9 ハッピーで病み病み
彼女は憲吾を警戒することもなく、ゆらゆらと近くまで足を寄せた。底の分厚そうな彼女のブーツが、音も立てず進み続ける。憲吾は逃げるように半歩身を下げたが、彼女は遠慮なく言葉を続けた。
「やっほほー、金髪のお兄さんと尻尾髪のお姉さん。デート中? いいなぁ。とわも混ぜてよ。ちょうど退屈してたんだぁ」
ずいずいと彼女の身が憲吾に迫る。憲吾は足をさらに下げ、両掌を前に向けた。
「い、いや、ちょっと待って。え? デートとかそれ以前に――」
こんなところでこんな時間に、一体全体何をやっているんだろうか。
真っ先に聞きたかったそんな疑問を、彼女の口から流れた「金髪のお兄さんと尻尾髪のお姉さん」という言葉が追い抜いて行った。
憲吾は急いでかすみに視線を向けた。隣に浮かぶ幽霊は、いつも通り尻尾のような結った髪を揺らしている。
――かすみのことが見えているのか。
ここ数日ではあり得なかった出来事。後ろにいる迷子幽霊が視認されている状態は、憲吾に困惑をもたらした。
うろたえて硬直する憲吾と入れ替わるように、かすみが身を乗り出した。
「私のことが、見えるんですか?」
「にゃはは。こっちの台詞なんだがー」
「こっちの台詞……?」
「なんでとわのことが見えんの? ウケる」
赤い彼女はけらけらと笑みを深め、大げさに身をよじった。
「まさか……」
今度はかすみが憲吾のほうに目を向けた。間違いなく、彼女にはかすみの姿が見えているし、声も届いている。
そして、視認されたことに対して、かすみと同じ感想を彼女も抱いている。十分すぎる要素がそろってしまった。
かすみは喉を鳴らし、慎重に言葉を零した。
「もしかして、幽霊なんですか?」
「そだよー。ん? てかお姉さん浮いてんじゃん! お姉さんたちも幽霊……みたいな?」
「いや、俺は幽霊じゃないんだけど」
「私が幽霊で、こっちが生身の人間です」
「マジ!? とわ、とわ以外の幽霊さんって初めて見たかも! 見える人も初めて! 初めて尽くし!」
そうして確定的な言葉が彼女から飛び出した。
この数分で起こった出来事は二つ。かすみのことが見える相手が見つかったということ。そしてその彼女も幽霊だということ。
あれほど町中を探し回って見つからなかったヒントは、人の気配のない山奥に落ちていたのだ。
かすみといいこの子といい、どうして緊張感を生まない幽霊ばかりが現れるのだろうか。いや、怖いよりは多分マシなんだろうけれど。
憲吾は鼻息を荒げる彼女に向け、おずおずと声を向けた。
「と、とわさん……でいいのかな?」
「とわちゃんね。ととわさんじゃないよ」
「……じゃあ、とわちゃん。いきなりで悪いんだけど、確認したいことがあるから、自己紹介をしてもらってもいい?」
「自己紹介? いいよー」
彼女は音もなくその場で足を動かした後、堂々と胸を張った。
「とわはぁ、二重十和ちゃんって言うの」
「にしげ、とわ……」
「二重跳びの二重に、十字架の十、和三盆の和で十和。ハッピーで病み病みな享年セブンティーンだよぉ。遠慮なくとわちゃんって呼んでね。よろしくぅ」
「よ、よろしく」
二重十和と名乗った彼女は、憲吾の前に手を差し出した。彼も併せて手を出したが、彼の手は十和の手をするりとすり抜けていった。それを見て、十和は再びけらけらと笑い始める。
二重跳び、十字架、和三盆、ハッピーで病み病みな享年セブンティーン。わずか数秒間の彼女の名乗りの中で、憲吾の脳容量は限界を迎えそうになっていた。
しかしながら、目的の手がかりが目の前に現れてくれたのだ。しかもかすみと違い、彼女にはしっかりと記憶が根付いているように見えた。
このヒントを逃してなるものか。憲吾は大きく息を吸って、虚空を掴んだ右手をポケットに突っ込んだ。
「十和ちゃん。少し話を聞かせてもらってもいい?」
「よきよきー。てか質問攻め過ぎー! 二人も自己紹介してよぉ」
わかりやすく頬を膨らませた十和を見て、こちらもわかりやすくかすみが頷きを返した。
「そうですね。自己紹介をさせるだけさせて、こちらが名乗らないというのはマナーがなっていません。唯一生身の君が道徳に反するなんて、どうかしていますよ」
「どうかしてるのはかすみさんの道徳だよ」
幽霊二人に挟まれた歪な状況。せめて話の分かる幽霊であればいいが。憲吾は溜息を一つ挟み、自己紹介を始めた。