3 一家に一台いかがですか?
「憲吾くーん。朝ですよー。起きてください」
天井から降ってきた声で、憲吾は目を覚ました。重い瞼をじんわりと上げた先に、ふわふわと浮かぶ女性がにこやかに手を振る姿が映った。
地に足付かない幽霊の声で迎える朝。ホラーな目覚め。夢現が混ざってしまうような光景ではあったが、彼にとってもはやこれが通常運転だった。
憲吾が幽霊と出会ってちょうど二週間。どれだけ衝撃的な出来事でも、繰り返し起これば感覚が鈍ってくるものである。二週間という期間で、彼は幽霊がいる生活にすっかり慣れてしまっていた。
憲吾は欠伸を一つ挟んで身を起こし、枕元に置いた携帯電話を眺めた。
「おはよう」
「おはようございます。清々しい朝ですね」
「……まだ七時じゃん。早くない?」
「憲吾君の呼吸や寝返りを正確に読み取って、ベストなタイミングで起こしましたよ」
「胡散臭いなあ」
「本当ですよ! より良い目覚めをサポートするハイスペック幽霊、かすみちゃんです。一家に一台いかがですか?」
「最近の幽霊はすごいなぁ」
──古の幽霊のことも知らないが。
憲吾ははっきりしない意識のまま立ち上がり、ふらふらと洗面台に向かった。
彼の後ろに着いて浮かぶ幽霊は、眠らないし食事も摂らない。おまけに鏡にも映らない。金色の寝癖を携えた惚けた顔の青年が一人、黙々と歯を磨いている像が鏡に映っていた。
今日は午前の講義を一つこなして、午後からは空き時間になる。どうせなら、彼女の成仏とやらに協力できる動きが出来ればいいが。一日のスケジュールを浮かべる傍ら、憲吾は二週間のことを振り返った。
この二週間、憲吾はかすみ以外の幽霊を見ていないし、かすみのことが見える人間も現れていない。霊感やらなんやらの超常的な力が芽生えることもなく、かすみの成仏に関する情報も集まっていないし、友人と呼べる人間は一人も増えていない。
ただただ彼の相関図の中に、一人の記憶喪失幽霊が追加されただけ。
そしてこの幽霊が意外と優秀で、憲吾が知らない情報や聞き漏らした講義の補足などを、どこからともわからず拾ってくるのだ。おまけに今朝のように、目覚まし時計としての役割も果たしてくれる。
優秀なAIのような彼女のバックアップにより、あろうことか憲吾の大学生活は充実してしまっていた。友達なんていらなかったんじゃないかと思うほどに。
これはいけない。いくら居心地が良かろうと、他者には見えず不安定な存在で、かつ成仏したいと願っている幽霊に対しての依存度が上がることは危険でしかない。空気のような存在になってしまう前に彼女の望みを叶えないと、取り返しがつかなくなるだろう。
人間をダメにするタイプの幽霊だな。憲吾は改めてそんなことを考え顔を洗い、後ろに浮かぶかすみに声を向けた。
「今日こそは、何かヒントが見つかるといいね」
「そうですねぇ」
かすみはアイススケートのようにくるくると身を回し、憲吾の視界から外れるようにベットに身を投げた。自分から成仏させてくれと願った割に、彼女はいつだってお気楽だった。
後を追うようにリビングに戻った憲吾に、かすみはぴしりと人差し指を向けた。
「私の生前はどんな人だったと思いますか?」
「予想もつかないよ」
「ちょっとは考えてから答えてくださいよ」
かすみは向けた指を折り、ふるふると頭を振った。
「生前の自分がなんだったのかわからないっていうのは、結構ロマンにあふれてると思うんですよね」
「確かにそうだね。良くも悪くもだけど」
「100年に一度の美少女とか、IQ200の超天才美少女とか、そういうのだったのかもしれません」
「美少女は初期装備なの?」
「どう考えてもそうでしょう。この顔を見てくださいよ!」
「その顔が生前と同じ顔なら、確かに美人かもね。緊張するわ」
憲吾はさして緊張していない面持ちで衣服を取り換え、シャツを羽織った。
そんな広告を垂らした幽霊であれば、過去を探るのも容易かっただろう。今のところ憲吾の元に、そう言った訃報は流れてきていない。
最新家電やスマートフォン、その他近代的なテクノロジーに対し、かすみは一切のリアクションを示さない。物珍しい顔も驚いた顔もせず、当たり前のものとして受け止めている。
その上、着替えの時はちゃんと目を伏せてくれるという常識まで備え付けている。
彼女いわく、幽霊になった当初からそうだったらしい。
そのことから、憲吾は彼女が生きていた期間は比較的最近なのではないかと予想していた。
予想したところで、近年亡くなったという条件だけでは検索結果を絞るに至らないわけで、結局のところ二週間という期間では記憶喪失幽霊の尻尾すらつかめていない。
憲吾はキッチンの方へと向かい、トースターに食パンを放り込んだ。
「せっかく早く起きたことだし、朝ご飯を食べてから、大学にヒントがないか探しに行こうか」
「いいですねぇ。幽霊に詳しい人の一人や二人、見つかるかもしれませんし」
「そういう人がどこに集まるかも、俺にはわかんないからなあ」
かすみはベッドから身を起こし、憲吾の後ろを飛び回った。
「そういえば、昨日オカルト研究会なるものを見つけたんですよ。そこに行ってみるのはどうでしょうか?」
「オカルトぉ? 怪しすぎない?」
「憲吾君にも、まだ何かを怪しむ心が残っていたんですね」
「やかましいよ」
こんな状況に慣れを感じてしまっているのも、ひょっとするともう取り返しのつかない状況なのかもしれない。憲吾は苦笑いを浮かべ、大学に向かう準備を始めた。




