2 多少の雑念は混ざっていますが
憲吾は帰り道を歩いていた。幽霊と出会い、一日講義を受け、情報の整理もままならないまま、彼は足を進める。
彼が住む賃貸まで、大学から歩いて二十分程。心の整理をつけるには不十分な時間だった。陽の落ちかけた住宅街に向け、憲吾は大きく息を吐き出した。
「ああ! また溜息! 幸せが逃げて行っちゃっても知りませんよ」
後ろに張り付く人影が、不満そうに声を上げる。憲吾はちらりとそちらに目を向けた後、今度はわざとらしい溜息を吐いた。
「もう逃げて行ってるんですよ。今更でしょ」
「そんなことはないです。幸せというのは、いつだって近くにいるんですから。ほら、見てください。綺麗な夕陽も私たちを見下ろしてくれていますよ。憲吾君の髪が光を吸い込んでいて、ガーベラみたい。おいしそうです」
「変な感想……。花を食うタイプの妖怪なんですか?」
「幽霊ですよ、ゆ・う・れ・い! こんな妖怪を見たことがありますか?」
「どっちもまともに見たことがないので、何とも言えないです」
幽霊も妖怪も似たようなもんだろうという不満を頭に浮かべながら、憲吾は肩を落とした。
もう大学の敷地から随分と離れている。こんなくだらない会話をしている間にも、着々と安息の六畳半に近づいている。
それなのに、憲吾の後ろにはぴったりと自称幽霊が浮かんでいた。大学から出れば逃げ切れるだろうという浅い考えを浮かべていた彼は、一人分の影をぼうっと眺めた。
「というか、どこまで付いてくるつもりなんですか?」
「幽霊なんですから、どこまでも憑いていきます」
「こわっ。幽霊って普通、思い入れある場所に留まるもんでしょ。なにをのこのこと──」
「初対面の幽霊に普通を求めるのはどうかと思います。火を吐かないドラゴンだっているでしょう? 同じように、自由に動き回れる幽霊だっているんですよ!」
「いや、知りませんけど……」
ころころと表情を変える彼女は、電信柱をするりとすり抜けた。ドラゴンくらい非現実的な彼女は、事実彼から離れることなく浮かび続けている。
本物と見紛うほど輪郭もはっきりしていて、心臓の音まで聞こえそうなほど臨場感があるのに、そこには実体がない。元より霊感がない彼には実感も湧かない。未知にあふれる状況に、彼は無駄に頭を揺らしながらアパートの扉を開いた。
住み始めてから一週間ほどしか経っていないこともあって、居室は物が少なく最低限の生活用品だけが雑多に並べられている。幽霊を背負って帰ってきたという事以外は、特に変わった箇所は見受けられない。
「ほほう。なかなか良い家に住んでるじゃないですか」
「ありがとうございます」
「なんというか、流浪の民っぽい部屋ですね」
憲吾はお世辞ですらなかった彼女の言葉を受け流し、ハンガーに上着を通した後、ベッドに腰掛けた。
相変わらず輪郭がはっきりとした幽霊は、愉快そうに室内を物色している。浮いてさえいなければ、同年代の女性が家に上がってきたようにしか見えない。そんなことを思い浮かべ視線を外し、憲吾は面倒くさそうに口を開いた。
「かすみさん、でしたっけ。これからどうするつもりなんですか?」
彼女はキョトンとした顔を浮かべる。
「かすみさん……? ああ、私ですか」
「えっ」
「いやー私ってば、気が付いたら幽霊になっていまして。生前の記憶みたいなものがまったく無いんです。かすみっていうのもさっき焦って適当につけた名前なので、まだ耳に馴染んでいなくて。なんだったら命名権を差し上げましょうか?」
「そう、なんですね。大丈夫です、要りません」
「じゃあかすみでお願いします。幽霊かすみ! 爆誕です! どろろーん!」
憲吾は目を丸くして彼女を見つめた。今目の前で嬉しそうに両手を前に垂らしているのは、記憶を失くした迷子の幽霊。得体の知れなさの段階が一つ上がる。
彼が惚けた視線を向けていると、かすみはハッとした様子で手を叩く仕草を挟んだ。
「憲吾君は普段から敬語を使っているんですか?」
「いや、仲のいい相手には使いませんけど……。どうしてですか?」
「得体のしれない相手に、ご丁寧に敬語を向けるなんて、珍しいタイプだなあと思って。敬語じゃなくて良いですよ。私たちはお友達なんですから」
「お友達……。というか、かすみさんも敬語じゃないですか」
「私はこの話し方が一番しっくりくるんです。さあ、もっとがしがし距離を詰めてきてください!」
「はあ……」
お友達。あれはあくまで同回生だと思ったから言い放ったわけで、彼女が幽霊だと最初からわかっていればあんな言葉は吐かなかっただろう。そんなこと知ってか知らずか、憲吾の目の前に漂う幽霊は、キラキラとした目を彼に向けている。
ここで突き放す言葉を吐くのは無慈悲だと感じた彼は、わけもわからず頭を掻いた。
「わかった。じゃあなるべく敬語を外して話すようにするよ」
「良いですね。どうせなら表情がもっと柔らかいと良しです!」
かすみは口の端を指で持ち上げて笑って見せる。憲吾も真似して口の端を上げたが、恥ずかしさが勝りすぐにそっぽを向いてしまう。
相手は映像のようなもの。何を照れる必要があるんだ。
大きく息を吸い込んだ後、彼は顔の熱を冷ましながらもう一度彼女のほうに目を向けた。
「……改めて。幽霊かすみさんはこれからどうするつもり? 幽霊が見えたことって今までないから、どうしていいのかがわからないし、この家に人を連れてくるのも初めてで落ち着かないんだけど」
「ほほうなるほど。なんだか憲吾君はすごくからかいたくなる性格をしていますね。非常に私好みでグッドです!」
かすみはくすくすという笑みを零し、一つ咳払いを挟んだ。
「失礼。話が逸れました。それに関して言えば、私も人に視認されたことが初めてで、どうしていいのかがわかっていない、というのが本音です。マジでなんで見えるんですか? こわっ」
「こっちの台詞だよ」
かすみの言葉を受け、憲吾はゆっくりと窓の外を眺めた。光を遮る隣のマンションが見えるだけで、いつもと変わった様子など見られなかった。
憲吾自身、言葉通り人生で一度も幽霊と遭遇していない。なんなら心霊番組にいちゃもんをつけていたくらいのものだ。
しかし今日に関しては彼女のことが見えてしまった。あの講義室で彼だけに。何か因果がないものかと考えてみるが、やはり憲吾の頭には思い当たる節の一つも浮かばなかった。
「なんで俺に付いてきたの?」
「見つけてもらえたことが嬉しくて」
「それだけ?」
「多少の雑念は混ざっていますが、その感情がほとんどです」
「呪ってやろう、とかそういうのではなく?」
「そもそも私にそんな力はありません。ただただ浮かんでいるだけの迷子幽霊かすみん! 本当に大学を離れてよかったのかも、なんであそこにいたのかもわかっていない、ちんぷんかんぷんゴーストなんです!」
どうしたものかと、憲吾は頭を抱える。せめて自分にだけに見える理由さえわかれば手の打ちようがあるのに、彼女からそんな要素が出てくる様子はない。
ただただ浮かんでいるにしても、彼には見えてしまっている。そして、この世のものではない何かが近くを漂っている状況は、憲吾が思い浮かべていた理想の大学生生活とは大きくかけ離れている。
解決方法を探すため、憲吾が携帯電話を手に取ったところで、かすみから声が上がった。
「最初から思ってたんですけど、随分と落ち着いていますね」
「えっ?」
「こういうのってもっと驚いたり怖がったりするもんじゃないですか? 私が嘘をついている可能性もあるわけですし」
「たしかに……」
本人から告げられ、憲吾はようやく自身の落ち着きに気が付いた。奇々怪々に出会った割に、彼は落ち着きすぎていた。もちろんこのような状況に慣れているわけでもない。
……そもそも幽霊と話をしている気がしないしな。憲吾は穏やかな笑みを浮かべて言葉を返した。
「かすみさんがもっと幽霊っぽかったら、そういう反応も出来たんだけどね」
「なんと。私ってそんなに幽霊っぽくないですか? こんなにも浮いてるのに?」
「浮いてはいるけど、それ以外は普通に人だし、だからこそ話しかけたし、今も緊張してるし。怖がるタイミングを完全に逃したから、クールぶるしかなくて」
「なるほど。ユニークな感性! これも私好みでグッドです!」
「どうも」
憲吾は冷蔵庫に向かい、冷えた炭酸飲料を手に取った。幽霊とはいえ、姿形の整った女性が部屋にいるという事実が、彼の心拍数をさらに上げた。
ひょっとすると、これは自身の孤独が生み出した全肯定型メンタルフレンドというやつなのではないだろうか。
そこまで考えた脳を左右に振り、しっかり喉を潤したあと、彼はベッドへと戻る。
「とはいえ、迷子の幽霊さんを住まわすほどの余裕もないし、なにか方法を考えないとなあ」
彼がぽつりとそう零した後、その上にかすみが言葉を置いた。
「話も一しきり落ち着きましたし、満を持して憲吾君にお願いがあるんです」
かすみはそう言ってその場に腰を下し姿勢を正した。クッションでも出そうかと動き出した憲吾だったが、それが無駄な行動だったということを思い出し、誤魔化すように身体を伸ばす。
「内容によるけど……」
「私を成仏させてほしいんです!」
意外なお願いに、憲吾はごくりと喉を鳴らした。
「成仏? かすみさんは成仏したいの?」
「もちろん。世の摂理に反した存在であるという自覚はありますから。今や成仏することが私のレゾンデートル。ん? 死んだ私が言うのは変か……」
「変かどうかもわかんないよ」
幽霊というのは、もう少しこの世に執着しているものじゃないのか。憲吾が思い描いていた幽霊の像から、また少し彼女のイメージがズレる。
成仏を願っているのであれば大いに歓迎ではあるが、そもそも彼は彼女の願いを叶える手段を持ち合わせていない。憲吾は腕を組んで首を傾けた。
「たまたまかすみさんが見えるだけで、俺には霊的な特殊能力はないよ。成仏させろって言われてもなあ」
「そこは出会いから今までで理解しました。その、なんというか、お手伝いをしてほしいんです」
「俺に手伝えることってあるの?」
「もちろん! 幽霊って普通、未練があるからこの世に留まるものですよね」
当然のことを話すかの如く、かすみは綺麗に人差し指を立てた。ほんの数分で憲吾の中の幽霊に対する定義が崩される。
「さっき幽霊に普通を求めるのはどうかと思うって言ってなかったっけ?」
「あんなものただの詭弁ですよ」
かすみはけろっとそう言ったあと、憲吾を真似て腕を組んで言葉を続けた。
「だから多分、未練、要は私がこの世に留まるに至った後悔を晴らせば、成仏できるんじゃないかと思うんです」
「ってことは、その後悔を晴らす手伝いをしてほしいってこと?」
かすみは大きく頭を縦に振った。
「さっき話した通り、私には生前の記憶がありません。気が付いたらあの大学にいて、誰にも見つけられないまま漂っていて、自分が何者でなぜ死んだのかも、この姿形が死んだときと同じものかもわかっていない。だからおそらく、私自身の過去を見つけ出すだけでも途方もない道のりだと思います」
「それは確かに難しい話だね……」
記憶喪失な幽霊の自分探しに付き合う。年齢も性別も、生活していた場所だって定かではない。膨大な情報から不確定な答えを探し出すようなものだ。
「でも、今日ようやく私のことが見える相手が見つかった。……この運命とも呼べる幸運を、みすみす見逃したくないんです。どうか、お願いします」
かすみは床に額を付けるほど頭を深く落とした。小さくまとまった幽霊は、霞むことなく憲吾の目にははっきりと見えている。
言いたいことは理解できる。しかし見つかるわけがない。問題として成り立っていない物に解を見出す手伝いなんて、本来であればまっぴらごめんだ。憲吾はベッドから身を下ろし、かすみの正面に座った。
「俺が手伝わないって言ったら、かすみさんはどうするの?」
かすみは顔を上げ眉を落とした。彼女は現れてから初めて表情を暗くする。
「そうですね。諦めてまた私のことが見える人を探すしかありません。この身体じゃ、調べるにも限度がありますから」
「俺が音を上げるまで付きまとうって手段もあるわけじゃん。いや、もちろん勘弁してほしいんだけど、そういうことはしようと思わないの?」
「うーん」
答えを探すようにかすみが視線を泳がせた。色気のない六畳半は、殺風景なのにどこかこだわりのようなものが感じられて、一目で一人暮らしを始めたばかりの人間が住んでいるということを伝えてくる。
憲吾とかすみの視線がぶつかる。照れた憲吾が視線を外すと、かすみは嬉しそうに笑った。
「憲吾君がどうしようもなく嫌な奴だったら、そういうことも考えちゃったかもしれません。でも、君はこんなあやふやな存在である私の話を落ち着いて聞いてくれたし、ちゃんと個人として見てくれました。意外とそういうのって、高ポイントなんですよ。そんな君に無理を強いるなんて選択肢、元よりありません」
「そっか」
憲吾は仄かに浮かんだ笑みを隠しながら頭を掻いた。彼女の言葉をこぼさないよう脳で繰り返す。
かすみがもっと嫌な幽霊だったら、憲吾もすんなりと彼女のことを邪険に出来ただろう。しかし、彼女は自身の行く先より憲吾のことを慮った言葉を吐いた。自ら気を使うなと言っていたくせに。
わずか数分の間、憲吾は小さく身を竦める彼女を見て察してしまったのだ。自分が誰かもわからず、誰の目に触れることもない中、ようやく出会えた人間に期待を寄せる彼女の気持ちを。
きっと孤独で寂しくて、頼る相手もいなくて、だからこそ見つけてもらえた事が嬉しかっただけで彼女はこんなところまで憑いてきてしまったのだろう。
段ボールに捨てられた子犬みたいだな。憲吾は溜息を一つ挟み、まっすぐかすみのほうを見つめる。穏やかな彼女の瞳を、今度はそらすことなく見据える。
「わかった。仕方ないから協力するよ。成仏のお手伝いとやらに」
「えっ……?」
かすみの顔つきが困惑に変わる。
「かなり敗戦ムードだったんですけど……」
「断って悪戯されるのも困るし」
「だから! そんなことしないって言ってるじゃないですか!」
食って掛かるかすみに、憲吾は笑顔を返した。憲吾のことをからかいがいがあると称していた彼女だったが、ひょっとするとその言葉は彼女にこそ相応しいのかもしれない。
「冗談だよ。かすみさんの気持ちは──全部理解できたかどうかはわかんないけど、理解する努力はしたいなって思えた。だから手伝う。まあ、大学でできた唯一の友達だし」
「友達……。はい、はい! 友達です!」
かすみは惚けた後、満開の笑顔を咲かせる。
「本当にありがとう! 私、頑張って成仏しますね!」
頑張って成仏するなんて不可解な台詞を聞く日が来るなんて。彼女ははじけるように飛び上がった後、何度も憲吾の身体を通り抜けて回って見せた。現実と非現実が、彼の頭の中で往復し続ける。
やっぱり本当は全部夢で、彼女は自分が生み出した妄想なのかもしれない。そんなことを考えながら、彼はぽつりと言葉を漏らす。
「あ……。嬉しいのはわかるけど、脳の処理が追いつかなくなるから、突拍子もない行動は控えて──」
「無理です。憲吾君が慣れてください。理解する努力はしたいな……キリッ! でしょう?」
「この迷子幽霊め……」
「ノンノン。かすみです、か・す・み・ん。今思えば超可愛い名前つけちゃいました。自分の才能が怖いです」
溜まった想いが溢れだしたように、かすみはけらけらと言葉を並べ続けた。日が落ちて薄暗くなった部屋に、困惑する憲吾の影がじんわりと溶けていく。
泣き落された形になったが、やはり幽霊を受け入れるなんて失敗だったのかもしれないと、憲吾は思った。
夜になれど朝になれど、かすみが部屋からいなくなることはなかった。