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春霞の足跡  作者: 豆内もず
3話 ペリヘリオン

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24/30

24 他に誰がいるんです?

 ――気分が乗らない。

 二度目の訪問となる病院を目の前に、憲吾は大きく深呼吸を繰り返した。

 数日経った梅雨の晴れ間は、このまま雨季が終わるのかと思えてしまうほどの晴天だった。

 心地の良い陽気に反し、鬱屈とした表情を浮かべる憲吾を見て、かすみはふっと息を漏らす。

「えらく緊張をしていますね。プロポーズでもしに行くんですか?」

「何日か前に受付で嫌な顔をされてるし、それくらいの緊張感はあるかもね」

「大丈夫ですよ。なんと言っても、今回は私がいますから!」

「頼りにしてるよ」

 頼もしいような、そうでもないような。憲吾は苦笑いを浮かべ頭を掻いた。

 再度十和と話をするため、憲吾とかすみは病院へと足を運んでいた。一緒に由吊山に行った人物について十和に聞けば、何か手がかりが掴めるかもしれない。

 しかし、入り口まであと数歩、憲吾の足はそこで動かなくなってしまう。

 亀のような速度で歩く杖を持った老爺が、憲吾を一瞥して追い抜いていく。開いた自動ドアの先では、多くの人の往来がみられた。雨だろうが晴れだろうが、今日も病院は大繁盛のようだ。

 十和のご所望通り携えたクレープを片手に、憲吾は深く息を吐き出した。

 ――やはり気分が乗らない。行きたくないが勝ってしまう。

 十和と会うことに躊躇いはない。むしろ楽しみなほどである。受付に嫌な顔をされることに関しても、そこまでの嫌悪感はない。

 それでも二の足を踏んでしまうことには、確固たる理由があった。憲吾は柱に身を預け、ゆっくりと腕を組んだ。いつまで経っても院内へと向かおうとしない彼を見て、かすみは悟ったように息を漏らす。

「ははーん。さては、お姉さんの話を聞くのが怖いんですね?」

 驚いた。幽霊は心も読めてしまうのか。かすみからの言葉が図星であったことで、憲吾は言葉を奪われた。

 返答から逃げるように、憲吾はぼんやりと携帯電話に目を向けた。短い文章の中で一際目立つ文字が、彼を見つめ返す。

 

 香住咲來(かすみさくら)。憲吾の母いわく、これが彼の姉の名前である。

 彼らが生き別れることとなったのは、憲吾が0歳、咲來が8歳の頃。憲吾の記憶に残っていないのはもちろんのこと、母親でさえそれ以降は会っていないという。

 咲來の現状を探る情報として母親から提示されたのは、彼女がかつて名津総合病院に従事していたということ。そしてその病院こそが、目の前にある十和が入院している病院なのである。

 香住とかすみ。元幽霊、十和に縁がある病院。香住という名前が捜査線上に現れた以上、かすみとの関係性はもはや無視できない。本人曰く適当に名付けたという名前も、今にして思えば記憶の残穢だったのかもしれない。このお気楽幽霊が、実の姉である可能性があるのだ。


 元々が一本の糸だったかのように、何かが確実に結びつこうとしている。単純な憲吾にも感じ取れるほど不明瞭な予感が、彼の一歩を鈍らせていた。

 ——世の中には開けないほうがいい箱もある。これは多分、そういう類の話。

 憲吾はまとまらない思考と携帯電話を、ポケットに放り込み天を仰いだ。無機質なコンクリートの天井だけが目に映る。

 かすみは悪戯っぽい笑みを浮かべ、憲吾の目の前をふわりと回遊した。

「気楽に考えましょう。幽霊と会話している君に、もはや怖いものなんてないはずですよ」

「……生きている人間の方が怖いこともあるんだよ。歓迎されない可能性だってあるわけだから」

「君が言うと説得力がありますね」

 憲吾がむっとした表情を返すと、かすみはふっと息を吐いて言葉を続けた。

「憲吾君としては複雑かもしれませんが、咲來さんについて調べることは、私が成仏するためには避けられない道だと思うんです。彼女と私が同一人物であったとしても、不利益があるわけじゃありませんし、そもそも全く関係ない可能性もあります。気楽にいきましょう」

 憲吾はかすみの方に視線を向け、静かに頷きを返した。

 病院の前でうろうろしたところで、事態が好転することなど一つもない。見えない不安を恐れて足を止めるなんて、実に自分らしくない。

 そもそもここに来た時点でやることは一つなのである。たまたま長期間病院にいる友達に、医者である姉のことを聞くだけだと思い込んで、足を前に進めるしか無い。

 憲吾は自身の頬をパチンと叩いた。病院に向かう人々が、怪訝な顔をして通り過ぎていく。

「悩むのは俺の仕事じゃないよね。よし、行こう!」

 憲吾は意を決して入口へと足を向ける。それと同時に、数歩先にある自動ドアが開いた。病院から出てきた少女が、憲吾に気づいて足を止める。

「おやおや。顔を上げると運が舞い込んでくるんですね」

 かすみの言葉に頷きだけを返し、憲吾は大きく息を吸う。全くの同意見。運は俺に味方していると、憲吾は真っ先に思った。

 病院から現れたのは十和だった。抑えられない不敵な笑みを携えて、彼は十和に近づいていく。

「こんにちは」

 少女は固まったまま、憲吾に呆けた表情を向け続ける。少しして、ハッとしたように声を上げた。

「ま、待ち伏せとか、びっくりなんですけど」

「ふふっ。待ち伏せですって。ん? もしかして最初からこれを狙ってたんですか?」

「いや、本当にたまたまだから」

 憲吾は十和とかすみの両方に向けた言葉を放り、キョロキョロと辺りを見渡した。ベンチが一組、機を待っていたように空席を保っている。

 開口一番卑怯とは失礼な。しかし、状況からしてそう思われても仕方がない。憲吾は表情を柔らかくして、10メートルほど先にあるベンチを指差した。

「今からちょっと時間もらえる? 聞きたいことがあってさ」

「……良いですよ。十和も確認しておきたいことがありましたし」

 言葉の割に渋々と言った様子な十和を引き連れ、憲吾は木陰のベンチへと向かった。



「いろいろと聞きたいことがあるんだけど、まずは……はい、これ」

 ベンチの端と端。これを警戒と言わずなんというか。一度会話をしたというアドバンテージは、雨水と共にどこかに流されてしまったらしい。

 憲吾は僅かばかりの期待を込めていたが、信頼感を得たことはおろか、彼女にはかすみの姿が見えているわけでもなさそうだ。

 憲吾は手に持った紙袋を十和の方に向けた。彼女は怪訝そうに袋を眺め、首を傾げた。

「なんですか?」

「クレープだよ。前に来た時に約束したでしょ? これがあれば話を聞かないこともないって」

「あー」

 十和は不思議そうに声を上げ、恐る恐る袋の中身を取り出した。マイナス感情を滲ませていた十和だったが、クレープを見て目を輝かせる。

「か、かわいい……」

「見た目はもちろんのこと、味も保証するよ」

「ありがとうございます」

 十和はぽつりと言葉を漏らし、しばらくの間クレープを眺め続けた。しかし、口をつけることもなく、それをあっさりと憲吾の方へと突き返した。憲吾は慌てて言葉を放った。

「食べないの?」

「食事に制限がかかっていて食べられないんです。食べる係は……お任せします」

 憲吾は紙袋を受け取り、眉をしかめた。

「えっ。食べられないのに持ってこいって言ったの?」

「アポもなく急に来たけんけんさんが悪いんですよ! 本当にまた来るだなんて思って無かったし……」

「そこは確かに俺が悪いけど」

「それに、楽しみ方は人それぞれです! 目で楽しむのも、立派な楽しみ方ですから!」

 十和は捲し立てるように言葉を並べ、ばつが悪そうにそっぽを向いた。彼女から意地悪をしてやろうなんて様子は見られない。冗談で交わした言葉通り、手土産を持参した憲吾に対し、申し訳なさが出てしまったのだろう。

 憲吾もそれを理解し、強く追及することはなかった。しかし、懐かしいやり取りと共に繰り出された単語が違和感となり、憲吾に纏わりついてくる。

「憲吾君、気付いていますか?」

 憲吾は薄く首を縦に振った。

「けんけんさん」と彼女は言った。幽霊だったころの記憶がないにも関わらず。十和に元来名付け気質があるにしても、そこまで仲を深められた手ごたえは今のところない。

 憲吾は足元を確かめるように慎重に言葉を並べる。

「ちなみに、けんけんさんって俺のこと?」

「他に誰がいるんです?」

「失礼承知で言うんだけど、俺たちってそういうあだ名で呼び合う間柄になってたっけ?」

「間柄?」

「えーっと、なんというか。なんか、雰囲気が変わったね」

 どちらかと言うと戻ったに近いが。記憶が戻ったかもしれないという淡い期待を踏み抜かれないように、憲吾はゆっくりと言葉を辿る。

 探り探りの空気に、先に痺れを切らしたのは十和の方だった。

「なんですかまどろっこしい!」

「いや、けんけんって呼ばれたことにびっくりしちゃって。幽霊だった時、十和ちゃんは俺のことをそう呼んでたから」

「……口馴染みが良いからそう呼んだだけです」

「そ、そっか……」

「わかりやすく落ち込まないでください」

 十和は言葉を大きく振りかぶった後、足で地面を弄り始めた。憲吾の視線がストンと地面に落ちる。僅かに芽吹いていた期待が、あっという間に均される。

 鳥の囀りが聞こえる穏やかな昼下がりに、ぎこちない空気が流れる。少しして、十和が口を開いた。

「十和から先に一つ確認してもいいですか?」

「はいどうぞ」

「あなたが来た日の夜、夢を見たんです」

「夢?」

 なんだろう急に。憲吾が身体を向けると、十和は入れ替わるように視線を地面に落とした。

「暗い場所で一人寂しく過ごしていた十和を、誰かが連れ出してくれた夢です。誰かの家、学校、商店街。憧れの制服に身を包んだ、キラキラした自分の姿。どれも知らない景色なのに、友達と遊ぶ十和がそこにいました。まるで、十和の理想を映したフィルムみたいな、素敵な景色。そうして十和は、満たされて消えていくんです。断片的で不明瞭でしたが、一緒にいたのは、間違いなくけんけんさんでした。あれは、本当にただの夢だったんでしょうか?」

 見たことがあるページをなぞるように、憲吾は十和の言葉を静かに聞き入った。話の切れ目で、彼は無意識にかすみの方に目を向ける。かすみもゆっくりと頷きを返した。

 由吊山での出会い。既視感のある思い出。今の十和が知るはずもない十和の記憶。他人が見た夢に対し、否定も肯定も正解ではない。しかし憲吾は、自信を持って答えを返した。

「ただの夢なんかじゃない。十和ちゃんが幽霊だった時と同じだよ」

「……そうですか」

 一呼吸置いた後、十和の視線が憲吾を捉える。長々と続いていた訝しい空気が、ガラリと様相を変える。柔らかい笑みと八重歯が、憲吾の胸を刺した。

「今の言葉を聞いて確信しました。理屈や原理はわかりませんけれど、この前言っていた通り、あなたは十和と会っていたんでしょうね。怪訝な態度をとってすいませんでした」

「いや、それは全然。それより信じてもらえたことがびっくりなんだけど」

「馬鹿正直にクレープを持ってきてくれた素直なけんけんさんを、お友達として近くに置いておくのも悪くないかなって」

「ひどい!」

 十和の笑い声とかすみの笑い声が重なる。返す刀で声を上げたものの、憲吾は少し愉快な気持ちになる。

 十和はちらりと紙袋に目を向けた後、真面目な表情を作った。

「十和にとって、あれはただの夢です。それ以上でも以下でもありません。でも、あなたの手を掴んだら、あの光景をもう一度見られる気がするんです。だから……信じますよ」

 十和は強くまっすぐな瞳で憲吾を見つめた。かつての十和が話していた、他人を避けている病弱少女の姿はそこにはない。憲吾も期待に応えるように、しっかりと彼女を見つめ返した。

 少しして、少女は表情をへにゃりと緩ませる。

「振る舞いも、その、それに伴って変わってくるけれど……。だめ、ですか?」

 懐かしくなるような上目遣い。照れて上気した頬。涙を誘うような素振りではないのに、憲吾は泣きそうになってしまう。

 病院に着いたときの不安感は、もうどこかに消え去ってしまっていた。憲吾は少し上を向いて、勢いよく言葉を吐いた。

「俺はその方が助かるよ。ラフに接してもらえる方が嬉しいし」

「ふふっ。ありがとぉ」

 柔らかくなる口調と表情。少しだけ距離が近づく。憲吾は照れ臭くなって、目線を外し頬をかいた。

 くすくすというかすみの笑い声が憲吾をくすぐった。

「ようやく幽霊以外のお友達が出来ましたね。おめでとうございます。さあ冷静ぶって格好つけている場合ではありませんよ! ここからが本番です!」

 ――余計なお世話だよ。憲吾はかすみの声に、心の中で言葉を返す。

 とりあえず信用は勝ち得た。あとは聞きたいことだけ聞いて帰ろう。由吊山での出会いは無駄ではなかった。もう今日は、それだけで胸がいっぱいだ。

 憲吾はガッツポーズを掲げたい気持ちをグッと堪え、軽快に言葉を吐いた。

「今度は俺から聞いていいかな? 由吊山のことと、とある人物についてなんだけど」

「いいですよぉ」

「実は今、記憶喪失の幽霊の情報を集めていて――」

 憲吾は頭の中で情報を組み立てながら、大きく両手を使って話を続けた。突拍子もない彼の言葉に、十和は興味津々に耳を傾けた。



 十和との話を終え、雨森診療所に向かう憲吾の足取りは、ひどく重々しいものだった。

 晴れを保ち続けている空が、嫌がらせのように彼の肌を焼く。大きな溜息を振り払い、かすみは憲吾に人差し指を向けた。

「この短期間に一喜一憂して、君は忙しい人ですね」

「この世界には心を揺さぶる出来事が多すぎるだけだよ。俺は悪くない」

「君が悪いだなんて言っていませんからね。気味は悪いですけど」

 お気楽幽霊は、愉快そうに言葉を反芻している。憲吾は信号で足を止め、ぼんやりと赤信号を見つめた。

 結論から言うと、十和からは一つも情報が得られなかった。香住咲來については知らない。誰と一緒に由吊山に行ったかも覚えていない。もう何もいらないというほどの充足感を得ていた憲吾も、これには肩を落とさざるを得なかった。

 信号が青に変わる。憲吾は白い線を避けながら歩みを進めた。

「姉のことを知らないのはまだしも、友達の名前を忘れるなんてことがあるのかな?」

「本人がそう言ってたんですから、疑っても仕方がないです。君だって、名前を思い出せない人の一人や二人くらいいるでしょう?」

「いるにはいるけどさ」

 憲吾はどうしても納得がいかず、眉をひそめ頭を掻いた。幽霊だった頃の話からして、十和と共に由吊山に行った人物というのは、彼女に大きな印象を与えているはず。唯一の友達と言っていた人物を、本来忘れるはずがないのである。

 正午を過ぎたこともあってか、飲食店に出入りする人々の往来が見える。空腹を感じることもなく、憲吾は足を進め続ける。

「今後十和ちゃんも協力してくれそうですし、なにより得られたものもあったでしょう?」

「確かにね。まあ暗くなっていても仕方がないか」

「うんうん。憲吾君のそういう単純なところ、非常にグッドです」

「でもなんだか、少しずつ餌を与えられている気分だよ」

 憲吾は大きく天を仰ぎ、誰に向けるでもなくそう言った。

 診療所まであと5分程。今日もきっと歩が待っている。今日こそは将棋幽霊に引導を渡さねばならないのだ。くよくよしている暇はない。憲吾はそう自分に言い聞かせ続けた。


 十和が病室に戻ると、ほぼ同じタイミングで白衣の男が病室に現れた。少し汗をかいた十和を見て、彼は首を傾げる。

「こんにちは。暑そうだね。何をしてたの?」

「ん-? 内緒ぉ。三枝先生こそ何してるの? もう今日の回診は終わったよぉ」

「珍しく上機嫌な二重さんが見えたから、様子を見に来ただけだよ」

 十和は病室に置かれたタオルで汗をふき取り、ベッドに腰掛けた。三枝と呼ばれた医師が、爽やかな笑顔を浮かべて十和に言葉を向ける。

「最近は調子が良さそうだね」

「うん、絶好調ぉ! だから外出許可をくださいな」

「僕にそんな権限はないって、毎回言ってるでしょ?」

「ちぇー」

 十和は口を尖らせた後、顎に手を置いた。目の前の主治医を差しおいて、先程憲吾とした会話が脳を巡る。

 香住咲來先生、知らない。ここの医師だったというけれど、いくら入院期間が長いとはいえ、全ての医師を把握しているわけではないし、これは仕方がない。

 しかし、由吊山に一緒に行った人が思い出せないというのはいかがなものか。 必死に思い出そうとしても、そこに一枚の壁があり、情報を引っぱり出せない。あれほど心に残るエピソードを、忘れてしまうことがありえるのだろうか?

 空調で冷やされたことにより冷静になった十和の頭は、自分自身の記憶力を疑い始める。

「何か考え事?」

 しばらくの間思案に耽っていた十和だったが、朗らかな声で我に返った。十和はぶんぶんと首を振って、満面の笑みを浮かべた。

「ううん。何でもないよぉ。ねえ先生、十和の頭って異状ないよね?」

「異状? 特には無いけど」

「だよねぇ。もうやんなっちゃう」

 十和は頭を落とし大きく息を吐いた。ちらりと携帯電話に目を向ける。記念にと送ってもらった理想の自分の画像が、画面の中でクレープを目の前に半目を浮かべていた。

 いやいや、やんなっちゃってる場合じゃない。数少ない友人が知りたがっている情報を集める事こそが、今できる最善だ。

 十和は一つ息を吐いて、三枝の方を向いた。

「三枝先生は、香住咲來さんっていうお医者さんのこと、知ってる?」

「……うん。知っているよ」

「ほんとに!?」

 十和は跳ねるように立ち上がり、三枝に詰め寄った。一方、三枝は得も言えぬ表情を浮かべ、不自然な間を作っている。十和には表情の意味がわからなかったが、それでも言葉を並べ続ける。

「その先生、今この病院にいる!?」

「いや、もういない」

「違う病院に行っちゃったの?」

「……行ってないよ」

「お医者さん辞めちゃったの?」

 三枝は言葉もなく、静かに首を振った。言葉を待つように、十和の喉が鳴る。

 病床に他の患者の姿は見られない。廊下の方で誰かががやがやと話している声がする。その声がしっかりと聞こえるほどの静寂が、二人の間に流れた。


 三枝は一分ほど黙って、目頭に手を添えた。そうして大きく息を吸い、細くそれを吐き出した。

「香住咲來は……。一年前に亡くなったよ」

 なるほど。あの複雑な表情はそういうことか。十和は力なくベッドに身を預けた。

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