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春霞の足跡  作者: 豆内もず
3話 ペリヘリオン

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29/30

29 なんだか物騒な研究ですね

 雨の音が診療所を包む。差し込む光が無く薄暗いが、おそらくまだ昼と言っていい時間帯だろう。無くなった影を追いながら、憲吾は足を崩した。

「もっといろいろ話しておけば良かったな」

 無意識に声が漏れる。一月に近い期間ここに通っていたのに、歩の核心に一番触れられたのは今日のわずかな時間だけ。

 結局のところ、憲吾は歩を知ることが出来ていない。それが歯痒くて、彼はぎゅっと唇を噛んだ。並んで影を追っていたかすみが、憲吾の頭を撫でる。

「棋は対話なりという言葉もあるくらいですから、全く彼女のことが掴めなかったというわけでは無いでしょう?」

「指しているときはそんな余裕も無かったけどね」

「ふふっ。知りたいという気持ちを忘れなければ、きっと目覚めた歩さんともいい思い出が作れますよ」

「そうかな?」

「そうです。別れは突然だということを、ゆめゆめ忘れないでください。突然の別れは、幽霊相手だけではないはずですから」

 顔を涙で濡らした十和には、独言も聞こえていないようだ。

 十和の時に覚えた別れの辛さが、褪せることなく憲吾に降りかかってくる。移りそうになった涙を飲み込んで、憲吾は盤面に目を向ける。

 初期位置から随分と位置を変えた駒たち。役目を終えたこれは、元あった場所に戻しておいた方がいいんだろう。持ち込んだクッションも、持って帰らないと。瞬きを数回挟んで、憲吾は盤面に手を伸ばした。

「少し待ってください」

 憲吾の手が止まる。かすみの指が、駒の上で踊り始める。

「この盤面、まだ詰んでいませんね」

「これ、詰んで無いの?」

 憲吾は片付ける手を止め、知識を求めるように十和を見た。十和は湧き出す涙を拭って頷きを返す。

「うん。まだまだ続けられるよ。でも──」

 十和の言葉が止まる。意図を汲み取って、憲吾も静かに頷きだけを返した。

 おそらく歩は、自らの引き際を察して投了したのだろう。それが病弱な十和を想ってのことなのか、それほど満たされたということなのかはわからない。

 憲吾は彼女ともっと話しておけば良かったと、先ほどよりも強く思い、伸ばした手を引っ込めて息を吐いた。

「じゃあこれは、このままにしておこうか。歩さんが戻ってきたら、また続きができるように」

「けんけん……」

「やめて十和ちゃん。その目で見られたらほんと俺も泣いちゃうから」

 憲吾は十和から視線を外し、勢い良く立ち上がった。歩の配慮を無駄にしないためにも、早く十和を病院へと帰さないといけない。歪んだ景色を瞼に閉じ込め、憲吾は十和に手を向けた。

「帰ろうか」

「うん。……あはっ。けんけんも泣いてるー」

「な、泣いてないよ。緊張から解放されてほっとしてるだけだから」

「なんの言い訳にもなっていませんよ」

 見えていないはずなのに、かすみと笑い声を合わせた十和は、袖口で涙を拭い、憲吾の手を借りて立ち上がった。

「体調は悪くなってない?」

「もちろん! レインちゃんに会えたし、むしろ来る前よりパワーアップしたかも!」

「それは良かった。忘れ物がないようにね」

「はぁい」

 憲吾は十和を連れ診療所の出口へと向かう。きっともう来ることがない診療所。不法侵入の男が浮かべるべき感想ではないことを理解しつつも、憲吾は哀愁を将棋盤に向けた。

 歩の成仏で有耶無耶になってしまったが、この数日で得られた情報は非常に多い。何故か歩の記憶から抜けていた香澄咲來。同様に十和の記憶から抜けていたハルという女性。この二人のことを調べれば、かすみの影が見えてくるかもしれない。

 しかしながら、次なる一手は思いついていない。疲労感も大きいし、諸々の整理はかすみに任せてしまおうか。

 脱力しきった憲吾の心を読んだかのように、かすみが声を上げる。

「十和ちゃんの見送りはお任せしてもいいでしょうか? 少し調べたいことがありますので」

 憲吾はかすみの方を一瞥し、ゆっくりと頷きを返した。

「ちゃーんと病院まで見送るんですよ? 絶対ですからね!」

 親指を立てた彼女は、ふよふよと壁の方へと消えていった。


 憲吾と十和が診療所を出る頃には、既に雨は上がっていた。一時的に雨足が強まったからか、来た時よりも深い水溜りがアスファルトを覆っている。

 雑談をしながら病院へと足を進めていると、程なくして白衣の男性の姿が見えた。憲吾は既視感から口を開く。

「あれって、十和ちゃんの主治医さんじゃない?」

「あ、ほんとだぁ」

「こんなところで何をしてるんだろう?」

「きっと迎えに来たんだねぇ。やだやだ」

 わざわざ迎えに来た挙句、やだやだという陰口を吐かれた医師に同情を浮かべつつ、憲吾は頭を下げた。

 医師はひらひらと穏やかに指を揺らし、笑顔で憲吾達に歩み寄った。

「もう帰るところかな?」

「そうだよぉ。三枝先生は? 十和のストーカーさんをしてたのぉ?」

「ひどい言われようだな」

 開口一番に先制パンチを放った十和に苦笑いを返し、医師は手に持った傘を振った。

「雨が強くなったから心配で見に来たんだよ。止んじゃったけどね」

「心配しなくてもちゃんと帰りますよーだ」

「大雨の中をうろついたとなれば、今度こそ外に出られなくなるからね。僕が一緒なら、多少言い訳が効くでしょ? むしろ感謝して欲しいくらいだよ」

「むー」

 白衣を脱いでさえいないところを見ると、大雨を察して急いで外に出てきたのだろう。裾の色が変わったパンツも、必死さを醸し出している。

 十和もその気持ちを察したのか、頬を膨らませるだけでそれ以上彼を責めることはなかった。

 見た目だけではなく、その仕事ぶりも爽やかな医師は、憲吾と十和に笑みをぶつけた。憲吾は急いで視線を逸らせる。

「じゃあ十和ちゃん、俺はここで」

 このまま場が落ち着けば、次の矛先はこちらに向いてしまう。かすみには釘を刺されたが、ややこしくなる前に早くここから立ち去ろう。

 憲吾は会釈を置き去りに、そそくさと踵を返した。そんな彼の腕を、十和の右手が捉える。

「待ってけんけん。病院まで送っていって欲しいなぁ」

「いや、でも……」

「お願い! ね?」

 上目遣いが突き刺さる。握られた手の力強さが憲吾の足を止めた。

 追及を受けることが不安なのだろうか? 憲吾がいてもそこには変わりないはずだが、申し出を断る理由も見つからない。

 憲吾はやれやれと肩をすくめ、再び病院の方を向いた。

「わかったよ。すいません、俺も病院までご一緒させてもらってもいいですか?」

「もちろん。聞きたい話もあるしね」

 悪戯っぽい笑みが返ってくる。十和との仲を良からぬ風に捉えられているのかも知れない。幽霊と将棋を指していましたなんて事実を、どう丸めて伝えればいいのだろうか。

 先に足を進めた医師に合わせ、憲吾達は病院へと向かった。


「じゃあけんけん、着替えてくるから先生とお話ししておいてー」

 病院に着くや否や、憲吾の返事も待たず十和は自身の病室へと駆けて行った。人気のない通用口に、馴染みのない二人が置き去りにされる。

 病院までの数分。憲吾が医師について知り得たのは、三枝という名前と年齢くらいのもの。あったのは他愛もない雑談だけで、距離も縮まっていない。お話をしておいてと言われても、何から話せば良いのかもわからない。

 いきなり補助輪を外された不安が、憲吾の身を包む。

 一方三枝は、気まずそうな素振りなど一切見せず、近くの自動販売機を指差した。

「何が飲みたい?」

「いえ、そんな」

「二重さんを見送ってくれたお礼だと思って受け取ってよ」

「……じゃあ」

 弾ける笑顔が、憲吾の緊張を解いていく。

 憲吾は自販機に寄り炭酸飲料のボタンを押した。三枝は無糖コーヒーを選び、近くの柱に身を預けた。

 雲の切れ目からはわずかに日が溢れており、背中にじんわりと汗が滲んでくる。ひんやりと弾ける泡が、憲吾の喉を潤す。

 少し間を空けて三枝が口を開いた。

「二重さんとはどういう関係なの?」

 憲吾は噴き出しそうになった飲料を必死に口元に留めた。

「と、友達です」

「そっか。二重さんに春が来たと思って期待しちゃってたよ」

「ご期待に沿えずすみません」

 三枝はふっと笑みをこぼし、缶コーヒーを傾けた。憲吾も併せて首を傾げる。

 整った顔立ちに爽やかな立ち居振る舞い、加えてフランクな対応。きっと人気の医師なんだろう。この僅かな間でも、はっきりとわかる。

 憲吾がそんなことをぼんやりと考えていると、三枝は缶の側面を人差し指でトントンと叩いた後、その指を憲吾に向けた。

「これは勘ぐりとかじゃなくて純粋な興味なんだけど、どうやって知り合ったの?」

 幽霊だった時に、由吊山で会いました! なんてことを高らかに叫べば、不審な奴認定から逃れられないだろう。かといって、大嘘を吐けるほどの能力は憲吾にはない。

 彼は頬を掻いて目を逸らした。

「病院で迷っていたところを助けてもらったんです」

「へえ、あの二重さんが。意外だね」

「人を探して来たんですけど、思ったより病院が広くて困っていたんですよ。そこでたまたま声を掛けたのが十和ちゃんだったんです」

 明るいイメージが強いものの、確かに再会した直後の十和は見知らぬ人間に心を開くようには思えなかった。余計なことを言ってしまっただろうか?

 焦りと共にコーヒーを流し込み、憲吾は三枝の反応を待った。三枝は憲吾の言葉で何かに気付いたのか、大きく目を見開いていた。

 宙で指をくるくると回した後、三枝はその指を憲吾に向ける。

「もしかして、君が香澄先生の弟かい?」

 思いもよらぬ角度の言葉に、今度は憲吾が目を見開いた。

「そう、ですけど。なぜそれを?」

「二重さんが言っていたんだよ。香澄先生の弟が、彼女を探しているから情報を教えて欲しいと。君のことだったんだね」

 意図せず情報の泉を見つけてしまい、憲吾は深く頭を落とした。

 十和は病院内での調査を進めてくれていたらしい。しかし、彼女の口からの調査報告は一つも無かった。

 情報が少なく言うまでもなかったのか、はたまた言わないほうが良いと判断されてしまったのか。

 後者であればこれ以上踏み込みたくはないが、ここで引き返すわけにもいかない。

 違和感を携えたまま、憲吾は顔を上げた。

「姉のことを知っているんですね?」

「ああ。元同僚だからね」

「元……。姉は今どこにいるんですか?」

「香澄先生は……」

 三枝は眉をしかめ、ゆっくりとした仕草でコーヒーを口に運んだ。

「二重さんから聞いてないのかい?」

「はい。だからてっきり忘れているのかと思ってました」

「なるほどね。困ったな。わざわざこの機会を用意されたということは、僕の方から話せということなのかな」

 三枝はもう一度コーヒーで喉を整え、ふうと息を吐いた。爽やかな彼が醸し出す澱んだ空気感が、憲吾の背筋を伸ばす。

「香澄先生は亡くなったよ」

「……亡くなった?」

「一年前に事故でね」

「事故……」

 言葉が飲み込めず、憲吾はただただ三枝の言葉を繰り返した。

 十和が情報を告げなかった理由がはっきりした。生き別れた姉は、もうこの世にはいないのである。

 幽霊たちと関わった経験から、かすみの正体候補である香澄咲來もどこかで眠っているというのが憲吾の推測だった。

 だからこそかすみが調査に行くことを止めなかったし、彼女のルーツについて楽観的であったのだ。

 さて、これはどうしたものだろうか。眉をしかめる憲吾を見て、三枝は申し訳なさそうに頭を下げた。

「悪いね。部外者の僕からこんな話をすることになってしまって」

「いえ、こちらこそ言いにくいことを言わせてしまって申し訳ないです」

 憲吾は笑顔を作り、空いた方の手を振った。姉の訃報についてショックを受けたように思われたのかもしれないが、憲吾の感情はそこまで追いついていない。あるのは遠くの誰かが亡くなった時と同じような、ぼんやりとした寂寥感だけ。

 憲吾は三枝の頭を上げさせるため言葉を続けた。

「小さい頃に親が離婚して、それ以来会っていなかったので俺は覚えてなくて。それを知ったのも最近なので、正直まだピンときていないんです。だから気にしないでください」

「そうだったんだね」

「はい。情報をもらえただけでもありがたいというか」

 申し訳なさそうな彼の顔が、少し穏やかになる。憲吾は炭酸で口を湿らせた。

「姉はどんな人だったんですか?」

 三枝は足元に落ちた水滴を目で追ったあと、ゆっくりと天を仰いだ。

「患者にとても好かれていてね。心を開かせるのが得意な人だったよ。本当に人の心が読めるんじゃないかと思えるほどだった」

「俺とは全く似ていませんね」

 大学で友達もできず、ふわふわと浮かんでいる自分とは大違いだ。苦笑いをする憲吾に合わせ、三枝も穏やかに笑った。

「臨床だけじゃなく、研究者としてもとても優秀だったよ」

「どんな研究をしていたんですか?」

 三枝は携帯電話の画面を憲吾に向ける。見慣れない単語の羅列が、憲吾の瞬きを誘う。

「何ですかこれは?」

「人間の意識を抽出してデータ化する実験さ。意識に干渉するというのが、彼女の研究テーマだったよ」

「はえー」

「肉体と意識を切り離す研究、とでも言った方が俗的でわかりやすいかもしれないね」

 簡単に言われたとて理解が追いつかず、憲吾は瞬きだけを繰り返した。三枝はふっと息を吐いて携帯電話をポケットにしまい、手に持った缶を憲吾の目の前で揺らした。

「要は肉体という器から、中身の意識だけを取り出してみましょう、ってことだよ」

「なんだか物騒な研究ですね」

「そうでもないさ」

 三枝はコーヒーを飲み干し、空き缶をゴミ箱に放り投げた。からんという音に合わせ、彼は指をくるくると回す。

「缶が痛んでも中身が無事であれば、他の器に移し替えることが出来る。もし意識を他のものに移すことができたら、肉体の不調とは無縁の世界がやってくる。そもそも肉体が必要なくなることだってあるかもしれないね。そうなれば、僕なんてお役御免さ」

「なるほど」

 三枝は名札をぷらぷらと振って、愉快そうに笑った。つられて笑いながらも、以前かすみが口にしていた「肉体に縛られているというのも考えものですね」という言葉が、ふと憲吾の脳を刺した。

 人間の意識を抽出してデータ化する実験。肉体という器から、中身の意識だけを取り出す。理解が及ばずピンと来ていなかったが、ここ数ヶ月の出来事を思い出すと、急に身近なものに思えてくる。憲吾の手に汗が滲む。

 もしや身に降りかかった幽霊騒動は、ここに繋がるのでは? 憲吾は必要以上に間を空けて、炭酸の封を閉じた。

「その実験って──」

 憲吾が口を開いたのとほぼ同時に、三枝の携帯電話が鳴った。三枝は携帯電話を一瞥し、肩をすくめた。

「悪いね、呼び出しだ」

「そ、そうですか。すみません長いこと捕まえてしまって」

 あまりにもフランクに話してくれるものだから、憲吾は目の前の彼が医師だということ忘れていた。姉の実験についてもう少し聞いてみたかったが、それは叶いそうに無い。

 憲吾が頭を下げると、三枝はひらひらと指を振った。

「またおいで。彼女の情報をまとめておいてあげるからさ」

「本当ですか⁉︎ ありがとうございます!」

「いいよいいよ。彼女にはお世話になったから。じゃあまた」

 憲吾はさらに頭を深く下げた。患者でも無い憲吾にここまで親身になるのは、三枝の人徳なのか。はたまた、偉大な姉のおかげなのだろうか。

 手を振りながら小走りで去って行った三枝の背中を見て、憲吾は柱に身を預けた。

「どうしたもんか」

 炭酸飲料がアスファルトに汗を落としている。灰色の地面がより濃い色になる。


 既に亡くなっている姉。突如見えるようになった幽霊。意識を抽出する研究。取り巻く環境の全てが、憲吾には偶然とは思えなくなった。

 香澄咲來がこの世にいないという事実を、かすみに告げるべきなのだろうか? 何はともあれ、かすみ以外の誰かの知恵を借りる必要がありそうだ。

 悶々と悩むこと数分。病衣に身を包んで戻ってきた十和に別れを告げ、憲吾は帰路についた。

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