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春霞の足跡  作者: 豆内もず
1話 アフィリオン

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6 自分自身の存在を疑いたくなります

 淡い光量の六畳半には、ぱらりと紙が擦れる音が響いている。

 音を奏でているのは、幽霊研究大全と題打たれた、全四百二十六ページにも渡る分厚い本。

 これには主に、過去の逸話や様々な学問から見る幽霊という存在について記載されており、霊的存在が引き起こしたと考えられる事件を科学的に証明するといった研究がまとめられている。

 紙面に並んだ蟻のような文字を目で追いながら、かすみは緩やかに上下する頭に向け声を放った。

「憲吾君、次のページを見せてください」

 声を受けた憲吾の頭が、電気を浴びたように跳ねる。

「んえっ、いや寝てないって」

「ふふふっ。その返答と挙動が、寝ていた何よりの証明になっていますよ」

「えっ、そんなに的外れな返答してた?」

「圏外も圏外、大外れです。キャッチャーが大激怒するレベルの暴投です」

 必要以上に上がった憲吾の後頭部が、かすみの胴体をすり抜ける。本来であればショッキングな光景であるが、これに恐怖を覚えるほどの新鮮さは彼には残っていない。浮いたりすり抜けたりする程度では、眠気を覚ます口実にもなりはしないのだ。

 憲吾はそのまま大きく背中を伸ばした。

「ごめん。なんて言ってた? 次のページ?」

「いいえ大丈夫です。今日はここまでにしましょう。流石に疲れちゃいましたか?」

 かすみはゆったりとした笑みを浮かべながら、憲吾の隣から正面に座標を移した。

「そりゃね。一日中歩き回った後だから疲れも出るよ」

「肉体に支配されているというのも考えものですねぇ」

「言ってくれるじゃん。これでも体力には自信あるんだけどなぁ。ああ眠い」

「ゆらゆらしてる憲吾君、おんぼろなメトロノームみたいで面白かったですよ」

 笑みを深めるかすみを見て、憲吾は大きな欠伸を挟んだ。そもそも目の前の幽霊が肉体を持っていないせいで、夜が更けた時間に専門書のページめくりという役割を任されてしまったのだ。労りの言葉の一つくらいもらってもおかしくはない状況だろう。

 おまけに今日はかすみの素性についてのヒントを得るべく、朝から街中を歩き回ったという疲労まである。せめてかすみを視認出来る人間の一人でも見つかれば進展もあっただろうが、それすら叶わなかったという事実も彼の疲労感を増幅させる。

 可能であればすぐにでも眠りにつきたいというのが憲吾の本音だったが、彼は眠気を振り払うべく頭を振り、机に鎮座する分厚い本のページをめくった。

「こんなに難しそうなものよく読めるね。ヒントになりそうなものは見つかった?」

「そうですねえ。研究資料としては非常に興味深いのですが、幽霊視点では書かれていないので、今のところ私達にとって有益な情報はありませんね」

「幽霊視点で書かれたものなんてどこにもなさそうだけど。成仏とかそういう方法については書いてないの?」

「恨み辛み、後悔が晴れて成仏、みたいな逸話はちらほらありましたよ。でもその程度です。この本って意外と幽霊に対して懐疑的な切り口が多くて、自分自身の存在を疑いたくなります。私って、憲吾君の脳が生み出した幻覚なのでしょうか? イマジナリーフレンドなのでしょうか?」

「そうじゃないことを願ってるよ」

 ――もはや空想の友達だった方が早く解決したかもな。憲吾はおどけるように首を振って、大きく息を吐き出した。

 憲吾自身が知覚できない部分まで知ることが出来る彼女の存在は、今となっては空想で済ませることも出来ない。

 であれば、意思を持って行動する彼女は、幽霊やらなんやらに分類することが一番適している。

 幽霊研究大全というストレートな表題に反し、中身は専門的な用語も多いせいか、思った以上に堅苦しい。そしてなにより分厚い。加えて幽霊いわく参考にもならないらしい。

 恨み辛みを晴らすとは言っても、お気楽幽霊には記憶がない。「私を殺した犯人を探してほしい」くらい明朗な目的を持って現れてくれていれば楽だったのに、彼女にはそれもない。

 憲吾は視線をかすみから文章の適当な箇所に移した。

「本一冊で全部を解決ってのも、虫のいい話か。そもそも生前のかすみさんが何者だったのかもわかっていないし、思い出がある場所に当たるまで歩き回るしかないね。他の見える人も引き続き探そう。知り合いに当たればラッキーくらいの感覚で」

「ですね。あっ、近辺で亡くなった人を一人一人調査していくという手段もありますよ?」

「途方も無さ過ぎるから却下……って言いたいところだけど、最悪それも覚悟しとかないといけないかもね」

 憲吾はぼんやりとした思考を浮かべたまま、フローリングに身体を預けた。

 ここ最近は講義と街中回遊の往復に加え、慣れないことばかり起こっていて、純粋に疲労が溜まっているようだ。かすみのように無尽蔵のスタミナを携えているわけではないし、頭を回す気力すら湧いてこない。

 天井は牛乳を零したように真っ白で、心を乱すものもない。ぼんやりとした光を見つめた彼に、より大きな眠気が襲い掛かってくる。

「ポジティブに考えましょう。人探しを口実に可愛い幽霊ちゃんとデートができたなんて、とってもお得なことだとは思いませんか?」

「……やばいよ。ちょっと魅力的で怖いんだけど」

「ふふっ。憲吾君のそういう単純なところ、非常にグッドですね」

 かすみは仰向けになった憲吾の方に寄り、顔で蛍光灯の光を遮った。

「ここ数日で分かりましたが、記憶のヒントも私の事が見える人間も、そうそう見つからないと思います」

「そうだね」

「このままデートを続けるのも素敵ではありますが、先の見えなさと憲吾君の体力を考えれば、得策とは言えないでしょうね」

 ――得策ではなくても、他に方法がないから足を使っているわけだが。

 憲吾はゆっくりと瞳を閉じ、身体中の息を吐き出した。より大きな眠気が彼の意識を奪っていく。

「じゃあいっそドクターに霊媒師さんでも紹介してもらう? 専門家なら何かわかるかもしれないよ」

 細い声を零した憲吾に反し、かすみは大きく身を跳ねさせ、部屋中をくるくると浮遊し始めた。

「それは嫌です! 無理やり成仏させられちゃったらどうしてくれるんですか? 私はあくまで安らかに成仏したいんです」

「そこはこだわるタイプなんだね……」

「はい! 過程は大切にしたいタイプなんです!」

 なんだ、面倒くさいタイプじゃないか。憲吾はわざわざそれを口に出さず、もう一度欠伸を挟んだ。

 堂々とベッドに着陸したかすみは、くるんと転がってから段差に腰掛けた。

「ですが、背に腹は代えられません。こだわり強めのわがまま幽霊のせいで、たまたま見えちゃってる憲吾君に不利益があっては困ります。明日はドクターのところに行って、本の返却がてら知恵を借りるとしましょうか。すごく嫌ですけど」

「嫌なのは、俺も一緒なんだけどな……」

 ぽつりと言葉を落とし、憲吾はすうすうと寝息を立て始めた。かすみは小さく息を漏らし、眠った憲吾の耳元で囁いた。

「大丈夫、きっとすぐに道が見えますから。……今はゆっくり、おやすみなさい」

 明かりも落ちていない部屋で、幽霊の穏やかな子守唄がこだました。

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