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春霞の足跡  作者: 豆内もず
3話 ペリヘリオン

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28/30

28 つまらなくてくだらない人生だったよ

 憲吾が十和を診療所に連れて行くことが出来たのは、三日後の昼下がりだった。最初は外出許可が降りなかった十和も、熱心な説得が功を奏し、条件付きで外出を許されたらしい。

 とはいえ、十和はハルという女性のことを知らないと言う。連れてきたところで、何も起こらないという可能性は大いにあり得る。

 屋根の下で傘を畳み、十和は肩口に落ちた雨粒を払った。

「雨森診療所……。本当に廃診療所が目的地だったんだねぇ」

「久々の外出なのに、めでたい場所じゃなくてごめんね。雨も降ってるし」

「あはっ。けんけんが降らしてるわけじゃないでしょー? 外に出る口実をくれただけでありがたいよぉ」

「そう言ってもらえると助かるよ」

 憲吾はかすみの先導のもと、歩幅を十和に合わせながら裏口を目指す。

 草を避けある程度道を作ったとはいえ、雨で濡れた地面は不安定だ。それでも後ろに続く十和は、安定した歩様を見せていた。

「よく外出許可がおりたね」

「どうしても外に出たい! って言い続けたもん! まあ過去一度逃走した身分なわけなので、GPSを持たされておりますが……」

「しっかり監視されてるってわけか」

「そうなの。やんなっちゃうよねぇ」

 ポケットから電子機器を取り出しげんなりした顔を浮かべる十和に、憲吾は苦笑いを返した。

 連れ出してきたのはいいが、廃業している診療所に長々と居座っていたと知られれば糾弾の的になるだろうし、歩のことを考えてもここが矢面に立つことはプラスではない。

 そもそも外出許可が降りなかった彼女を、半ば強引に外に連れ出してしまっているのだから、早急に用事を済ませてしまわねば。

 屋根の端から滴る雫が、憲吾の方に落ちる。かすみが指差す先に、通り慣れない勝手口が見える。

 錠が外れた勝手口は、恐ろしいほど簡単に彼らを診療所内へと導いた。

「こんな入口があるなら、最初から教えてくれればいいのに」

「おや。あまりに気が付かないので、てっきり窓からの侵入に思い入れがあるのかと思っていました」

「あるわけないでしょ。泥棒じゃあるまいし」

「やっていること自体は同じですけどね」

 盗人がごとく侵入していた今までの時間はなんだったんだ。憲吾は溜息を虚空に向けた。反応を咀嚼したかすみが、するりと壁をすり抜けていく。

「ほら。私に構っていないで、か弱い少女をちゃんとエスコートしてください」

 小首を傾げる十和に、憲吾は照れ笑いを返した。十和にはかすみの姿が見えていない。わかりきったことなのに、気を抜くとつい空間に言葉を返してしまう。

「ごめん、行こうか。一人で喋って気持ち悪いでしょ?」

「ううん。いいなぁ。十和にも幽霊さんが見えたらいいのに」

「そうなれば話は早いんだけどね」

 憲吾は傘を壁に立てかけ、診察室へと向かった。かすみの姿同様、十和には歩の姿も見えないだろう。見えたところで、お互いがお互いの姿を知らない以上、十和が歩の待ち人であるという確認は取れないわけだが。

 憲吾は診療室の扉を開けた。湿気を含んだ部屋では、歩が定位置で将棋盤を眺めていた。

「歩さん、十和ちゃんを連れてきましたよ」

「ありがとう。わざわざ足を運んでもらってすまないね」

 顔を上げた歩は、遅れて入ってきた十和を見て満面の笑みを浮かべた。

「随分と可愛らしいお客さんだ」

「割と強引に連れてきたので、あまり長居は出来ませんよ。あと、ハルさんのことは知らないらしいです」

「そうか……。せっかく来てもらったんだ。一局手合わせ願おうか」

 憲吾は歩の対面に座り鞄を置いた。

 さて、何から話すべきか。少し息を吐いた後、先程までピッタリと後ろに着いてきていた十和が、入口で硬直したままであることに気がついた。

「どうしたの? 入ってきていいよ」

 声を向けられた十和はハッとして、歩の方を指差した。

「れ、レインちゃん……?」

「ん?」

「天野レインちゃんだー!」

 幽霊を見たような反応だった。いや、本当に幽霊を見ているから、これは比喩でもなんでもない。

 憲吾はすくりと立ち上がり、十和と歩に視線を向けた。

「知ってるの? というか、見えるの⁉︎」

「もちろん知ってるけど……。見えちゃダメなのぉ?」

「そういうわけじゃないんだけど、話していた幽霊が彼女だよ」

「ええー! 十和にも幽霊さんが見えるの⁉︎」

 十和は声をあげて目を丸くした。

 憲吾は自分以外で幽霊が見える人間に出会っていない。わざとらしくくるくると宙を舞うかすみにはリアクションを返さないところを見ると、十和も例外ではないはずだ。

 しかし、十和には歩が見えている。憲吾は首を大きく傾け、浮かぶかすみに視線を合わせた。

「どうなってるんだろう?」

「わかりませんが、何かの縁を期待してしまいますね」

 少しの驚きを見せた歩が、ふっと息を漏らして指を十和に向けた。

「原理がどうであれ、見えているなら話は早い。声も聞こえているのかな?」

 十和の頷きを待って、歩は指を対面の席へと動かした。

「とりあえず座るといいよ。一局指しながら話をしようじゃないか。憲吾には僕の代打ちをお願いしようかな」

「わかりました」

 十和と憲吾は、歩に促されるまま盤面に向かい合って腰を据えた。 



「本当にレインちゃんだぁ。十和、リクオリアのファンだったんです」

「ふふっ。僕達にも随分と可愛らしいファンがいたものだね」

「でも、レインちゃんっていま活動休止中のはずじゃ……」

「外のことはわからないけれど、今はしがない幽霊さ。気負わず話してくれ。もちろん、手加減なんてもってのほかだよ」

「は、はいぃ」

 目を輝かせながら、十和は駒を握る。前回と同様の条件で始まった対局が、穏やかに進んでいく。

 活動休止中の有名人が幽霊となって現れたわけだから、もう少し驚いてもおかしくない状況ではあるが、十和はそれ以上そのことに言及することはなかった。

 憲吾も彼女に合わせ、話題を別の部分に向ける。

「なんか俺の最初と応対が違うんだけど」

「当然! 推しと不審者への応対が同じになるわけないでしょー?」

「辛辣すぎる……」

 弾けるように駒が鳴る。慣れない対人戦の空気が、じんわりと憲吾を刺す。

 和気藹々としながらも、盤面越しにお互いに頭の中を探り合っているような緊迫感が場を包んでいた。

 自分のものではない緊張から逃げるように、憲吾は口を開き続ける。

「十和ちゃんはリクオリアのファンだったんだね」

「そうだよぉ。お友達にCDをもらってから、好きになったの」

「そっか。じゃあ無理に外出許可をもらったかいがあったかもね」

 指示の隙間を縫って、背後の歩からほう、という声が漏れた。

「CDを持っているなんて、珍しい友人だね」

「珍しい? リクオリアって有名なグループじゃ無かったんですか?」

「アイドルグループとしては鳴かず飛ばずの部類だったよ。CDの流通数もかなり少ないんだ」

「そうだったんですね。今売ったら結構な値段に」

「もう! 夢のないことを言わないでよぉ」

「ごめんごめん」

「サインも入ってて、すっごく大切なものなんだから」

 膨れる十和にヘラヘラと笑みを返しながら、憲吾は歩の指示通り駒を進める。

 中盤に差し掛かっても、どちらが優勢かは、憲吾にはわからない。結局のところファンミーティングのアシストをしただけで、話が先に進む兆しがない。

 そう考えていたのは憲吾だけだったようで、彼の背後で指示を出していた歩が、神妙な声を上げる。

「ちなみに、さっき言っていたCDを見せてもらうことはできるかな?」

「はい! 写真でよければすぐにでも!」

 十和はポケットから携帯電話を取り出し、それを憲吾たちに向けた。猫を模した青いキーホルダーが、音もなく揺れる。シンプルなCDジャケットには、十和の言葉通りサインが添えられていた。

 歩からの指示が止まる。怪訝に思った憲吾が後ろを向くと、複雑な顔を浮かべた歩が映った。

「どうかしましたか?」

「いや……。なんでもないよ、ありがとう。次はここに」

 はぐらかすように、歩は扇子の先で角を指した。なんでもない反応ではないことは分かりつつも、憲吾は大人しく駒を進める。

 しばらく指し進めたところで、歩が長考に入った。かすみ相手、なんなら前回の十和相手でも見られなかった、五分にもわたる長考を終え、彼女は大きく息を吐き出した。

「楽しいね」

「えっ?」

 憲吾は声を漏らして振り返る。彼女の表情だけで、歩の言葉が作り物ではないことがすぐにわかった。

 彼女は部屋全体に視線を流した後、ふっと笑みを浮かべる。

「憲吾たちが来るようになって、ここ数週間はとても豊かな時間だったよ。その中でも、今日は一際気分が良い。僕はきっと、こういう穏やかな時間を求めていたんだろうね」

「そんな、今際の際みたいな……」

「まさにその通りだよ」

 歩は次の手を指すことなく、十和の隣に身を移した。十和の背筋がキュッと伸びる。

 もう対局を終えてしまうのだろうか? そのくらい穏やかな歩の表情が、場の空気をガラリと変えた。

「十和はハルを知っているかい?」

「ハル? それってけんけんが言ってた──」

「知らないらしいですよ。あれ? 言いませんでしたっけ?」

「僕は十和に質問をしているよ」

 歩は穏やかな動きで人差し指を憲吾に向けた。

 なんだよ。つい数秒前に良いことを言われていたのに。憲吾は少しムッとしてそっぽを向いた。彼を庇うように、十和が慌てて口を開く。

「知らないです!」

「晴海ハル、リクオリアの青色。グループの中では露出も多かったから、彼女を知らないでファンというのは、なかなかに難しい。それに、君のCDに書いてあるサインは、ハルと僕のものだよ」

「……えっ」

「ここまで聞いても、やはりわからないかい?」

 目を開いた十和は、眉間に皺を寄せ、深く頭を落とした。無言の肯定がしんしんと診療所に響き、雨の音が空間を包む。

 沈黙を保っていたかすみが、憲吾の側によってこそりと言葉を吐いた。

「おかしいと思ってたんですよ。ハルさんはリクオリアのメンバーだったんでしょう? にぶちんな憲吾君とは違って、ファンだった十和ちゃんが知らないなんて事は無いはずですから」

 おかしいと思っていたならば、早くそう言ってくれれば良かったのに。憲吾は目を細めてかすみを見た。

 リクオリアのファンを自称する十和が、メンバーのことを知らない可能性は確かに薄い。本人のサイン入りの物を大切に持っているとなれば尚のこと。

『都合よく』記憶が抜けすぎている。ここ数日の経験上、憲吾の頭によぎったのはそんな言葉だった。しかし、十和が嘘をついている様子もない。

 脳裏に疑問符を浮かべていると、歩がふっと息を漏らした。

「意地悪をしてしまってすまないね。責めているつもりはないよ。ただ事実を確かめたかっただけなんだ」

「ごめんなさぁい……」

「謝る必要もない。わかっていて聞いた僕が悪いんだから」

 何かを悟ったような歩が、憲吾とかすみに顔を向けた。そのまま彼女は深く頭を下げる。

「事実の確認は済んだ。かすみの勘とやらは当たっていたようだね」

「そうですか。まあ、当然なんですけどね」

 自信満々に胸を張るかすみを尻目に、憲吾は頭を傾けた。

「えっ? じゃあ……」

「ハルが言っていたのは、おそらく十和のことだね」

「何かわかったんですか?」

 歩は笑みだけを返し、元いた位置へと戻った。 

「さあ、対局の続きをしよう。最後の局面だよ」



「もう一度さっきの写真を見せてくれるかな?」

 再び対局が始まる。先ほどの長考が嘘だったかのように、スムーズに言葉と駒が流れる。

 十和は困惑しながら、再び携帯電話をこちらに向けた。ジャケットに添えられたサインを指さし、歩はふんふんと扇子を振った。

「言った通り、それは僕とハルのサイン。僕の記憶に間違いがなければ、このCDに二人分のサインを描いたのは、この世界でたった一枚だけ。ハル自身に頼まれた物だ」

「ハルさんに?」

「ああ。友達にあげたいから、と言っていたね。普段そんなことを頼む子じゃ無いから、よく覚えているよ。もちろん、それを目的外に使うような子でもない。それにね」

 歩は画面に向けた指を、そのまま携帯にぶら下がったキーホルダーに向けた。

「それも、誰かから貰ったんじゃないかい?」

「はい、その友達から」

「それもハルと同じものだ」

 歩は懐かしむような目を青色の猫に向け、扇子で口元を隠した。

「ここまでの偶然が重なれば、自ずとその友人とハルの姿も重なってしまう。証明する手段は無いけれど、違っていても諦めがつくよ」

 なるほど、と憲吾は思った。盤面に干渉する傍ら、歩は着々と思考を進めていたのだろう。

 記憶が抜けていても、これだけの情報が合致すれば無関係とは言えない。十和の言う『思い出せない友達』は、ハルのことなのだろう。十和をここに連れてきたという事象が、ようやく意味を持った。ここまでの合致が、憲吾にひらめきを与える。

「もしかして、由吊山に行ったのもその友達と?」

「うん、そうだよぉ。よく知ってるねぇ」

「マジか……」

 憲吾は大急ぎでかすみの方を見た。勝ち誇った顔が大変癪だったが、彼女を称えたい気持ちが勝る。

 これでハッキリした。十和からハルという女性の記憶が綺麗さっぱり抜け落ちているのだ。

 諸々の考えを整理したい気持ちをグッと堪え、憲吾は背後の歩に目を向ける。

「まあとにかく、意中の人が見つかって良かったですね」

「そうだね。この一局が終われば、もう心残りもないよ。65歩」

 歩は大袈裟に両手を上げた後、再び盤上に指を向ける。憲吾が駒を握る。

 今の戦況がどのような状態かはわからない。しかし、次の一手が歩の成仏に直結してしまうかもしれない。そう思うと、憲吾の手にも力が籠った。

 数手進めたところで、今度は十和が指す手を止めた。

「本当に?」

 十和の顔は上がらない。ただただ盤面を見つめている。誰に対しての質問かがわからず、全員が言葉を留めていると、十和が再び口を開き始める。

「十和、病院での生活が長いから、やむなく何かを諦めた人達の表情をいっぱい見てきたの。今のレインちゃん、その人たちと同じ顔をしてるから……。何か心残りがあるなら、聞きたいと思ってぇ」

 憲吾には歩が満足したようにしか見えなかったが、どうやら十和には違うものに映っているらしい。

 言葉を向けられた歩は、呆気に取られたようにしばらく動きを止めた後、諦めたように微笑んだ。

「心残り、か。よくわかったね。演技には自信がある方だったんだけれど」

「余計な事を言っていたらごめんなさぁい」

「いいや。吐き出す機会をくれて、感謝しかないよ」

 十和は顔をあげ、ブンブンと手を振った。歩はゆっくりと間を作った後、ふっと息を吐き出す。美しいその所作に、憲吾は目を奪われる。

「思い返すと、つまらない人生だったなと思ってね」

「つまらない?」

「本当はこんなふうに、誰にも注目されず生きていたかったんだ。だから、ようやく手に入れたこの生活を捨ててしまうのが、少し惜しい。煌びやかなステージは、僕には眩しすぎたみたいだよ」

「国民的女優の言葉とは思えませんね」

 かすみが放った言葉を受け取り、歩は目を細めて扇子をくるりと回した。

「我ながら、あの職業は天職だったよ。上手くやれていた自負もある。しかし、好きと得意が一致するとは限らないんだ。雨森歩は、友達とのんびり将棋を指しているのが大好きな、普通をこよなく愛する女の子。注目や関心は、それを妨げる檻だ。天野レインは、煌びやかなように見えて、ただただ得意に自由を奪われた哀れな偶像さ。本当に、つまらなくてくだらない人生だったよ」

 扇子で隠され表情は見えない。しかし、冷静で淡々としていた歩が、色濃く感情を露わにしているようだった。

 得意に自由を奪われた哀れな偶像。憲吾には歩の気持ちはわからなかったが、境遇に辟易して普通を求める彼女の姿は、幽霊だった頃の十和と少し似ているなと思った。

 ひょっとしたら十和なら、歩の言葉に対する解を持っているかもしれない。憲吾は喉元に力を入れ十和に視線を向ける。

 色が変わるほど強く手を握っていた彼女は、グッと駒を掴み力強くそれを指した。角行が美しい声で鳴いた。

「くだらなくない! 悲しい事言わないでよぉ」

「吐き出させたのは君だよ?」

「そう、ですけどぉ。窮屈で自由がなくて、それでも辞めなかったのは、楽しいこともあったからじゃないの? くだらないなんて言葉だけで終わらせるのは、やっぱり悲しいよぉ」

 涙を溜めた十和が、歩に鋭い目を向けた。受けて立つように目を細めた歩が、扇子の先を盤上で踊らせる。

 切った口火が収まらないのか、十和は言葉を並べ続けた。

「十和、死んじゃっても良いやってずっと思ってたの。どうせ治らない、みんなと同じ時間の中では生きられない、そんなことを考えてると毎日つまらなくて、生きていることに理由が見つけられなくて……。リクオリアを初めて見た時も、眩しくて羨ましくてどうにかなりそうだったし」

 十和は目尻に溜まった涙を袖口で拭った。雨足が強くなったのか、ざあざあと屋根を叩く雨音が響く。

「けど気がついたらレインちゃんの事が大好きになってた。笑顔で頑張る姿を見て、十和も頑張ろうって思えたの。生きていく理由をもらえたの! レインちゃんの普通と十和の普通が同じかはわからないけど、普通がいい! って気持ちはすっごくわかるよ。十和もそうだったから。でも、応援していた人の気持ちまで蔑ろにしちゃダメだよ。十和にとってレインちゃんは、くだらなくなんてないもん! 十和が大好きなレインちゃんに、ひどい事言わないでよぉ」

 診療所に雨が降る。憲吾の喉元にも、グッと熱いものが込み上げてくる。

 病院生活に自由を奪われ、こんなわずかな外出にもGPSを持参させられるような十和からすれば、歩の悩みは贅沢なものにも聞こえただろう。

 それなのに彼女は、その部分にほとんど触れず、ただただ『天野レイン』を庇うような言葉を吐き出したのだ。

 そしてその言葉達は、揺れる魂を導くには十二分な一撃だったようだ。歩の動きが止まる。

「蔑ろにしちゃダメ、か。手厳しい」

「ハルさんは、こうなることがわかっていて、十和ちゃんを歩さんに会わせようとしていたのかもしれませんね」

「……そうかもしれないね。どんな薬よりも効果のある言葉だったよ」

 十和からは見えない援護射撃が歩を撃ち抜いた。かすみと歩は顔を見合わせて穏やかに笑い合った。

 大きく息を吸った歩は、まっすぐ襟を正し憲吾の横に並んだ後、深々と頭を下げた。

「参りました。僕の負けだ」

「えっ?」

「さっきの一手で終わりまでの道筋が見えた。詰みだよ。やっぱり強いね十和は」

「いつの間に……」

 歩はゆっくりと頭を上げた後、十和に視線をぶつけた。

「君の大好きなものを貶めてしまってすまない。そして、ありがとう。感傷にまかせて天野レインをくだらないと評するべきではなかった。窮屈でも辞めなかったのは、僕が人の笑顔を生み出す仕事に魅了されていたからだ。忙しい日々に揉まれて、僕はとても大切な事を忘れていたよ。君のおかげで、それが思い出せた」

 十和は涙を拭い、ぶんぶんと頭を振った。歩はふっと息を漏らし、力無く肩を落とす。

「君と将棋を指せて、話が出来て、本当に良かったよ。またいつか、相手をしてくれるかい?」

「もぢろんでず!」

「ありがとう。これ以上ないほどに満たされたよ。もう未練はない」

「今度は嘘ではなさそうですね」

 かすみの言葉通り、先ほどより満たされた彼女の顔つきの貫通して、診療所の景色が映る。

 憲吾は大急ぎで歩に指を向けた。

「歩さん! 透けて──」

「贅沢者の余暇はもう終わりみたいだ。二人にも世話になったね。楽しい時間だったよ」

「そんな急に……」

 歩は憲吾達の方を向いて頭を下げた。診療所の景色に溶けていくように、彼女の透明度が上がっていく。

 十和の時と同じ。満たされた彼女は、成仏してしまうのだ。

 こうなる事を願っていたはずなのに、いざその時が来るともう少しと願ってしまう。憲吾は込み上げてくる感情を天井に投げた。

 その様子で顛末を悟ったのか、十和が啜り泣く声が大きくなる。そんな十和の頬に手を沿わせ、歩は静かに頷いた。

「世話になったついでだ。健やかに眠っている僕に、起こったことの全てを教えてあげてくれないか?」

「えっ? 何でそれを……」

 歩は静かに微笑んでかすみを指差した。歩がまだ生きているということを、いつの間に喋っていたんだ。今更ながら、この幽霊には報連相の重要性を説かねばならない。

 舌をぺろりと出しとぼけるかすみを一瞥し、憲吾は大きく息を吐き出した。

「俺はいいんですけど、幽霊だった頃の記憶は無くなってしまうんです。信じてもらえるかどうか……」

「なるほど。……ならばとっておきの情報をあげよう」

 歩は憲吾に身を寄せ、耳元で囁いた。言葉を吐き出し終わり、歩は悪戯っぽい笑みを浮かべ身を離した。

「それって……」

「信じなかったらこれを言ってやればいい」

「訴えられませんか?」

「さあ、どうだろうね。ただ、眠っている僕に代わって約束しよう。必ずこの恩は返すよ」

 歩は憲吾の頭の上で手を泳がせた後、かすみの方を向いた。

「君の記憶を取り戻す助けになれず悪いね」

「いえいえ。充分過ぎるほど知恵をいただきましたよ」

「君が言うと皮肉に聞こえてしまうのは、勘繰りすぎかな?」

「さあ、どうでしょう?」

 歩は旧知の友に向けるような無邪気な笑みをかすみに向けた。彼女からどんどん色彩が無くなっていく。

 時は別れを待ってくれない。これまでの時間が嘘だったかのように、あっけなく終わりが近づく。

 刻一刻と溶ける歩は、空中で踊らせた腕を愛おしそうに眺め、最後に扇子を大きく振った。

「まだまだ話し足りないけれど、お別れみたいだ」

「レインちゃん……」

「大丈夫。またすぐに会いに行くから」

 すがる十和に最高の笑みを向けた後、ふわりと身を浮かせて宙を舞う。

「じゃあね。各々、無理はしないように」

 歩の姿が消える。彼女が溶けた空間には、ただただ診療所の淡い闇だけが残された。

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