15 こんな形でも、会えてよかったよ
「十和の思い出はね、ほとんど病院の窓越しの景色なの」
篝火のようにぼんやりと浮かんだ声に、憲吾は小首を傾げて言葉を返した。
「ずっと入院してたってこと?」
「その通り! 昔から身体が弱くてね。ちょっと退院してはまた戻って、その繰り返しだったの。つまんなかったなぁ」
「今からは想像できないね」
「そりゃこんな格好してるもんねぇ。今はこんな感じだけど、生きてる時は絵に描いたような病弱っ子だったんだよぉ」
視界の端に映る十和が、柔らかく微笑んだ。病弱という言葉で、憲吾は初めて幽霊から死の匂いを嗅ぎ取ってしまう。
暑くもないのに、じっとりとした汗が背中を伝い始める。じっくりと間を作って、憲吾は口を開いた。
「……じゃあ十和ちゃんは、病院で亡くなったの?」
「多分ね。あやふやだから断言はできないけど」
十和は愉快そうに一回転してみせる。彼女の衣服が高校制服だったということを思い出して、憲吾は深く頭を落とした。
山にいた幽霊なのに、ここで亡くなったわけじゃないのか? だとすると、あの服も彼女の過去を構成する要素としては弱いのかもしれない。
憲吾はかすみに視線を移した。かすみは何を言うでもなく、ただただ空を眺めていた。
あまりに健康的な風貌をしているせいで、これまで憲吾は彼女たちの死因を強く意識してこなかったのだ。出来た想像は、二人が若い風貌をしていることから、不慮の事故か何かだろうなという程度のものだった。
しかし、十和の口ぶりからすると、今現在の様相が死の直前に繋がっているというわけではないらしい。
憲吾が思考を潜らせていると、十和は再び空を見上げて言葉を並べ始める。
「いつも一人で窓の外の景色を眺めるだけ。暗い顔が得意で、本だけがお友達。十和はそんな女の子だったんだよぉ」
「これもまた意外な一面。十和ちゃんなら、友達もいっぱいいそうなのに」
憲吾は不穏な空気をかき消す様に笑顔を浮かべる。十和は少し目尻を下げ、憲吾に視線を流した。
「完治が難しい病気だったからねぇ。自由に外出もできないし、十和はみんなと同じ時間の流れでは生きられないって、わかってたんだぁ。だから周りの人にわざとそっけない態度を取って、ずっと独りぼっちだった。独りぼっちでいれば、誰のことも傷つけないし。今よりよっぽど幽霊っぽかったかも!」
十和はそう言って、両手をだらんと前に垂らし笑みを作った。
憲吾が知っているのは、周りのもの全てに興味を持つほど好奇心旺盛な彼女。そんな彼女は、病気を理由に外界との関わりを絶っていたという。
窓際で寂しく本を読む少女の姿が頭に浮かんで、憲吾はぐっと言葉を奪われる。十和の言葉は流れ続ける。
「今日みたいな時間を、けんけんは普通だーって言ったけど、十和にとっては幽霊になって初めて手に入れられたものなの。普通に生きるっていうのは、それだけで尊いことなんだよ」
「十和ちゃん……」
「もう! よくある話なんだから、そんなに暗い顔しないでよぉ。笑顔笑顔!」
よくある話なものか。笑顔でいられるか。悲劇めいた運命を背負っていたのに、それが悲しいことだとも思えないほど非凡な人生を歩んでいた女の子。それが生前の二重十和なのだ。
顔色を変えない憲吾に笑みを向け続け、十和は大きく手を広げた。
「元気な身体で何も気にせず、普通の生活を送って、目一杯友達と笑い合う。十和はそんな生活を望んでたんだぁ。だから今日は、泣きたくなっちゃうくらい楽しかったよ! 本当にありがとぉ」
視線の先で赤みを帯びた星が輝いている。あれはたしか、うしかい座の星だったか。今日一日で見られた十和の笑顔が脳裏に浮かび、憲吾は喉を鳴らした。
「友達を作ること自体が、十和ちゃんの未練だったってこと?」
憲吾が目を細めてそう尋ねると、十和は「それだけじゃないよ」という言葉を吐きながら首を横に振った。
「この展望台。いつだったかは思い出せないけど、病院で唯一友達になった子に連れてきてもらったの。お医者さんには内緒でね」
憲吾はここまでの道中を思い返して目を見開いた。
「こんなところまで!? 抜け出すってレベルじゃないよ」
「すごいでしょー?」
「恐ろしい行動力だね。体調を崩さなかったの?」
医者に内緒で。由吊山の展望台は近所のコンビニ感覚で来られる場所ではない。
憲吾はおどけて肩をすくめ、十和に身体を向けた。
「次の日にはちゃんと体調を崩したし、結局抜け出したことはばれちゃったし、色んな人にめちゃくちゃ怒られたなぁ」
十和は思い出に浸るように笑った後、手で空の星々を遮って言葉を続けた。
「今日よりもずっと曇ってて、満天の星空だなんてお世辞にも言えなくて、体調を崩してまで見るほどでもなくて……。それでもその時、初めて誰かと同じ時間を生きられた気がしたんだぁ。だから、元気になったらもう一回見に来ようねって、約束をしたの」
「思い出の展望台ってわけか」
「うん。でもね……」
「その子ともう一度ここに来ることは、叶わなかったんですね」
言葉を詰まらせた十和に代わり、今まで静かに言葉を聞いていたかすみが、ぽつりと言葉を漏らした。
十和は時間が止まるほど緩慢な動きで首を縦に振る。
未練。生きているときのやり残し。その話をしているのであれば、かすみの言葉通りの結末が嫌でも予想できてしまう。
おそらく、もう一度ここに来るという約束を果たす前に、十和は命を落としたのだ。そして約束が楔となり、彼女は幽霊としてこの場に現れた。
憲吾はどういう表情をすればいいかわからなくなり、大きく息を吐き出した。
「なるほど。わざわざ展望台で話をしたがったのはそのせいか」
「そうだよぉ。いろんなことは忘れていっちゃってるし、その子の顔も思い出せないのに、約束と星空のことだけははっきりと覚えてるの。だから、十和をこの世に結び付けていたのは、きっとその記憶。お友達と星を見たかっただけで、普通の生活っていうのはオマケなんだぁ。付き合わせてごめんねぇ」
憲吾は吐きだした息を勢い良く吸い込み、十和に向け親指を立てた。
「謝ることじゃないよ。俺たちも楽しかったし。ね、かすみさん」
「もちろんです」
「代わりになったかはわからないけど、こうやって一緒に星空を眺められて嬉しいよ」
十和と出会わなければ、見飽きた商店街の新たな一面を発見できなかっただろうし、もう一度この星空を拝むこともなかっただろう。
きち、きち、きちと、一定のリズムで虫の鳴き声が響く。人里から切り離されたような展望台に、一人分の呼吸が浮かぶ。
「普通に生きるっていうのは、それだけで尊いことなんだよ」という十和の言葉を思い返し、憲吾は星々に視線を向けた。
しばらく言葉に浸っていた十和は、再びくすぐったそうに笑みを浮かべた。
「幽霊になって、欲しかったお友達が二人も出来た。そして、あの時より綺麗な星空を一緒に見られた。十和はこれ以上にないくらい満たされたよ!」
「そりゃ良かった」
「にゃはは。以上! 十和ちゃんの未練話でしたー! ぱちぱちぱちー」
憲吾は楽しそうに浮かぶ十和に視線を向けた。高校の制服には見えないほど洗礼されたデザインの服と、幽霊とは思えないほど血色のいい横顔。
その姿越しに展望台の景色が見え始めたことに気付いた憲吾は、ぶわりと湧きあがった鳥肌を抑え口を開いた。
「と、十和ちゃん! なんか透けてない?」
「ととわちゃんじゃなくて、十和ちゃんだよ。……あーあ。思ったより早いんだなぁ」
十和は自身の手を空に透かした。ぼんやりとした手の輪郭は、星々の光を遮ることはない。
憑き物が完全に取れたような笑顔を浮かべる彼女を見て、憲吾の心臓が激しく血液を運び始める。
十和の身体が透けている。まるで、これからこの世からいなくなってしまうかのように。
それに、思ったより早いとはどういうことなんだ。憲吾は言葉を発することが出来ず、きゅっと唾液を飲み込んだ。
十和は伸ばした手を憲吾の方に向けた。
「やっぱり未練と成仏は直結しているみたい。もう一度お友達と星が見たい、っていう未練が無くなった幽霊は、無事成仏することになりました。ってことになるんだろうねぇ」
「消えちゃうってこと?」
「うん、多分ね。これで消えなかったら笑っちゃうけどぉ」
十和は何事もないような顔つきで、伸ばした手をゆらゆらと揺らした。憲吾の目の前で、半透明の幽霊が穏やかに微笑んでいた。
心臓の音が喧しいくらいに鳴っている。心音が訴えているのは、何かがこの場から無くなろうとしている前兆。
十和は最初からこうなることを予想していたのだろう。講義を受けているときも、商店街を散策しているときも、なんなら友達になってくれと頼んで来たあのときも。かすみの方を見る。彼女は静止画のように固まったままだった。
消えそうな火に酸素を送るように、憲吾は慌てて口を開いた。
「どちらにせよ笑えないよ。あんなに楽しそうにしてたじゃん。他にもやり残したことがあるんじゃない?」
「これ以上は罰が当たっちゃうよぉ。なんといっても、十和ちゃんは幽霊なのでぇ」
「それでも、まだ何日か普通の生活をするくらい——」
憲吾の言葉を切るように、十和は呆れを顔に張り付けた。
「けんけんとかすみんは、これを求めて山に来たんでしょ? ここは大喜びするところだよぉ」
「そういうことじゃないんだよ!」
憲吾は逃げる様に頭を掻いた。十和の言う通り、憲吾たちが由吊山に足を運んだ理由には、成仏がいかなるものかということを知るというものが含まれている。よって、この状況は彼にとって喜ぶべき場面なのである。
頭ではそう思っていても、納得は出来なかった。十和のことを知らなければ喜びも出来ていただろうが、今は違う。仮にも友達が急に消えようとしているのだ。心の準備というものがある。
頭が落ちる。憲吾の目に色褪せたアスファルトが映る。溜息のように言葉がこぼれる。
「……こんなにも急なことって、ないよ」
「幽霊ってそういうもんでしょ? いつかは消えるんだよぉ」
「幽霊だからとかそういう理由で、簡単に割り切れないって言ってんの!」
「憲吾君」
諭すような声が響き、憲吾は頭を上げた。起伏のない表情のかすみが、じっと視線を憲吾に向け続けている。
その表情が悲しみのようにも憐みのようにも見えて、憲吾は唇をかんで言葉を留める。幽霊は冷静だ。感情の波に当てられず、しっかりと現実を見つめている。
生きている人間が、幽霊を縛り付けてどうするんだ。諦めて向けた視線の先で、深い闇に吸い込まれるように、十和の身体が闇に溶けていく。
「どう? 十和と別れるのかなしーって、思ってくれた? 十和、モブ幽霊じゃなくなった?」
十和は穏やかな顔を浮かべた。この様子を見れば一目瞭然だろう。意地の悪い幽霊だ。憲吾はぎゅっと握った手から力を抜いた。
「そうだね。泣きそうなくらいには悲しいよ」
「にゃはは。いえーい目標達成! これで気兼ねなく成仏できるよぉ」
十和は笑顔を作り、鉄柵の上にふわりと浮かび上がった。底の厚いブーツが、器用に手すりの上でバランスを取る。相手が幽霊だと分かっていながらも、憲吾は慌てて手を伸ばした。
「ちょ。そんなところに登ったらあぶな……くはないのか」
「そうやって幽霊じゃない扱いをしてくれるけんけん。十和はすっごく素敵だと思うよぉ。他の悩める幽霊さんも、この調子で助けてあげてほしいなぁ」
十和は笑みを貼り付けたまま、つま先を軸にくるくると身を回した。そのまま更に身を浮かせ、星空を背景に憲吾に手を向ける。
「十和ちゃんはメルヘンっ子なのです。お星さまになって、けんけんを見守ってあげるっていうお別れはいかがでしょう? ロマンチックじゃない?」
「最高に素敵だね」
「でしょー? 欲を言えば……。笑って見送ってほしいなぁ」
「……無茶言ってくれるじゃん」
憲吾はそう言って、十和に向かって手を伸ばす。もちろん触れることは出来ない。愉快そうに笑う彼女の姿が、浴槽に浮かんだ入浴剤のように星空に混ざっていく。
憲吾は一度頭を下げ呼吸を繰り返し、笑顔を作って顔を上げた。
「じゃあねけんけん。短い間だったけど、とーっても楽しかったよ! ありがとねぇ」
「こちらこそありがとう。楽しかったよ」
「うんうん、いい笑顔! 最高の気分!」
十和は溌溂とそう言って、今度は消え入るような視線をかすみに向けた。
「かすみん!」
声を受けたかすみは、落とした頭を上げた。かすみにも思うところがあるのだろう。無理やり貼り付けたような笑みを浮かべ、じっとりと視線を返した。
「寂しくなりますね。出会ったばかりなのに」
「こんな形でも、会えてよかったよ」
「十和ちゃん、あなたは……」
かすみは目を見開き、十和の方に手を伸ばした。
「もうちょっと、早く思い出したかったなぁ。約束、守ってくれてありがとう——」
言葉だけを残し、十和は煙のように空に溶けていった。
痕跡なんてものは何も残らない、最初から何もなかったかのように、満天の星空だけがそこに残った。