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春霞の足跡  作者: 豆内もず
3話 ペリヘリオン

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18/30

18 成仏に興味は無いですか!?

「思ったより中は綺麗なままだね」

 部屋の隅に飾られた造花を見て、憲吾はそう言った。

 窓の先は待合室だったようで、部屋にはいくつかの長椅子と、受付と思われるカウンターが配置されていた。

 天候のせいもあり薄暗いが、雑誌は乱れなく本棚に収まっているし、荒らされた形跡も無ければ埃っぽさもない。壁にかかった絵画がわずかに斜めを向いているくらいで、特段変わった様子も見られない。

 憲吾は辺りの様子を窺い、顎を手に置いた。

 昨日まで普通に診療を行っていましたと言われたら、それを信じてしまいそうだ。こんなところに幽霊がいるんだろうか?

 かすみも同様の違和感を覚えたのか、辺りをくるりと見渡した後、ポツリと言葉をこぼした。

「廃業したのは四年前と言っていましたよね?」

「うん。そうだよ」

「四年も放置されていた場所が、当時の姿を維持しているものなのでしょうか?」

 雨音が鳴る薄暗い空間に、鈴のような声が響く。かすみの言葉に憲吾は首を傾げた。

 誰かが継続的に管理しているのかと思ったが、草木は伸び切っていたし、外観には明らかな劣化が見られたので、その筋は薄いと思われる。

 そもそも内観が四年でどれほど劣化するのかが憲吾には想像ができず、こんな物だと思い込めばなんの反論も浮かばない。

 しばらく考え込んでいた憲吾であったが、適切な道筋が見出せず肩を落とした。

「そこら辺も含めて調査してみようか。まずは幽霊を探さないと」

 憲吾は思考を振り払うように大きく息を吐き出す。勢いよく振り返った彼の足が、長椅子の脚とぶつかり、ガタンと大きく音を立てた。

「な、なんですか⁉︎」

「ごめん。椅子を蹴っちゃった」

 天井に到達するのではないかというほど身を浮かせたかすみが、そのまま宙で足をバタバタと動かした。

「幽霊が出てきたのかと思ってびっくりしたじゃないですか! 驚きのあまり成仏するところでしたよ!」

 それが出来ないから、わざわざこんなところに来ているわけだが。憲吾はぶつけた踵をさすった。

「その方法を探しに来たんだから、大成功じゃん」

 ピタリと動きを止めたかすみは、じっとりとした目を憲吾に向ける。

「こんなにも不本意な形で成仏するわけがないでしょう?」

「いやいや、言い出したのはかすみさんだからね」

「とびっきりの幽霊ジョークに、マジレスをするなんてひどいです! そもそも憲吾君が無駄に大きな音を立てたのが悪いんですからね!」

「はいはい」

 憲吾は適当に相槌を返した後、椅子を元の位置に戻して大きく息を吐いた。

 かすみの振る舞いに加え、いくつかのハズレ心霊スポットを巡ったせいか、憲吾の恐怖感覚は麻痺していた。薄暗い廃診療所に入った程度では、心拍数が上がることもない。

 ──ここもハズレっぽいな。

 憲吾は暢気にそんなことを考えながら、あくびを一つ挟んだ。

 しかし、兆しが訪れたのはその直後だった。


「騒がしい客人だな。不法侵入くらい、慎ましくしたらどうだ」

 建物の奥から聞こえてきた声に、憲吾とかすみは同時に身を跳ねさせた。止まりそうなほど縮こまった心臓が、大急ぎで驚きを訴えてくる。

 人気のない診療所に差し込まれた、聞き間違いと仮定することも出来ないほど明瞭な若い女の声。

 油断はもちろんあったが、それを抜きにしてもきっと驚いてしまっていただろう。

 憲吾とかすみは顔を見合わせ、互いのタイミングを合わせる様に肩でリズムを取り、ゆっくりと声の元へと視線を向けた。

 建物の奥、おそらく先は診察室だろう。その扉の前に、先程までは無かった人影があった。息をする間もなく、憲吾はその姿を凝視する。

 齢は二十歳くらい。若草色の着物と紺の袴を身に着けた、黒髪ショートボブの女性が、口元を扇子で隠しながら怪しげに笑っている。

 扉が開く音なんてしなかった。だとしたら、彼女はどういう動線を辿ってあそこに立っているんだ?

 憲吾が抱いたそんな疑問は、数秒後に解消される。

「僕に用があるんだろう? 二人揃って素っ頓狂な顔をしていないで、奥に来ると良い」

 彼女は言葉を残し、扉をすり抜けて奥へと消えていった。この一挙動が、彼女が異質な者であるという事実を決定づける。

 憲吾は目を擦り、ごくりとつばを飲み込んだ後、かすみの方を向いた。

「ひ、人がいたね」

「見ればわかります」

「扉をすり抜けたよ」

「今更驚くことですか? 私で見慣れているでしょうに」

「ってことは……」

「私の勘が正しかったということですね」

 かすみは腕を組んであっさりとそう返す。勝ち誇ったような彼女の顔つきが、憲吾の緊張感を溶かした。さっきまで一緒に驚いていたくせに、という言葉を飲み込んだ憲吾は、扉の前へと足を進めた。

 丸い形をしたドアノブは少し埃っぽくて、開閉の形跡もないし、すり抜けたように見せるトリックの類も見当たらない。たまたま出会したマジシャンという展開は期待できそうに無い。そもそもかすみの存在を視認していたし。

 だとしたらあれは、もう幽霊としか言いようがないじゃないか。

 ドアノブを握る。異質な存在から直々に手招きをされているという想定外の出来事が、思考に引っかかり、汗が役割を思い出したように噴き出してくる。

 憲吾は目線だけをかすみに向けた。

「一応確認しておくけど、かすみさん一人で先に行くという選択肢は──」

「もちろん無しです! さあ行きましょう!」

「……呪われそうになったらちゃんと助けてね」

 かすみの目の色が驚きから興味へと変わっている気配を感じ、憲吾は息を吐いて右手に力を込めた。


 扉を開くと、八畳ほどの広さの診察室が姿を現した。

 数冊の雑誌だけが置かれたデスク、淡い色の診察台、空っぽの書庫。備品が少ないせいか、診察室の骨組みだけが取り残されているように見える。

 同じ建物内であるはずなのに、診察室は待合室よりもどことなく不気味な雰囲気があった。

 いやいやそれよりもなによりも。

 憲吾は時間をかけて部屋を見渡したあと、あえて視界に入れないようにしていた影に目を向ける。

 憲吾の目が捉えたのは、さながら医師のような態度で椅子に腰掛ける先ほどの女性の姿だった。和テイストな服装なだけあって、幽霊としてはかすみよりも違和感はないが、診察室の景観としては非常にミスマッチである。

 そんな彼女は瞳を閉じ、憲吾たちの言葉を待つように鎮座している。

 憲吾の頭には、中学時代の職員室の光景が浮かんだ。悪いことをして呼び出されて、こちらが罪を自白するまでだんまりを決め込む教師の威圧感。それと同等の威圧感が彼に纏わりついた。

 無言の間が続き、憲吾はおずおずと口を開く。

「お邪魔してます」

 軽く会釈を挟み、憲吾はそう言った。目を見開いたショートボブが、笑い声を上げる。

「ここは僕の所有地ではないから、その挨拶は不適切だよ」

 彼女はようやく力感なく浮かび上がり、憲吾の目の前まで身を寄せる。憲吾は慌てて身を引いた。閉じた扇子の先が、距離を詰める様に向けられる。

「その様子だと、本当に僕のことが見えているようだね」

「ち、近いです。そんなに近づかなくてもちゃんと見えてますから」

「くくっ。悪いね。距離感を気にする習慣が消え失せていたよ」

 彼女は含みのある笑みを返し、再び椅子に腰掛けた。

 距離感うんぬんよりも、音もなく浮いて近づいてくるその挙動がホラーなわけなのだが。物理に干渉しない行動の一つ一つが、憲吾から現実感を奪った。

 憲吾が探るような視線を向けていると、彼女は勢いよく扇子を開いた。

「君たち、名前は?」

 いきなり現れた怪しい人物に、果たして名乗って良いものなのか。憲吾はかすみの方を向いた。お先にどうぞと言わんばかりに会釈を返され、彼は渋々挨拶を返す。

「古沢憲吾です」

「かすみでーす」

「憲吾にかすみね。僕は歩。よろしく」

 歩と名乗った彼女は、あっさりと自己紹介を流した後、ぱたぱたと扇子を仰ぎ始めた。

「で? 何の用なんだい? どうやら僕を退治しに来たってわけではなさそうだけれど」

「あ、はい。えっと、その前に」

 憲吾は手のひらを彼女に向けた。名前よりも何よりも、まずはこの確認をしなければ話を進められない。

「幽霊さんってことで間違いないですよね?」

「後悔に縛られた実体を持たない存在、という定義で言うなら間違いないよ」

「……なるほど」

「おそらくそこの彼女と同じさ」

 彼女は表情を崩さないまま、扇子の先をかすみに向けた。二人の視線を受け、かすみは照れくさそうに頭を掻いた。

 何を恥ずかしがっているんだこの幽霊は。余計な感想に遮られながらも、憲吾の脳はようやく状況を理解し始める。

 幽霊だ! 幽霊がいるぞ! 現実に感覚が追いつき、憲吾は途端に叫びたくなった。目の前にいるのは間違いなく幽霊で、十和が消えてから初めて見えた、解決への糸口。どうやら十和同様、話し合うことも出来そうだ。

 真っ黒い影で記憶もなくて、喋ることもままならないような幽霊じゃなくてよかった。ようやく訪れた好機、逃してなるものか。気持ちが高ぶった憲吾は、鼻息荒く言葉を放る。

「い、いきなりですけど、成仏に興味は無いですか!?」

 手狭な診察室に憲吾の声が響く。空気が質量を持ち始めたように、重厚感のある無音が環境を支配した。

 憲吾の勢いを受け流す様に、歩は涼しい顔を浮かべ、口を開いた。

「なんだいその、怪しいセールスみたいな導入は」

「えっ」

「焦らなくても急に消えたりはしないさ。順序立ててゆっくりと説明してくれないか?」

 歩がゆっくりと扇子を閉じると、憲吾は火のごとく顔を赤らめて、頭を落とした。

 熱量というのは、必ずしも事態を良い方向に導くとは限らない。ああ、急いでしまった。一旦外の空気を吸いたい。

 俯き押し黙る憲吾を見て、かすみは溜息を吐いた。呆れとからかいを混ぜた表情が、ゆっくりとデスクの方を向いた。

「すいません。良い子なんですけど、どうしてもパッションが先行してしまう癖がありまして。私が説明をしましょう」

 ようやく目的の存在を発見できたのだ。この気持ちの高ぶりを、誰が責められようか。

 憲吾は口を尖らせながらも、風の通りが良い近くのパイプ椅子に腰かけた。

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