やかな瞳。私がずっと好きだった人。私にずっと好きだと言ってくれた人。私を見る望は何も変わっていなかった。望は、私にだけは平坦な目をしない。いつだって素直に感情を吐き出してくれる。それが嬉しくて、幸せで、私の存在価値だとさえ思っていた。それなのに、この人は、私より百合を好きになってしまったのだ。
百合のどこが好きなんだろう。私より丸い目?私より白い肌?私より純真なところ?
そこまで考えて、私は自分が嫌になった。これ以上考えたら、私はおかしくなる。百合のことも望のことも憎んでしまう。それだけは絶対にしたくないし、そんな醜い自分は許せなかった。
私にはどうすることもできなかった。望を責めることも、百合を妬むこともできなかった。誰も悪くないのだ。それは分かっていた。
私は涙をこらえながら、望に、私と別れたらどうするつもりなのかとたずねた。百合に告白するつもりなのか、と。
望は目を伏せて頷いた。
「付き合えなくていい。でも、告白はする。気持ちに踏ん切りをつけたいから。」
そんなことしても、誰も幸せにならないじゃないか。そう思ったが、私は望の意思を尊重したかった。離れていく望を引き止めることも、百合への告白をやめさせることもしたくなかった。私は望のことが好きだったし、望に好きでいてほしかったのだ。たとえ別れることになっても。
百合から、望さんと付き合いたいの、と泣きながら電話が来たのは、その一週間後だった。
百合は泣きじゃくっていた。私は百合がこんなに泣いているところを、聞いたことも見たこともなかった。電話を繋いだまま、私は百合の家に行った。百合はベッドに座って、クッションを抱きながら泣いていた。ごめんなさい、許して、好きになりたくなかったのに、ほんとにごめんなさい。か細い声で繰り返していた。
私はその瞬間、とうとう追い詰められた気がした。本当に、どうすることもできなくなったと思った。今ここで、百合のことを突き飛ばして、罵って、絶交することができたら、どれだけ楽になれるだろう。望のところへ行って、泣いて叫んで、ビンタの一つでも食らわせてやれたら、どれだけスッキリするだろう。
私にはできなかった。百合が大事だ。望が大事だ。大事だから、失いたくなかった。なのに、いつの間にかどちらも私の手から離れて、知らないところで結ばれてしまった。私は、繋がった彼らを眺めることしかできない。繋がった彼らを、ほろ苦い気持ちを抱えながら、大事にするしかない。
何がいけなかったのだろう。誰が悪いのだろう。答えのない問いが、頭の中をぐるぐると回る。
しゃくりあげている百合を抱きしめた。百合の体温と肩の震えを直接感じて、私は無性に寂しくなった。そして、この寂しさが生涯消えることはないのだと理解した。
親友の恋人を奪ってしまった。
自分でも最低だと思う。椿を傷つけたことは十分に分かっているつもり。それなのに椿の前であんなに泣いてしまうなんて、今思えばずるかったかもしれない。でも、あの時は自分で自分が制御できなかった。
親友の恋人を奪ってしまった。
罪悪感と自己嫌悪。悩んで悩んで、悩み過ぎて、一人ではどうすることもできなくなった。どうにか救われたくて、行動した。我慢ができなかった。
親友の恋人を奪ってしまった。
望さんが好き。それでも、私は椿と親友でいたい。
望さんは優しい人だ。私のことを気遣ってくれるし、椿のショックを最小限に留めてくれた。私が望さんに告白したことを、椿には内緒にしてくれたのだ。
そう。じつは、私が先に望さんを好きになっていた。気付いたら、椿の隣で微笑む望さんから目が離せなくなっていた。これはいけない気持ちだ、とすぐに思った。だって、この人は大好きな椿の恋人なのだから。私が好きになっていい人じゃない。頭では理解していた。
でも、望さんと目を合わせて話せると嬉しかった。椿からデートの土産話を聞くと羨ましくて仕方がなかった。この気持ちの無くし方が分からなかった。私は椿が大好きだし、椿と話す時間は何よりも大切だ。なのに、だんだんと恐怖するようになっていた。いつかこの気持ちが椿にバレてしまうんじゃないか、いつか私は嫉妬でおかしくなってしまうんじゃないか。椿に会うほど、私は怖くなった。大好きな椿に嫌われたくない。嫌いになりたくもない。でも、望さんへの想いを消すことができない。椿の親友である限り、望さんの姿を無視することができない。椿の話に笑顔で相槌を打ちながら、頭も心もぐちゃぐちゃになっていく。私は限界だった。
望さんと二人きりで会ったのは、それが初めてだった。どうしても椿に知られたくない話がある、と言って、椿の家から遠い喫茶店に望さんを呼び出した。
望さんは何を疑うでもなく来てくれた。私の顔がよほど緊張していたのだろう、小さなパフェまで奢ってくれた。私は望さんの顔をろくに見ることができなくて、グラスの中の薄桃色のセリーを見つめながら話した。
「どうしても自力では気持ちが消せないので、望さんに消してもらおうと思ってお呼びしました。迷惑をおかけしてごめんないさい。望さんのこと、好きです。椿が大好きなのに、望さんのことも好きなんです。本当にごめんなさい。」
私の言葉に望さんは驚いていた。当たり前だ。望さんは椿の恋人なのだから。
「このこと、椿には言わないでください。私、椿の親友でいたいんです。だから、今日、望さんに振ってもらって、すっきりしたくて・・・。」
話しながら、なぜか泣いてしまった。こんなつもりではなかったのに。最悪だった。望さんをなおさら困らせてしまった。
情けなくて顔を俯かせていると、しばらくして望さんが、百合ちゃん、と声をかけてきた。
「百合ちゃん、今までつらかったんだね。気が付かなくてごめん。本当は俺の方が先に行動しなきゃいけなかったのに、大変な思いさせちゃって、ごめんね。」
望さんは優しい顔をしていた。私には望さんの言っていることの意味が分からなかった。どういうことですか、と聞こうとした時、望さんがそっと私の手を握った。大きいのにすらりとした指から、目が離せなかった。
「俺のこと、少しだけ待っててくれないかな。どうしたらいいか迷ってたんだけど、百合ちゃんが勇気を出してくれたお陰で、俺も踏ん切りがついた。椿と大事な話をしてくるよ。そしたら百合ちゃん、今度は俺が、百合ちゃんに気持ちを伝えるから。」
だから待ってて、と言って、望さんの手が私の手をふわりと撫でた。
呆然としている私を置いて、望さんは帰った。そして次の日、望さんから電話が来て、椿とは別れた、俺と付き合ってほしい、と言われた。
そのとき真っ先に私の頭に浮かんだのは、喜びでも驚きでもなく、椿に何て言ったらいいんだろう、だった。
望さんには、少し時間が欲しい、とお願いした。望さんと付き合えるのはもちろん嬉しかったし、夢のようだと思ったけれど、やっぱり椿と話してからにしたかったのだ。
私は考えた。椿に何と言ったらいいのか。考えて、考えて、何日も考えて、怖くなった。どう言っても、私のしたことが椿に許されるわけがないと思った。椿の恋人である望さんを奪ってしまったのだ。椿がどれだけ望さんのことを大事に想っていたか、私はよく知っていた。知っていたのに、こんなことになってしまったのだ。私のせいだ。
どうしようもない私に、望さんは毎日連絡をくれていた。『ちゃんと眠れてますか』『あまり思い詰めないようにね』『百合ちゃんが悪いんじゃないよ』『ちゃんと話せば、椿ならきっと分かってくれると思う』『僕はいつでも力になります』。どの言葉も優しかった。望さんの言葉は私に安心を与えてくれて、今すぐ縋りつきたい気持ちになった。でもそれは最後の手段だ。
望さんは自力で、何なら私のことをかばいながら、椿と話をしたのだ。そしてきちんとお別れをして、私のところへ来てくれた。私も、望さんときちんとお付き合いするために、自分で椿と話したい。そう思っていた。ちゃんと椿と会って、謝って、説明して、望さんと付き合うことを許してもらいたい。
許してもらいたいけど、許してもらえないかもしれない。許してもらえなかったら、椿は私を嫌い、二度と会ってくれなくなるだろう。大好きな親友の椿に嫌われたら、どうすればいいんだろう。そう考えると、怖くてたまらなかった。スマホに文字を入力しても、どう話せば許してもらえるのか、嫌われないで済むのか、さっぱり分からなかった。時間ばかりが過ぎていく。私は頭も心も疲れてしまって、とうとう望さんに相談した。
「百合ちゃんと椿はとっても仲がいいから、やっぱり、素直に気持ちを伝えるのが一番なんじゃないかな。」
スマホ越しに聞こえる望さんの声は、とても落ち着いていた。三つしか年齢は違わないのに、望さんは本当に大人だと思った。
「もちろん、椿は傷つくと思う。怒ったり泣いたりするかもしれない。俺も椿を泣かせちゃったし。でも、椿は百合ちゃんのことが大事だから、正直に話せばきっと分かってくれると思う。
大丈夫だよ。百合ちゃんと椿なら。きっとこれからも仲良しでいられるよ。」
こんなこと言える立場じゃないけどね、俺。そうやって苦笑しながら、望さんはアドバイスをしてくれた。望さんに言ってもらうと、不思議と大丈夫な気がした。安心した。やっぱり私は望さんが好きだと思った。
そして私は椿に電話をかけた。メッセージも返せていなかったので、連絡をするのは数週間ぶりだ。私は、呼び出し音を聞いている時から緊張していた。
「百合?どうしたの?」
椿の声を聞いた瞬間、私は泣き崩れてしまった。私の大好きな椿の声だった。高校生の頃からいろんな話をして、一緒に笑って、悩んで、悲しんでくれた椿の声。大好きだけど、今の私は、これだけは伝えなくてはいけなかった。しゃくりあげながら、振り絞るように言った。
「椿。私、望さんと付き合いたいの。」
あの日、椿は一度も私を責めなかった。大泣きしている私を、ただただ優しく慰めてくれた。
あの日だけじゃない。椿はあの日から一度も私を責めない。望さんを責めない。今までどおり、定期的に会って、お喋りしてくれる。望さんのことを話しても、笑ってくれる。何も変わらず親友でいてくれている。
でも、平気じゃないことくらいすぐに分かる。会話の途中でふと見せる、寂し気な目。望さんの名前が出るたび、一瞬こわばる口元。
椿はずっと傷ついている。私のせいで。でもそれを隠して、一緒にいようとしてくれている。乗り越えようとしてくれている。私だって同じだ。苦しいこともあったけど、望さんのことも椿のことも大好きだ。これからも一緒にいたい。だったら、私がやるべきことは一つしかない。
「ねえ、椿。来週さ、望さんも呼んでもいいかな。ちょっとずつでいいから、三人でまた仲良くできないかな。」
私が三人でいる時間を愛せばいいのだ。望さんを大事にして、椿を支えて、これまで以上に二人と一緒にいる時間を愛せば、きっとまた三人で笑いあえる日が来る。私が頑張れば、椿もきっと乗り越えられる。望さんも安心してくれる。
それが私のやるべきことだ。もう迷いはない。私は、目の前で目を見開いている椿を応援するように、にっこりと微笑んで見せる。
恋人の親友と付き合った。
これは俺の意思だ。俺がそうしたいと思ったから、椿の親友である百合と付き合うことにした。
後悔はしていない。
なぜなら、俺は椿を何よりも愛しているから。
椿のことは、会社で見かけた時から綺麗だと思っていた。
容姿だけではない。椿の美しさの最たるはその瞳だ。椿は人を見るとき、少し独特の目つきをする。顔面に並んだ目玉や鼻や唇を眺めるのではなく、その奥を這う神経の流れを読むような、こちらの後頭部まで透けて見えているかのような、そんな目をする。
「先輩の手持ち、私にサポートさせてもらえませんか。」
椿が初めて、個人的に俺に声をかけた言葉だ。その時俺は、担当外の資料と原稿の作成を上司に任されていた。おまけにその上司はさっさと帰っている。内心げんなりしていると、まだ親しくもない俺に、椿がそっと声をかけてくれたのだ。椿にその独特の目で見つめられたとき、俺は、この人しかいないと思った。この人に愛されたいし、この人しか愛したくないと思った。それは今までに感じたことのない強い衝動であり、激しい欲望だった。俺はその瞬間から、椿に夢中になった。
椿はとても愛情深い。恋人になった俺をとても大事にしてくれた。俺は椿を知れば知るほど、さらに強く椿を愛するようになった。椿といると全てが幸せだった。二人で歩幅を合わせて歩けること、美味しいものもまずいものも分け合えること、あたたかい布団で身を寄せ合って眠れること、そして、俺だけを見てもらえること。椿の美しい瞳は、俺のすべてを見透かして、丸ごと包んで許してくれるようだった。その瞳を独占できる時間が、俺はどうしようもなく幸せだった。
だが、椿にはもう一人大事にしている人がいた。百合だ。百合の話は椿からよく聞いていた。百合と約束してた日だから、とデートを先延ばしにされたり、百合がおすすめしてくれたからあの店に行ってみたい、とねだられたりした。はっきりと親友だと紹介されたことはないが、椿の話しぶりから、唯一無二の大事な親友であることは明白だった。俺は面白くなかった。まだ見ぬ百合に嫉妬していた。しかし椿にはもちろんそんな顔は見せなかったし、快く送り出す素振りをしていた。
初めて百合と会ったとき、あまりにもよくいる普通の女なので、拍子抜けしたのを覚えている。可もなく不可もなく、おとなしくて女らしい子。特別容姿に優れているわけでもなければ、特別才能がある様子でもない。笑顔を浮かべて俺に挨拶し、メニューを眺めてあれかこれかと悩み、椿のパスタを一口欲しがる。最近のデートのことを教えてとねだり、自分の周りにはいい人がいないと大袈裟に不満がり、気になっているカフェのサイトを見せて椿と一緒に行く約束を取りつける。至って普通の女だった。椿がどうしてこの女にこだわっているのか、俺にはさっぱり分からなかった。
それでも百合が椿の親友であることには違わなかったので、その日の帰り、百合ちゃんはいい子だね、と椿に言った。椿はそれをとても喜んだ。それから何回か百合を交えて食事をした。俺は内心、椿と二人で行きたかったのだが、椿は百合に会いたがっていた。俺を置いて二人で出かけられるよりはマシなので、三人での食事に同意するほかなかった。俺は、百合と会うなとは絶対に言えなかった。椿に嫌われることだけはしたくなかったのだ。
百合が俺を好いていることには、すぐに気が付いた。
食事の回数を重ねるうち、俺に向ける視線に熱が帯び始め、俺を見る時間が少し長くなった。女特有の上目遣い。俺は激しい嫌悪感を覚えた。この女は、椿と俺の時間を邪魔しておきながら、さらには俺に好意を寄せているというのか。こいつの親友であるはずの、椿の恋人である、この俺に。なんて浅ましい女だろうと思った。こんな女が椿につきまとっていることが許せなかったし、こんな女を大事にしている椿が憐れだと思った。
しかし、そんな百合の汚い感情に気が付くこともなく、いつもどおり笑顔を向けている椿を見て、俺の考えは変わった。
利用すればいい。百合を俺のものにしてしまえばいいのだ。
椿はきっと、親友である百合を一生大事にするのだろう。もし俺が百合の浅ましさを話したとしても信じないだろうし、俺が椿と結婚したとしても、百合が誰かと結婚したとしても、椿は百合と会うことをやめないだろう。俺が椿を独占することはできないのだ。百合がいる限り。
それならば、百合を俺のものにするしかない。この浅ましい、椿に似合わない女を俺のものにすれば、椿の百合への感情も俺のものにすることができる。それはすなわち、椿のすべてを俺のものにできるということだ。
俺は百合の恋人としてでも椿を愛することができるし、椿は百合の恋人であっても俺のことを愛してくれるだろう。椿は愛情深いのだ。百合は浅ましく汚い女だが、椿の唯一無二の親友だ。椿は百合のことも愛し続けるに違いない。憐れで美しく、気高くて愛情深い、俺の椿。
椿のすべてを手に入れるためには、この方法しかなかった。
だから俺は椿と別れた。もちろん悲しかったし、涙を流す椿を見て胸が痛んだ。
そして同時に、激しい高揚感を覚えた。俺のためだけに泣く椿が愛おしくて仕方がなかった。椿は俺のことを絶対に忘れないだろう。俺のことを嫌いになろうと努力はするかもしれないが、そんなことはさせない。俺には百合というカードがあるのだ。
俺は百合と付き合い、ひたすら優しくした。百合は不安がることが多く、すぐパニックになって泣く面倒な女だったが、椿の親友だ。辛抱強く優しい言葉を並べたてた。俺が優しくすると、百合は分かりやすく喜んで、ますます俺に心を開いた。俺は百合を慰め、甘やかし、そして洗脳した。椿と俺たちは、いつかきっと以前のように三人で仲良くできるはずだ。誰も悪くないし、優しい椿が俺たちのことを憎むはずがない。俺たちが頑張れば、きっと元どおりになれる。だから頑張ろう。そう言って抱きしめるだけで、百合は泣き止み、俺の言うとおりに動くのだった。
おかげで百合は、以前よりさらに頻繁に、椿と連絡をとっている。俺もたまに食事に同席している。
椿はいつ見ても美しかった。平気そうに微笑む顔、困ったように垂れる眉。そして、俺を見る目。奥深くを見通す鋭さを、ほんの少し鈍らせる、悲哀と寂寥の色。ちらりと愛憎を覗かせたかと思えば、すぐさま自己嫌悪している暗い色。今までも十分美しかったが、複雑な感情を抱く今の椿は、さらに美しかった。
椿がこんな目をするのは俺に対してだけだ。俺にだけ向ける特別な感情があるからだ。俺はようやく、椿のすべてを手に入れた。椿の唯一無二になることができたのだ。
俺は満足している。だが、この満足が永遠には続かないことを理解している。いつか椿のそばに新たな影が現れるだろう。椿は一度認めればどんなものにでも愛情を注ぐ。その影は調子に乗って、椿に寄り添い、優しい言葉をかけるかもしれない。俺と椿を引き離そうとするかもしれない。そうなれば、俺は影を排除しなければならない。それが男であろうと女であろうと、邪魔なものには変わらない。椿の愛情を奪う奴は許さない。椿は俺だけのものなのだから。
ふと視線を上げると、椿が店に入ってきたところだった。俺の隣で手を振る百合を見つけて、こちらへ歩いてくる。椿が百合の薬指に気が付くまで、あと数メートル。椿はどんな顔をするのだろう。俺はうっとりと椿を見つめた。