1 お化けです、お化け
窓の先に浮かぶ萌黄の景色は、目が眩むほどに鮮やかだった。
木々の隙間から零れ落ちる柔らかい光。芽吹く花々の暖かい匂い。時期遅れの桜の花びらが、ストップモーションのようにゆっくりと地面へ身を下ろす。
燦燦と咲く笑顔がまぶしい季節。誰もが出会いに期待してしまう暖色の季節。
自らが主役の物語が始まるんじゃないかと思えるほど、春の陽気はポジティブだった。
しかしながら、兆しは平等に降り注ぐとは限らない。
入学から早二週間、古沢憲吾が大学デビューに失敗した要因は、大きく分けて二つ挙げられる。
一つ目は髪色を明るくしすぎてしまったこと。
これに至った理由はシンプルで、初対面でなめられてはいけないというちっぽけな虚勢から、彼の頭には煌々と輝く派手な金色が浮かんでいる。
高校生活を真面目に過ごしてきた彼に、垢抜けに対する匙加減などあるはずがなかった。
悪目立ちする金髪と、元より悪い目つきが合わさり、対人結界のような威圧感だけが彼を取り巻いていた。自ら積極的にコミュニケーションを取りに行くタイプでもないことから、入学から二週間が経った今も、彼は講義室の三人席を堂々と一人で独占する羽目になっているのだ。
そして二つ目。どちらかというとこちらが致命的だった。
講義室にはレジュメを言葉でなぞる教授の声と、春特有のけだるい空気が流れている。あと五分もすれば、今日の講義は終わる。
憲吾は事の顛末を思い返し、午後のまどろんだ空気に向け溜息を吐き出した。
「溜息は良くないですねぇ。うんうん良くない。生きてるくせに死んだような顔をするなんて、死んでいる私に失礼だとは思わないんですか?」
彼の溜息に乗って声が聞こえる。遠くで鳴る講義の音を遮り、誰もいないはずの右空席から、ぼんやりとした人影と言葉が浮かび上がってくる。
それを受けて、彼は再び大きく息を吐いた。
何を隠そう、声の主であるこの女こそが、彼の大学デビューを妨げた要因の大半を占めているのだ。
溜息に合わせて宙に浮かんだ人影は、ふよふよと縦横無尽に彼の周りを飛び回った後、講義を受ける生徒たちの間を通り、教授の身体をすり抜け、講義室全体に向け滑稽な決めポーズを取る。
結った髪を異質に揺らすその姿は、この講義室で唯一、なぜか古沢憲吾だけに見えている。
始まりは今朝に遡る。
講義を受けるため、講義室に足を踏み入れた憲吾は、ただただ焦っていた。
誰とも話すことが出来ず、なんなら周りから距離をとられているような感覚すらあった入学時オリエンテーション。そこから二週間が経った今日も、彼の周りには友人がいない。
気の合う仲間と遊び、適当にアルバイトをこなし、モラトリアムを謳歌する。そんな光景を思い描いていた彼に、現状はひどく暗く見えた。
大学生になれば、エレベーターのように自動で華やかな生活に辿り着くと思っていた彼は、現実の無情さに早くも躓きそうになっていた。いち早く気の合う仲間を見つけなければ、四年間孤独を味わうことにもなりかねない。
講義開始まであと三十分。朝一番の講義室は、音を失ったかのように静かだった。気合を入れて講義室を見渡した憲吾は、広い講義室に唯一存在していた女性の姿を見つけた。
陽が差し込む窓際に座り、遠くの空を眺めている彼女の姿は、アクアリウムを切り抜いたかのような透明感であふれていた。結った髪も、尾ひれのように揺れている。
本来であれば話しかけに行くことなど絶対にしない。それでも、彼の足は自然と彼女のほうへと向かっていた。
「隣、空いてますか?」
「え、ええ」
少し驚いた顔を浮かべた女性は、結った髪を穏やかに揺らして微笑んだ。
オリエンテーションでこの顔つきを見た記憶はないが、この時間帯にここにいるということは、同じ講義を受けるということで間違いないだろう。
スタートの躓きを巻き返すためにも、交友関係を広げるに越したことはないと思って行動したが、いきなり隣に腰掛けようなど、さすがに強引すぎたかもしれない。
諸々思い悩んだ憲吾は、出来る限り威圧感を与えないよう、必死に笑顔を作りこんだ。
「俺、古沢憲吾って言います。新入生さんですか?」
「まあ、そうですね」
「よかったー! 俺も新入生なんですよ!」
意気揚々と紡がれた言葉が途絶える。憲吾は視線を空中に泳がせる。そういえば、友達ってどうやって作るんだっけ。雑談って何を話せばいいんだっけ。普段は自然と湧き出てくる言葉も、この時ばかりは息をひそめてしまった。
硬直する憲吾を気にすることもなく、彼女は彼の頭を指差した。
「髪色……」
「か、髪? ああ、そうなんですよ。張り切ったらこんなことになっちゃって。引きますよね」
逃げるように金色の頭を降った彼に、彼女は笑みを向けた。
「ううん。お花みたいで綺麗な色だなと思って。私は好きですよ」
後ろめたい髪色を褒められたことによって、憲吾の喉元に、先ほどまで閊えていた言葉たちがあふれ始める。
「マジっすか! いやぁ、でもこれのせいで友達もまだ出来てなくて……。あっ、良かったら友達になってもらえませんか? 一人っきりだと結構不安で」
「ふふふっ、いいですよ。というか、私で良いんですか?」
「もちろん」
「私はかすみ。よろしくお願いします、憲吾君」
「はい! よろしくお願いします!」
彼女と彼の会話は驚くほどスムーズで、初対面の者同士とは思えないほどの盛り上がりを見せた。
まさか最初に声をかけた相手とここまで上手くいくなんて。憲吾自身、コミュニケーションに手応えを感じていた。
それゆえ彼は浮かれてしまったのだ。目の前の者が、異質な者であるということに気がつかないほどに。
講義の開始時間が近づくにつれ、講義室に人が満ち始めたが、楽しく盛り上がる彼らにちらりと視線を向けるだけで、誰も近づこうとはしなかった。
それどころか、奇怪な視線を向ける者までいた。
「あれ、なんかめっちゃ見られてませんか? やっぱり俺、変な格好してます?」
彼女はゆっくりと指を振った。
「違いますね。みんなにはきっと私が見えてないんですよ」
「えっ」
「教室で一人盛り上がってる子がいたら、不思議に思って見ちゃいますよね。あの子何とお話してるんだろうって。私でもそうします」
「な、何を言ってるんですか?」
暑くもないのに、彼の背中に汗が浮かんだ。窓際から吹き込む風に向かうように、かすみの髪が揺れる。
「あまりに自然に話しかけてくるからまさかとは思っていましたが、やっぱり気がついていなかったんですね。私、幽霊ですよ。お化けです、お化け」
「お、お化け……?」
ここで彼はようやく理解した。意を決して話しかけた相手は幽霊で、他の人間には見えていない。他者から見れば自分は、一番に教室にきて虚空に向け全力の笑顔を向けているおかしな金髪ということになる。同回生の奇怪な視線にも理由が付く。
それを理解すると同時に、憲吾はどういう感情を抱くべきなのかがわからなくなった。
幽霊に対して恐れを抱き顔色を青にすべきなのか、この恥ずかしい現状に顔を赤らめるべきなのか。混乱の極地に達した彼は、必死に口を開いた。
「いやいや。そんな馬鹿な」
「信じられないですか? 私的にはどっちでもいいんですけどね。こうやって会話が出来る人がいるっていうだけでありがたいので」
彼女はそう言って、ふわりと立ち上がった。浮き上がった、と言う表現の方が正しいかもしれない。彼女の右手が憲吾の頭へ向かう。彼女の手は彼に触れることなく彼を通り過ぎた。
「ほら、触れない。試しに私のことも触ってみますか?」
憲吾はゆっくりと頭を振った。彼女の右手は間違いなく彼の頭を貫通している。これ以上確かめるまでもなく、目の前にいるのは実体のない何かであることは間違いない。
始業のチャイムが鳴る。頭の中を整理する時間を与えられないまま、講義が始まる。
入学からちょうど二週間。古沢憲吾は幽霊と友達になった。