16 嫌なことを言っていい?
午前0時を回っても、由吊山には空気を読んだかのように人が現れなかった。
静寂に乗じて、憲吾は呆然と十和の残影を見つめ続けていた。薄く砂糖をまぶしたような星空、もう用が無いはずの展望台。それなのに、彼の足は根が生えたようにその場から動かない。
視界を横切った虫を目で追いながら、彼は思い出したように口を開く。
「消えちゃったね」
「ええ……。願わくば、私も最期はあんな風でありたいです」
「そっか。そういえばかすみさんも幽霊だったね」
「何をどうやったらその情報を忘れられるんですか?」
「冗談だよ」
ばさりと言葉を切られた憲吾は、かくんと頭を落とし薄く息を漏らした。
実体のない存在がこの世から消えただけ。相手が未練をベースとした存在であった以上、この結末は予定調和以外の何物でもないはずなのだ。
それでも、くだらない冗談を吐かなければ気が休まらないほど、憲吾の心はざわついていた。
憲吾はその場から動こうともせず一点を眺め続ける。そんな彼の沈みを察したのか、かすみはふわりと浮かび鉄柵に腰掛けた。
「十和ちゃんはきっと、私に縁のある人物でした。関係性はわかりませんが」
「そうなの?」
「はい。なんとなくですけれど、間違いないです。直感がそう告げています」
「なにそれ。変なの」
「兎にも角にも、無駄足ではなかったようですね」
なんとなく、間違いない。なんとも言えないちぐはぐな言葉に、憲吾は深い笑みを返した。
この出会いにも意味があったという、彼女なりの配慮なのだろうか。はたまた記憶に旗が立ったのだろうか。幽霊の真意などわかるわけがない。
それでも彼女の口調から、今後も心霊スポット巡りが継続されるであろうことだけは、憲吾にも理解できた。
彼は笑みを浮かべたまま、内から湧き上がる何かを止める為、再び星空を見上げた。
「覚悟はしてたし、会って数日の関係だけど、それでも別れは辛いね」
「辛くない別れの方が少ないですよ」
「直球だなぁ。……でもまあ、成仏できたのであれば大団円なんだろうね」
「それならせめて大団円だという顔をしてください」
「返す言葉もないよ」
憲吾は自分自身を説得するように言葉を並べた。大団円という言葉だけが、月の光を背景にぼんやりと浮かんでいるようだった。
彼の弱弱しい笑顔を見て、かすみは吐息を多く含んだ声を返した。
「何か気になることがあるならば、思いの丈を吐き出してみてはいかがですか?」
「思いの丈?」
「成仏を目の当たりにして、残っているのは清々しさだけではないでしょう? 吐き出し足りないのであれば、お話を聞くくらいはしますよ」
憲吾はかすみに目を向ける。かすみは憲吾の方を向くでもなく、ただただ遠くの方を眺めていた。
憲吾には幽霊の心の内は見抜けない。さらっと成仏していった十和の心の内さえも読めなかったほどなのだから。しかし、幽霊には憲吾の心が見えているのかもしれない。もしくは、彼自身の挙動がわかりやすすぎるのか。
しばらくの静寂の後、ぼんやりと浮かぶもやもやとした感情を、憲吾の口が吐き出し始めた。
「もっとなにかしてあげられたんじゃないかなと思ってさ」
「十和ちゃんにですか?」
「うん。十和ちゃんからしたら、俺はようやく現れた見える人間だったわけじゃん? その割に、何もしてあげられなかったなって。なんでよりによって、何の力もない俺にだけ見えたんだろう。歯痒いよ」
憲吾が吐き出した言葉を掬うように、かすみはゆっくりと息を吸い込んで、星空の方に手のひらを向けた。
かすみの顔は依然として穏やかで、それが憲吾の心に僅かばかりの安らぎを与える。
「気負い過ぎ、と言っておきましょう。過程や動機がどうであれ、笑顔で成仏出来たこと以上の結末なんてありえませんから」
「そういうものなのかな?」
「そういうものですよ。クレープを見て目を輝かせていた十和ちゃんを見たでしょう? 何もしてあげられなかったなんて言葉は、そもそも不要です。柵の向こうに放り投げちゃってください。……とはいえ、そこを気にしてしまうのが君の優しさなのかもしれませんが」
「優しくなんかないよ」
かすみの言葉を飲み込んだ憲吾は、勢いよく息を吐いた後、目元にグッと力を込めた。十和の去り際の笑顔が、脳に張り付いたように浮かんでくる。
かすみにしても十和にしても、憲吾にだけ見える理由はわかっていない。この立ち位置が誰であっても、十和の未練は晴らされ成仏出来ていただろう。
だからこそ憲吾はこの別れを咀嚼しきることが出来ていない。何かをやり残したのではないかという感情が、しこりとして涙に栓をしている。
話を聞いているのは幽霊だけ。ざらついた感傷を取り除くために、もう少し思いを吐き出してもいいのかもしれない。憲吾は星を撫でる様に腕を伸ばした。
「嫌なことを言っていい?」
「もちろん。聞きたいです」
憲吾は大きく息を吸い込んで、ゆっくりとそれを吐き出した。
「十和ちゃんが成仏して安心した半面、最初から見えなければ悲しい気持ちを味わわずに済んだんじゃないかと思った自分もいるんだ。それに、俺に会わなければ、十和ちゃんはもっとこの世にいられたかもしれない」
「出会わなければ良かった、いうことですか?」
「……ごめん」
かすみの問いかけに対し、憲吾は小さく謝罪だけを漏らし口を噤んだ。
そもそも見えなければ別れることもなかったし、今後起こりうる別れを憂う必要もない。それが事実だとしても、成仏を目標にしているかすみに対して、こんなことを伝えるべきでは無かったのかもしれない。
それでも、出てきた言葉が再び胸の内に戻ることはない。憲吾は困ったように笑った。
苦し紛れの笑顔を見て、かすみは表情を更に穏やかにする。
「謝ることはありません。君からすればもらい事故のような出会いなんですから、文句の一つも言いたくなるでしょう。言ってしかるべきです」
かすみはくすくすという笑い声を挟みながら言葉を続けた。
「それでも私は、憲吾君に出会えたことを運命だと思っています。そうやって悩んでくれることも含めて、感謝してもしきれないくらいです」
「運命って……。そんな大仰な」
「私たち幽霊からすれば、存在を肯定してくれる憲吾君のような存在は、そんな言葉を使いたくなるほど特別なんですよ。きっと、十和ちゃんにとってもそうだったはずです」
「……だといいね」
「あー! 信じていませんね!? せっかく良いことを言ったのに!」
言葉が嬉しくてすかしただけで、信じていないわけではない。憲吾は上がりそうな口の端をきゅっと結んだ。
それを肯定の仕草と誤認したのか、かすみは大きな溜息と共に口を尖らせた。
「最初から見えなければ……。ごもっともです。その意見を否定するつもりはありませんが、それでもこの出会いが悲しみ以外を生み出さないとは思いません。見えたことで救われた幽霊がいたことも、どうか忘れないでください。笑顔で成仏した十和ちゃんのためにも」
流れる言葉に合わせ、かすみの表情が再び柔らかくなった。展望台は風もなく、少し湿った空気がその場に留まっている。
言葉を咀嚼しきった憲吾の肩から、ふわりと力が抜ける。動かなかった足が、思い出したように位置を変えた。
そうか、小難しいことを言って、結局は自分は気持ちの逃げ道を探していたんだなと、憲吾はぼんやりと考えた。
唐突に訪れた別れを認めたくなくて、何も出来なかった自分に腹が立って、出会いを否定することで納得を図ろうとしていたが、それが感情に余計な栓をしていたのだ。
「そうだね。楽しかったことまでなかったことにしちゃ駄目だね」
憲吾は鉄柵をぎゅっと握り、大きく息を吸い込んだ。
ありがとうと十和は言っていた。あの感謝やそれに至るまでの楽しそうな様子が偽りだったとは憲吾も思っていない。
もらい事故のような出会いでも、最後まで関わると決めたのは他でもない自分自身じゃないか。別れの悲しさ一つでそれを忘れるなんて、なんと愚かなことか。
憲吾は星空に向け空気を吐き出した。
「嫌な話を聞いてくれてありがとね。おかげでちょっと冷静になったよ」
「あら。意外と早い立ち直りですね」
「収穫もたくさんあったし、凹んでばっかりじゃいられないからね。泣きたいくらい悲しいのは事実だけど」
「ふふっ。憲吾君の単純なところ、私好みで非常にグッドです」
かすみは愉快そうな笑みを零し、鉄柵から身を下ろした。音もなく地に着いた足が、ダンスのように賑やかなステップを刻む。
「幽霊の未来ほどわかりやすい結末はありません。こんな別れを、君はまた味わうことになるでしょう。でも私のことに関して言えば、見て見ぬ振りにシフトすることだってできますよ? それが何よりの解決策ですし」
憲吾はまっすぐこちらを向くかすみの顔を見つめた。何かを期待しているのかと思いきや、彼女からそういった雰囲気は受け取れない。純粋に憲吾を慮った上での言葉なのだろう。
憲吾はゆっくりと首を振った。
「しないよ。十和ちゃんにお願いされたからね。他の悩める幽霊さんも、この調子で助けてあげてほしいって。吹っ切れたからもう大丈夫だよ」
「ふふっ。そうですか。それではお言葉に甘えさせていただきましょうかね」
ほのかに熱を含んだ風が展望台を駆けていく。目頭がかっと熱くなって、憲吾は上を向いた。
引っ掛かりが取れた途端、純粋な寂寥感だけが彼の身に降りかかってくる。
——今更虚勢を張る必要なんてないのかもしれないけれど、なんとなくこの姿をかすみには見られたくない。
憲吾は落ちそうになった涙を隠すため、わざとらしく頭を振った。
「ごめんかすみさん。先に車に戻っててくれる? 十分くらいしたら、俺も追いつくから」
「わかりました。……一人で大丈夫ですか?」
「うん。これでも男の子だからね」
「そうですか」
こそばゆい笑みが憲吾の背中を撫でる。歪んだ視界の端から、ゆっくりとかすみの姿が消える。空気の読める幽霊の、なんともありがたいことか。
間もなくして、苦しくなるほどの無音が展望台を包み込む。憲吾は大きく息を吐き出し、遠くの星空に言葉を向けた。
「今度は違う形で会えると良いね」
吐き出した言葉に合わせ、大粒の涙が堰を切ったように流れ出した。
後悔なのか、悲しみなのか、達成感なのか。十和の為なのか、自分の為なのか。矢印のぼやけた感情が、瞳からぽろぽろと零れる。
雲一つない星空では、強い光を放つ一等星が呼応するように瞬いていた。