25 助っ人を使いたいんです
憲吾が診療所に到着してから、四十分が経過した。
彼の目の前には、余裕そうな歩の姿と、苦虫を今まさに噛み潰しているような顔を浮かべるかすみ、そしていつも通り劣勢の盤面が広がっている。
かすみの思考が止まったのか、駒の指示が止まる。こうなっては、最後の言葉を待つだけだろう。憲吾はぼんやりと視線を泳がせる。
彼はふと、この診療所も綺麗になったなと思った。
勝手に入る代わりに少しくらいはと掃除を続けた結果、想像以上に長引いて、埃の一つでさえ居場所を失うほど綺麗になってしまったのである。
ここに医療器具を差し込めば、すぐにでも営業を再開できるだろう。四年も放置され続けているこの場所に、そんな価値があるのかどうかもわからないが。
憲吾はかすみに視線を戻した。かすみは大きく息を吐き出して両手を上げた。
「負けました」
あまりにも変わり栄えのない状況に、二人は顔を見合わせて肩を落とした。余裕を保ち続けている歩は、穏やかな笑みを浮かべ扇子を開く。
「どんどん手が良くなっているよ。このペースなら、今年中に一矢報いれるかもしれないね」
「私は今日勝つつもりだったんですよ」
「一朝一夕でどうにかなるものじゃないと、もうわかっているだろう?」
かすみは口を尖らせて、じっとりとした視線を歩に向けた。
情報が集まっても急に将棋が強くなるわけではない。今年中という歩の言葉も、間違いではないのであろう。
いつか来る勝利のため研鑽を続ける。長い人生を考えればそれも悪くないが、そこまで悠長に待てる現状は彼らに存在していない。そろそろ劇的な変化が求められる頃合いなのである。
しばらく睨みを利かせていたかすみは、諦めたように息を吐いた。
「私でなんとかなればと思いましたが、必殺技を温存することは出来なさそうですね。憲吾君、あとは任せました」
「任されたよ」
憲吾は駒を元の位置に戻し始める。かすみはしぶしぶ盤面から身を離した。
「おや、珍しいね。今日は憲吾も指すのかい?」
「はい。……厳密に言うと俺ではないんですが」
歩が首を傾げる。憲吾は携帯電話を取り出し、それを歩の方へと向けた。
「歩さん。一つ提案というか、お願いがあります」
「なんだい? 手加減ならしないけれど」
「いえ、実は助っ人を使いたいんです」
憲吾が向けた画面では、二重十和という文字が踊っていた。憲吾は一つ呼吸を挟んで、おおよそ一時間前の十和との会話を思い返した。
病院生活が長かった十和は、持病を理由に友達を作ろうともせず、虚ろに過ごしていた。本を読み漁る生活にも飽きた頃、作業活動の一環として医師から紹介されたのが将棋だったという。
医師は「同じように暇を持て余している子と遊んでやって欲しい」と言っていたが、それが本音だったのかどうかは十和にはわからない。少しでも社会性を身に付けろという小言の一種だったのかもしれない。
最初は親父くさくて嫌だなぁ、と思っていた十和だったが、他にやりたいこともないという理由で将棋を学び続けた。
動機と能力は必ずしも比例しない。孤独で膨大な時間は、消極的な彼女に圧倒的な実力をもたらした。そうして彼女は、唯一出来た友達や提案してきた医師など相手にならないほどの力を身に着けたのである。
そう語る彼女が「幽霊と将棋なんて素敵! 十和もやりたい!」だなんて言うものだから、憲吾もこの状況を提案せざるを得なくなった。
かすみの言葉通り、出来れば温存しておきたかった必殺技。本人談のみの実力に折り紙はつかない。当たればラッキーくらいの代物だ。
しばらく画面を見つめていた歩は、ふっと息を漏らして頷いた。
「おもしろい提案だね。構わないよ」
「ありがとうございます」
携帯電話を向け続ける憲吾に小首を傾げ返し、歩はキョロキョロと辺りを見渡した。
「ここに来るのかい?」
「いえ、外出制限があるみたいなんで、声だけの出演になってしまいますが」
「なるほど。僕の準備は出来ているよ。いつでもどうぞ」
歩に手を向けられ、憲吾は通話ボタンを押した。数回のコールの後、スピーカーから十和の声が響いた。
「……はぁい」
今の今まで眠りについていたかのように覇気がない音が漏れる。憲吾は自分の鞄の上に携帯電話を置いた。
「もしかして寝てた?」
「ううん。大丈夫だよぉ」
「早速出番が来たけど、大丈夫?」
「早いねぇ。準備するから少々お待ちをー」
スピーカーの奥から、カチャカチャと何かを並べる音が聞こえる。電話越しということが原因かはわからないが、先程聞いていた声よりも少し力がない気がする。
長い間話してしまったし、疲れてしまったのかもしれない。そのうえ今から頭を使わせるなんて、本当にいいのか。作業音の傍ら憲吾が悶々と考えていると、十和の方から準備完了を知らせる言葉が届いた。
歩がゆっくりと襟元を正した。
「持ち時間、手番、全て決めていいよと伝えてくれるかい」
「十和ちゃん、先手と後手どっちがいい? あと持ち時間も決めて良いってさ」
「え、いいの? じゃあ――」
十和の言葉の後、歩は堂々と頷きを返した。持ち時間10分、秒読み1分。十和の先手で対局が始まる。本人たちは盤に直接干渉しない、不思議な時間が流れる。
憲吾は彼女たちの言葉に合わせ、淡々と駒を動かし始めた。
「5五角」
手番からほぼ間を空けず、十和の声が響いた。彼女の物とは思えないほど凛とした声が、場の緊張感を維持し続けている。
パチリと駒が鳴る。チェスクロック役を務めるかすみが、食い入るように盤面を見つめていた。
駒の往来が始まってから、どのくらい経過しただろうか。張り詰めた空気のせいで時間間隔が麻痺しているが、ただただ長い時間が経ったことだけは憲吾にもわかった。
憲吾がやっている作業自体は普段と変わりない。両者の指示の通り駒を動かし、それっぽい表情を作るだけ。普段と大きく違うのは、歩の表情だった。
歩は眉間に皺を寄せ、盤面を睨みつけ、扇子で口元を隠している。普段の飄々とした態度ではなく、焦りを滲ませている表情。戦況がわからない憲吾でもわかる。これは十和の優勢だ。
歩は空いた手で桂馬を指差し、その指を自身の近くのマスまで寄せた。憲吾が駒を動かし位置を伝えると、すぐさま十和から言葉が返ってくる。最低限の指示と駒の音が診察室を駆け回った。
――まさか、このままあっさりと勝ってしまうんじゃないか。
数週間にも及び数えきれないほどの敗北を目にしてきた憲吾は、急に複雑な気持ちになってしまう。他人の答案を自身の名前に書き替え、その点数を誇っているようなばつの悪さが、彼の意識によぎる。
手が進む。小学生の下校が始まったのか、時折子どもの声が通り過ぎていった。
憲吾の予想に沿った展開が訪れたのは、そこから15手ほど進んだタイミングだった。
「詰みだね。僕の負けだ。ありがとうございました」
歩は言葉と同時に身を伸ばし、深々と頭を下げた。釣られて頭を下げた憲吾だったが、しばらくの静止の後、小さく息を漏らしガッツポーズを掲げた。
これはマナーとしてどうなんだろうか。絶対によくはないが、プレイヤーではないからどうか勘弁してほしい。憲吾は続けて携帯電話を手に取った。
「勝ったよ十和ちゃん!」
「ひっ。声が大きいよぉ」
「ごめんごめん。でも、投了だってさ」
「よかったぁ。幽霊さん、手ごわかったから冷や冷やしたよ。ありがとうございました」
スピーカーの向こうから、駒を弄る音が鳴る。先程までの鬼気迫る声色はどこへやら、十和はほにゃほにゃと鼻歌を奏で始めた。
その音に合わせ、まるで自分が勝ったかのように、かすみがぎゅっと歩に詰め寄った。
「すごい! すごいです! まさか本当に勝ってしまうなんて。手加減はしていませんよね?」
「ああ。正真正銘本気で指した」
「ふふん。私が成し得なかったことは少々不満ですが、大きな一勝です」
大きな一勝。まさに言葉通りである。喉から手が出るほど欲しかった勝利へのピースが、突風のように現れた。
大盛り上がりするかすみを傍目に、憲吾は通話口に言葉を向けた。
「ありがとう十和ちゃん。本当に助かったよ」
「十和も幽霊さんと指せて楽しかったぁ。でもものすごーく疲れちゃったから、ちょっと休憩するねぇ。幽霊さんに、感想戦出来なくてごめんなさいって伝えてもらえるかなぁ?」
「うん、多分聞こえてるから大丈夫だよ。ゆっくり休んでね」
「はぁい」
「またお見舞いに行くよ」
「待ってまーす」
十和との通話を終え、憲吾は携帯電話を見つめる。通話時間は1時間と10分。最初の会話を除いても、1時間を超える熱戦だったようだ。それを意識した途端、憲吾の肩にどっと痛みが降ってくる。
――代打ちとは言え緊張していたのか。情けない。
熱を帯びた携帯電話をポケットに仕舞い込み、憲吾は歩の方を向いた。
「すいません。こんな勝ち方で」
「負けは負けだ。勝ち方は指定していないよ。それにしても、強いね彼女は」
歩はすとんと肩から力を抜き、額のあたりを手で拭った。肉食動物のように鋭かった表情が穏やかに変わる。
負けたとはいえ、歩は上機嫌だ。その様子だけで、十和を紹介できて良かったと憲吾は思った。
もはや条件反射とも言えるほど自然な流れで、憲吾の手が盤面を均していく。
「歩さんも俺たちばかりが相手だと退屈だったでしょ」
「そうだね」
「もう! そこは否定するところですよ!」
「冗談だよ。君たちには感謝しているよ。おかげで数週間の退屈を凌げた」
歩は憲吾とかすみに交互に目を配り、くすりと笑みを浮かべた。彼女はそのまま両手を広げ、ふわふわと診察台の方へと移動する。
「さあ、約束通り君たちにとって有益な話をしようか」
歩が扇子を放り投げる。美しい放物線を描いたそれは、音を立てることもなく地面に吸い込まれていった。