5 とても幽霊とは思えないね
室内には相変わらず、どこからともなくボサノバが流れ込んでいる。晴天の今日は、春先にも関わらずじっとりと暑い。
事の経緯を話し終えた憲吾は、首元に流れ落ちた汗を手の甲で拭った。
「なるほど。記憶喪失の幽霊が現れて、成仏させてくれと頼み込んできたと……」
ドクターは背もたれに身を預けた。興味と疑心を折り合わせた表情が、灰色のカーテンと惚けた顔をした幽霊を背景に揺れる。
「信じられないかもしれませんが、その通りです。今もドクターの後ろで変顔をしてますよ」
「変顔!? 嘘はやめてください! 見えないのを良いことに、私の評判を下げようとしないでください!」
振り返るドクターに合わせ、かすみは両手で顔を覆った。見えていないし変顔もしていないのに、どこに恥ずかしがる理由があるんだろう。憲吾は愉快な気分になって言葉を加える。
「あ、今照れて顔を隠してます」
「逐一報告しないでください! 私をどうしたいんですか!」
「照れて顔を隠す、か。くくっ。随分と凝っているね。少し質問をしていいかな?」
「はい、どうぞ」
ドクターは憲吾のほうに視線を戻し、ゆっくりと人差し指を上げた。
「君に見えているその幽霊とやらは、人の姿をしているのかい?」
「そうですね」
「幽霊のイメージといえば、青白い顔に乱れた髪、足がなく浮いていて、白い装束を着ている、なんてものが典型的だが、それに近いと思えばいいかな?」
「いえ、そういうオーソドックスな感じではなく——」
憲吾は見せつけるようにくるくる回るかすみのほうに視線を向けた。
結った黒い髪、血色のいい顔立ち、オーバーサイズのカジュアルな服装。浮いてはいるが足もある。改めて見ても、典型的な幽霊っぽさは微塵もない。
見た目だけを言えば現代風な装いで、だからこそ憲吾は彼女に間違って声をかけてしまったのだ。
視線を受けたかすみは憲吾に近づき、堂々とポーズをとった。
「どこからどう見ても、イケイケのギャルですよね。全人類が見ただけで腰抜かすほどの絶世の美女だと伝えてください」
「うるさいよかすみさん」
全てを話した開放感からか、憲吾の口はあっさりと虚空に対する苦言を吐き出した。
「うるさいって言いましたか!? ひどいです!」
「ツッコまず流して話を進められるほど俺は器用じゃないから、大人しくしておいてね」
「もう、せっかく盛り上げようと思ったのにぃ」
「かすみさん?」
「ああすいません。幽霊さんの名前です。目の前に来たもんで」
かすみを手で払い、憲吾は正面に言葉を返す。かすみはわざとらしくひょろひょろと本棚のほうに浮かんでいった。ドクターからすれば、憲吾が一人で見えないものとやり取りをしているようにしか見えないだろう。
一人芝居で気味悪く思われるのは嫌だし、せめて会話の途中くらいは大人しくしててくれ。憲吾は幽霊に念を送りながら、仕切りなおすように言葉を続けた。
「見た目はだいたい同年代の大人しそうな女の子です。浮いてはいますが足もありますし、コミュニケーションも取れます」
「ほう。ではさっき言っていた名前はどこから聴取したんだい? 記憶喪失なのになぜ名前がわかった?」
「本人曰く、適当につけたと」
「随分とふざけた幽霊さんだ。君の言葉が真実だったら、さぞ面白いだろうね」
嘲笑うような視線を宙に向けるドクターを見て、かすみは無言で腕を組んで眉を顰めた。ふざけたという表現が癇に障ったのだろうか。彼女は丸い目を精一杯細めてドクターに視線を向け続ける。
「……今本棚のほうからドクターに思いっきりガンを飛ばしていますけど」
「くくく。気に障る表現があったのかな? 人間味があって、とても幽霊とは思えないね」
「俺もそう思います。どうやったら成仏してもらえるんでしょうか?」
睨むを向けるかすみのことなど、もちろんドクターには見えていない。彼はくつくつと籠った笑みを零し、ペンを一本手に取った。彼はそのまま、憲吾に見えないよう片方の手のひらに何かを描き始める。
ドクターオカルトというふざけた呼び名を使っている事もあるから、こういう不思議な話であれば簡単に乗ってくるかと思ったが、今のところ信用を勝ち得た様子はない。憲吾は息を殺してぐっと彼の動作を見つめ続けた。
ペンを置くと同時に、ドクターは憲吾に鋭い目を向けた。
「ひとまず説明ご苦労。とても心が躍る愉快な話だったよ。ただ私も研究者として、論拠もないまま見えないものを信じるわけにはいかない。今までエセ霊能力者を何人も見てきたしね。それに、君が精神的に異常な人間ではないとも限らない。知識を分ける前に、一つ実験をさせてもらおう」
「実験?」
「試験とも言えるだろうね」
ドクターは手の甲を憲吾のほうに向けた。血管の浮かんだ青白い手首が、憲吾を脅すようにゆらゆらと揺れている。
「今、手のひらにあるものを書いた。数字かもしれないし、言葉かもしれない。絵かもしれないし、意味のない文字の羅列かもしれない。君からは見えないように書いたから、君には何が書いてあるかはわからない。間違いないね?」
「はい。見えていません」
ドクターの言葉が教室にまどろみを与えていく。細い指の隙間から覗く瞳が、ぶれることなく憲吾に向けられ続ける。
「私の手のひらにボールペンで書かれた何か。これを君に当ててもらおう」
「見えていないものを当てろと?」
「君には見えていなくても、件の幽霊であれば私の後ろに回り込むことが出来るんだろう? 簡易的な透視のようなものさ。見事正解すれば、それを論拠として君に協力することを約束しよう」
「……なるほど」
「ただし外した場合、すぐさま然るべき機関をお勧めさせてもらうよ。おかしな人間の与太話に付き合うほど、私は暇じゃないんだ」
「わかりました。当ててみせます」
そういう方法があったかと、憲吾は素直に感心してしまう。シンプルでわかりやすい幽霊の存在証明。
昨日彼女と会って今に至るまで、他者には見えない彼女の存在を証明する方法を、彼は持ち合わせていなかった。そもそも彼女に先に部屋を覗かせようとしていた前科があるのだから、真っ先にこの方法を試すべきだった。
滑稽なものを見つめるようなドクターの視線を躱し、憲吾はかすみのほうを向いた。
「ってことでかすみさん。手のひらに何が書いてる?」
ここで立証されなかった場合、いよいよ彼女の存在が彼自身の脳が生み出した架空の友人であったということになってしまう。憲吾はあえて通常時より大きな声を部室全体に流した。
未だドクターに睨みを向けていたかすみは、憲吾の声を聞いて頬を膨らませそっぽを向いた。
「なんだか癪ですねえ。とてつもなくバッドです」
「えっ?」
「最初は癖があって面白そうだと思いましたけど、私あの人苦手です。なんだか偉そうで腹が立ちますし。従ったら負けというかなんというか」
「なにと戦ってるの……?」
「気づかないんですか? 長々と説明させたくせに、憲吾君のことを信じてませんよあの人。初対面から誠意のない相手に、へらへらと付き合う義理がありません」
やけに静かだと思ったら、そんなことを考えながら睨みをぶつけていたのか。疑心の目に気が付かないほど、憲吾はマイペースではない。しかし、ごねるタイミングは絶対に今じゃない。疑いの目を晴らし、目にもの見せるためにも、むくれている暇など一刻もないのだ。
憲吾は自身の意図と反してへそを曲げて浮かぶ幽霊が、自身の想像上の生き物などではないと確信した。
無人の本棚に困った表情を向ける彼を見て、ドクターは鼻から息を漏らした。
「早くしてくれるかい? 時間をかけたって私の手が透けるわけじゃない。私の腕は見た目通り非力だ。この体勢は疲れるし、待たされるのも好きじゃない」
「ですよね、わかってます。もうちょっと待ってください」
「ほらやっぱり偉そうです。どうせ馬鹿とか阿呆とか、そんなこと書いてやがるんですよ! ぷいーっ」
「ああもうややこしい……」
どうにもノリが合わない二人のちょうど間。パイプ椅子が二脚畳まれて立て掛けられている白い壁を、憲吾は呆然と見つめた。
方や疑いの目を向ける偉そうな変人、方や子どもじみた幽霊。言いたい事だけを言う二人の仲介役に据えられてしまったこの状態は、寝つきの悪い夜に見る悪夢とほぼ相違ない。
しかし、この悪夢が憲吾にわずかばかりの懐かしさを与える。
爬虫類狂いの早川さん、宇宙の真理を解き明かしたらしい浅田くん、虎に育てられたという山岡くん。高校時代の彼には、それはそれはもう話の通じない個性的な友人が多かったのである。
同等に話が通じなさそうな二人に囲まれたこの状況は、憲吾にはむしろ住み慣れた故郷のようにも思えた。
ドクターの空いた手がデスクをコンコンと叩く。さっきまで薄く聞こえていたボサノバは、もう聞こえなくなってしまっている。
余計なことは考えないでおこう。今やるべきことは、むくれて浮かぶ幽霊を説得して、癖のある白衣から情報を抜き取ることだけだ。憲吾は意を決して再度かすみに視線を向けた。
「癪なのはわかるけど、他に手がかりもないし、一旦実験に乗ってみない?」
「えー。でもこの先ずっとこの調子で喋られたら、腹が立って私きっと大悪霊になっちゃいますよ? 内からどす黒い何かが湧いてきちゃいますよ? それでもいいんですか?」
大悪霊。そんな恐ろしいポテンシャルを秘めているなんて聞いていない。憲吾は耳障りの悪い言葉を払いながら頭を下げた。
「それは困るね。そうならないように、かすみさんは今後席を外してくれていてもいい。ただこの実験は俺だけじゃどうにもならないんだ。お願いだよかすみさん。変な奴だと思われている、かわいそうな俺を助けると思って協力してほしい」
「むむむ……」
二人がやり取りをしている間、ドクターは何も言わずに本棚のほうを眺めていた。嘘が苦手であろうと評した憲吾が虚空に頭を下げる姿が、研究室に如何ともしがたい不気味さを生み出している。
少しの間の後、かすみはドクターのほうに座標を合わせた。
「わかりました。頭を上げてください。癪なことには変わりありませんが、人助けとなれば話は別です。今回は甲斐甲斐しく、憲吾君の目となりましょう」
明るくない言葉に反し、かすみの顔には笑顔が差していた。
そもそもがかすみのためなのだから、渋々行動される道理は全くないわけだが。やれやれと憲吾が頭を上げると、生気のない青年が幽霊に取りつかれたような、そんな不思議な光景が映った。
間違い探しのようにドクターの手のひらを凝視したかすみは、首を傾げて言葉を漏らす。
「んー。何も書かれていませんね」
その言葉を復唱するように、憲吾は無意識に口を動かした。
「何も、書かれていない?」
「はい。無駄に生命線が長いなという感想以外なにも。とんだペテン師ですね。勘でも当てられないような工夫なのか、こちらを馬鹿にするための手法なのかは知りませんけど」
「……なるほど。ありがとう」
憲吾は、目を見開くドクターに焦点を合わせた。独り言のようでも、間違い無く聞こえていたはずだ。
その証拠に、ドクターの顔にはわかりやすく驚きが張り付いている。追い討ちをかけるように、憲吾は言葉を続けた。
「もう一度言いますよ。あなたの手にひらには何も書かれていないです」
「驚いた。まさか本当に当てられるとは思わなかったよ」
ドクターはへらりと笑みを浮かべ、おどけるように手のひらを憲吾に向ける。手の甲よりさらに白い手のひらは、漂白したシャツのように汚れとは無縁の様相をしていた。
かすみを疑っていた訳ではないが、まさか本当に何も書いていないとは思わなかった。憲吾は一つ息を挟み、溢れる好奇心を浮かべる白衣から目をそらした。
「とりあえず、これで信じてもらえましたよね?」
「……ああ、信じざるを得ない」
「じゃあ情報を——」
「素晴らしい!」
「えっ」
ドクターは憲吾の言葉を遮り、青白い顔を仄かに上気させた。幼児がおもちゃを発見したような瞳がずいずいと迫ってくる。
「まさか本物の霊能力者と会えるなんて! 知的好奇心が刺激されるっ! 君のことも幽霊のことも、もっと教えてくれ!」
「あ、あの、先に情報を」
「そんなものは後回し。私の探究心を満たす方が先だ! さあ、さあ! 君には他の幽霊も見えるのかい? どうなんだい?」
自身の好奇心を満たすことしか脳にない瞳。一方通行なコミュニケーション。憲吾の思考の中で、かつての奇怪な友人達が親指を立てている。
こういうタイプがこうなっては、もうどうにも出来ない。相手の興味が落ち着くまで、相槌を返し続けるしかない。溜息を吐くと、こそこそとかすみが耳元で囁いた。
「憲吾君、私は気晴らしに散歩をしてくるんで、終わったら呼んでください。ん? 浮いているから散浮と言った方がいいのか」
散歩だろうが散浮だろうが、このタイミングで気晴らしをしたくなるわけがあるか。逃げる気だなこの幽霊め。
「ちょっと! 一人で逃げるなんてズルくない?」
「実験を乗り切ったら席を外していいと言ったのは憲吾君です!」
「延長だよ延長! これを俺一人で処理させるなんていくらなんでもひど——」
ドクターの顔が目の前に現れ、憲吾は言葉を止めた。
「ふむふむ。幽霊と交信しているんだね。音というのは空気の揺らぎであるはずなのに、君には聞こえて私には聞こえない。向こうからの発信は音ではない何かなのか……? ほら、何をぼさっと突っ立っているんだ。早く掛けるといい」
「えあっ」
ドクターは憲吾の肩を掴み、壁にかかったパイプ椅子へと促した。
か細い彼の腕は見た目に反し力強く、あっさりと抵抗の意思を奪われてしまう。
憲吾はやむなくパイプ椅子を手に取り、諦めて腰を下ろした。ひらひらと手を振り、愉快そうに壁を抜けていったかすみを眺める。
座り心地の悪い青のパイプ椅子が、動きに合わせて歪んだ音をを奏でる。先ほどまで清楚に見えていた十畳ほどの研究室が、急激に色を失っていった。
「さあ、改めて幽霊談義を始めようか」
憲吾は手汗をズボンで拭い、祈るように言葉を返す。
「なるべく手短にお願いします」
彼の祈りは届くことなく、ドクターの講釈は日が傾くまで続いた。