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春霞の足跡  作者: 豆内もず
3話 ペリヘリオン

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17/30

17 駄目ですよ普通に

「憲吾君、雨森診療所を知っていますか?」

 十和が成仏してから一か月が経過した、六月の一週目。水たまりを躱しながら愉快に足を進めるかすみが、ひらめいたように尋ねた。

「あまもり診療所? 知らない」

 憲吾は淡々とそう返した。雨を大量に抱え込んだ黒い雲が、時間間隔を狂わせるほど厚く空を覆っている。

 あまもり診療所。梅雨には行きたくない名前の診療所だな。憲吾は暢気にそんなことを思い浮かべ、肩に付いた雨粒を払った。

「そうですか。さっき校内をふらふらしているときに耳に入ったんですよ。そこで心霊を見たと」

「へえ。リストの中には無かった気がするけど、範囲外なのかな?」

「具体的には分かりませんが、話の様子からしておそらくこの近辺だと思いますよ。気分転換に行ってみませんか?」

 かすみは小首を傾げて足を止めた。点滅していた歩行者信号が赤に色を変える。憲吾はかすみに合わせ足を止めた。


 十和と別れてからというもの、彼らの過去探訪は行き詰っていた。ドクターが作成した近場の心霊スポットリストを元に、いくつかの曰く付きスポットを巡ったが、かすみの情報が見つかるどころか幽霊の一人も見えていない。

 一箇所目として由吊山を引いたのは、かなりの幸運だったのかもしれない。

 憲吾は携帯電話を取り出しリストを眺める。記憶の通り「あまもり診療所」という文字は見つからない。信号が変わると同時に、憲吾はゆっくりと歩き始めた。

「やっぱりリストにはないね。聞き間違いじゃないの?」

 かすみはふわりと浮かんで憲吾の正面を陣取り、人差し指を上げた。

「ドクターのリストが全てというわけではないでしょう? なんだか大きなヒントが眠っていそうな予感がするんですよ。さあ、私とドクター、どちらを信用するんですか?」

「どっちもそこそこ信用できないなあ」

 一発、二発。かすみの拳が憲吾をすり抜けた。

「わかりました。次は法廷でお会いしましょう」

「冗談だよ。沸点が低すぎでしょ。幽霊さんと司法で争うつもりはないから」

 憲吾は拳を向け続けるかすみを手で払い、建物の陰で足を止めた。大きな塊になった雨粒が、ぼつぼつと傘を殴る。

「あまもり診療所ね。調べてみようか」

 携帯電話を開き検索を掛ける。からかいの言葉を返したものの、ドクターのリストに手詰まりを感じていた憲吾は、かすみの言葉に光を見出していた。どうせ色々な場所を巡るのだから、ご機嫌取りを兼ねてかすみに乗っておいても損はないだろう。

 検索を始めて僅か数秒で、めぼしい建物が浮かび上がった。

 雨森診療所。現在地からおおよそ十分程度の場所にある医療施設。添えられた画像を見るに、おそらく小規模な町医者といったところだろうか。画面をスクロールさせ、憲吾は首を傾げた。

「あった。って四年前に閉業してんじゃん」

「場所はどの辺りですか?」

「結構近いね。歩いて十分くらい」

 憲吾は画面いっぱいに地図を広げ、それをかすみに向けた。傍から見れば虚空に携帯電話を向ける怪しい人影と思われるだろう。しかしながら、幽霊を携えて数か月の憲吾にとっては、もはやそんなことは気にする事象にもならない。

 かすみは画面を凝視した後、満足そうに首を縦に振った。

「廃業した診療所。心霊の目撃情報。うんうん。いいですね。完璧なシチュエーションです! 今すぐ行きましょう!」

「今すぐ? せめて雨が降っていない日にしようよ」

「憲吾君は梅雨を知らないんですか? 雨上がりを待っていては、季節が変わってしまいますよ」

 勝ち誇った顔の幽霊は、ふんふんと鼻息を荒くして憲吾を手招いた。掛かり始めたかすみのエンジンに感化されてように、雨脚が弱まってくる。

 天候までもが幽霊の味方というわけか。なんだかおかしくなって、憲吾は小さく笑みを零した。

「わかったよ。行こうか」

「さあ、診療所にはどんな幽霊さんがいるんでしょうか? 楽しみです」

 かすみは愉快に身を跳ねさせて地図の差す先へと進み始める。

 こういった時のかすみの勘は当たる。まるでそうなるべく道筋があらかじめ見えているかのように。思い付きのようなタイミングであるのが非常に迷惑ではあるが。

 憲吾は水たまりを踏みつけ、促されるまま診療所へと向かった。

 


 足を進めること約十分。ぽつりぽつりと住宅が並ぶ中にその診療所はあった。

 典型的な町医者というくらいの規模の建物は、作りこそ古さはないものの、明らかに人の手から離れているという空気を放っている。入口はシャッターで封鎖されており、開く気配もない。四年という歳月の影響か劣化が見られる外壁には、『雨森診療所』という文字がはっきりと残っていた。

 憲吾は所々穴の開いた駐輪場の屋根に潜り込み、傘を閉じた。

「ボロボロだなぁ。これって解体とかされないの?」

「買い手が見つかっていないんでしょう。こういった廃墟は解体に費用がかかるので、放置されている場合もあるんですよ」

「廃墟ってほど古くはなさそうだけど」

「誰かが管理しているのかもしれませんね」

 憲吾は建物の外壁をゆっくりと撫でた。

 今にも倒壊しそうだという様子もないし、少し改装すれば商いを再開できそうな立地でもある。リノベーションカフェのコンセプトとして、こういった建物に目が付けられてもおかしくない。

 しかしながら、四年もの間、買い手も見つからず解体も行われていないこの建物は、ひょっとするとそれだけでもう曰く付きなのかもしれない。

 少しの間物思いにふけっていると、周囲をうろうろと浮遊していたかすみから言葉が飛んでくる。

「憲吾くーん。こっちに来てください」

 視線を向けると、建物の影からこちらを手招きするかすみの姿が見えた。


 穴を抜けて落ちる雨を避けながら、憲吾は建物の側面へと向かう。側面の通路は人の侵入を拒むように草木が伸びきっていた。

 彼は草木を踏みしだきながら、悪路などもろともしない幽霊に恨み節を向ける。

「ああもう。いいなあ浮いてるって!」

「実体があるからこそ出来ることもあるんですから言いっこなしですよ。それより見てください」

 憲吾はかすみの指先に目を向けた。薄黄色の外壁に、身を丸めれば大人一人が通れそうなサイズ感の引き違い窓。鍵が開いているのか、僅かに空いた隙間から診療所内の様子が見て取れた。

 憲吾はおお、と声を上げた。

「空いてるね」

「ええ。ここから入りましょう。ガラスに亀裂が入っているので、慎重に開けてくださいね」

 憲吾は窓まで足を進め、胸の位置にある取っ手に手をかけゆっくりと窓を開いた。多少の引っ掛かりはあったものの、驚くほどあっさりと侵入経路が出来上がってしまう。

 傘を地面に置き外壁に足を掛けたところで、憲吾はふと我に返った。

「あれ? 勝手に入っていいのかな?」

「駄目ですよ普通に」

「えっ」

 淡々とした言葉に、憲吾は目を丸くする。しかしかすみはお構いなしと言わんばかりに胸を張った。

「廃業しているとは言え、勝手に入れば何かしらの罪に問われます」

「だよね。じゃあ入れな——」

「でも仕方がないですよ。せっかくここまで来たんですから、入らなきゃ損です!」

「法に触れる理由として、せっかくは弱すぎじゃない?」

「私の勘が告げているのです。このタイミングを逃すことは非常にバッドだと! 次来た時に鍵が締まっていては困りますから」

 彼女の論拠が仕方がない事象とは思えず、憲吾は足を滑らせそうになった。水気を含んだスニーカーがキュッという音を立てる。

 徒歩十分の寄り道は、せっかくという言葉を使うほどの労力ではないし、調査をするなら管理者の許可を取ってから出直しても遅くはないはずだ。

 しかしながら、このモードに入ったかすみにその程度の抵抗が意味を成さないことも、憲吾は理解していた。

 返ってくる答えはわかっていたが、憲吾は一旦窓枠から手を放し言葉を吐き出した。

「じゃあかすみさん一人で見に行ってきてよ」

「嫌ですよ。本当にお化けがいるなら、二人で味わうほうが楽しいじゃないですか!」

 ほらやっぱり。憲吾はわざとらしく肩を深く落とした。

 どの心霊スポットに行こうが、かすみは尖兵として行動することを良しとしない。そして、誘えば憲吾が諦めて着いてくるということも重々承知しているのだ。

 しかし、こういった状況下において憲吾はどちらかというと良い気分になる。彼女は成仏のために動いているだけであるし、勘が働いたのであれば憲吾を無視して調査を進めることだってできるだろう。同行を求めてくる行為はおそらくその道中の娯楽に過ぎない。

 だとしても、必要とされるというのは正直誇らしい。わざとらしいお小言を返して、反論の余地を自ら無くしてしまうほどに。

 ——幽霊に振り回されて喜ぶなんて、とんでも性癖だな俺は。

 肩にぽたりと大粒の雨が落ちてくる。憲吾は自嘲の笑みを浮かべ、再び窓枠に手をかけた。

「捕まったら幽霊に脅されたって言ってやろう」

「信憑性を上げるためにも、頑張って幽霊さんを見つけないといけませんね」

 こそばゆい笑い声を背に受け、憲吾は雨森診療所へ足を踏み入れた。

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