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3.女の名前は覚えておくこと

 日が暮れると、彼女は陶器の皿に魚油を注いだものに灯芯となる麻か何かの紐を垂らして火を灯した。


 その後で彼と彼女がしたことは、わざわざ言うまでもないし、また言うべきでもない。


 家屋は石を積み重ねて漆喰で塗り固めただけの簡素な造りで、内側にも壁紙のようなものはなかった。夜はさぞ冷えるだろう。しいて優れている所を言えば、女性の声が美しく響くことだ。


 古賀は、まず女性を探した自分の判断を自画自賛せずにはいられなかった。悪党にとって、「これだけは外せない」という重要な資質を一つだけ挙げるとすれば、それは女の所に転がり込む技術だと古賀は考える。


 例えばヘマをやって、司法なりカモなりに追われるような立場に陥った時、最後の砦になるのは女だ。ある日突然、訳の分からない世界に放り出されたような場合にも。


 だから古賀は女を大事にするし、できるだけ満足してもらえるよう努める。大事にすべき女が多すぎて、記憶力に自信のある彼にも時々覚えきれないということが起こるにせよ。


 街で声をかけたこの素朴な女性も、大いに満足してくれたものと見えた。シーツの間に包まって、ぐったりと横たわっている。


 差し当たり、当面の食事と寝床は確保出来た。


 この街の人たちは、夜とても長く眠る。照明器具が未発達で、魚油を燃やすランプでは本を読むのもままならない(とはいえ、印刷技術も広くは普及しておらず、本は高価で一般市民の手に届くようなものではないらしい)。従って、日が暮れるとほどなく眠り、真夜中に一度目を覚まして1時間か2時間程度活動すると、また眠る。


 一方、この街には街灯らしきものがあったという不釣合いを考えると、何か経済的、あるいは政治的に不健全な要素があることが想像出来た。


 ベッドのシーツから這い出ると、椅子に掛けてあったジャケットのポケットに手を突っ込んで、隠しておいた腕時計を見た。時計は12時半を指している。この世界と元の世界の時間の進みが同じかどうか疑わしいが、目安程度にはなるかもしれない。


 古賀は彼女の髪を手櫛にときながら、得られた情報を整理した。


・ここはプロメテウスという小さな漁村で、マイヤ海という内海に面している。(この時点で、古賀はいよいよここが自分の知る地球の一地域でないことを認めざるを得なくなった)


・プロメテウスはメルクリウス選帝侯国なる都市国家の一領地であり、領主は比較的安定した治世を敷いているらしい(他の漁村や農村と比べて、飢饉に喘いだり、戦火に巻き込まれたりする頻度が低いという程度において)


・つまり、少なくとも、認識の及ぶ範囲においては、帝国の中に、不輸不入権を有する領地を諸侯が治めているという封建社会である。


・通貨は金銀銅の硬貨であって、価値の比率は現在のところ金1:銀20:銅240であるが、これは度々変動する。


・彼女の名前はクレアという。胸は小ぶりで普段の態度は控えめだが、いざ行為が始まると情熱的であり、処女ではなかった。


・貨幣価値も物価も変動が激しく、これらの通貨を一概に日本円に換算して考えることはあまり意味を成さない。


・小麦は高価で、庶民は主に大麦やライ麦を使ったパンを主食とするが、この界隈は漁村であるため、麦を始めとする農産物はほとんど交易に頼っている。ただし畜産はでき、肉や乳製品はある程度自給出来る。


・調味料、とりわけ香辛料が高価であるため、彼らの食事はひどく味気ない。しかし、海に面し塩が手に入る分、内陸部にある農村に比べれば、まだましなのかもしれない。


・彼女の父は大工で、ロドリーゴというこの界隈の大商人が近隣の都市に建てる店舗の新築に駆り出されており、母もそれに随行しているため、少なくとも、あと二月は帰って来ない(つまり、もうしばらく彼女との甘いひと時を楽しむことは出来そうだ)。


・この大商人ロドリーゴの息子というのが、街では有名な鼻つまみ者である。しかし、この界隈の交易を一手に牛耳る商人の権力は強く、表立ってこれを批判出来る者がいない。


 時々雑念が混じりはしたものの、目標は定まった。あとは、方法を考える。


「夜の街を見て歩きたい」古賀はそう言って、部屋の隅に置かれたベッドから立ち上がった。


「夜は危ないですから、お止しになった方が……」とクレアは言った。


「例えば、盗賊が出るとか?」


「いえ、自警団です」


 古賀は顔をしかめた。


「自警団が出るから危険? 普通は、逆だと思うが」


「自警団のリーダーはブルーノという、この街の商人の一人息子です」


「ああ、あの、鼻つまみ者だっていう」


「ええ。表向きは盗賊を追い払う自警団ということになってはいますけれど、実際は、荒くれ者を集めて、他所の街から安く仕入れたものを売ったり交換したりする人を取り締まっているんです」


「そういうのは、自警団とは言わないね」


あの商人(ロドリーゴ)が来てから、この街の商人はほとんど他所へ移ってしまって、残った人も、彼の言いなりみたいに……」


 古賀は腕を組んで考えた。「例えば、仕入先を限定したり、価格を指示したり?」


「私の家は大工なので、仕入れのことは分かりませんが、値段は確かに、どこも同じで、何を買うにもすごく高くなりました。特に麦は。小麦はともかく、大麦やライ麦まで」


「領主はそれを許しているのか?」


「領主様は、お優しい方なのですが、ロドリーゴにお金をたくさん借りているっていう噂です」


「そうか……」と言ったきり、古賀は黙り込んだが、内心はほくそ笑んでいた。ちょうど金の欲しい所に、おあつらえ向きの悪党がいたものだ。


 その大商人とやらは、他の商人を暴力で締め出し、強制的なカルテルを組んで市場を独占している。流通を制限して価格を高騰させ、財力で領主を懐柔、実質的な権力を強めている。


「だから、夜は出歩かない方がいいです。それに……」と顔を伏せて、クレアは古賀の腕を掴んだ。「もう一回……」


「喜んで」と古賀は笑顔で応えた。有力な情報には報酬が支払われるべきだ。


 その時、不意に通りの向こうから怒声が響いた。数人の男が大声で何かを強く非難するような声だ。


 クレアが古賀の胸に顔を埋めた。


「多分、ブルーノと自警団です」


「一目見たいんだが」と古賀は言った。父親との関係性が知れればなおいい。


「いけません。目をつけられては大変です。どうしてもと仰るなら、窓の、鎧戸の隙間から」クレアは大分怯えているようだ。


 窓の鎧戸(彼らの家屋にはガラスというものがない)を細く開け、その隙間から通りを覗き見た時、古賀は思わず感嘆の声を漏らした。


「これは……」


 街灯が道を照らしている。ただそれだけのことなのに、古賀にはそれがとても神秘的に思えた。魚油に麻紐を浸して明かりをとっているような街に、街灯がある。それ自体が不条理ではあったが、何より、街灯は電気で灯っているのではないらしかった。光っているのは電球ではない。拳大の宝石のようなものだ。


「魔石というものです」


「美しい光景だ」古賀は目を細めた。


 街道を赤や黄色、緑や青の宝石が照らしている。これを元いた世界に持ち帰れば、一体どれほどの値がつくことだろう。


「これも、ロドリーゴの投資によって設けられたものだそうです」


「なるほど。領主は公共事業投資のために、商人から金を借りたわけだ。だが、相手が悪かった」


「おかげで野犬や盗賊の被害は減ったようですけれど」


「それよりタチの悪いのがうろつくようになったんじゃ、意味がない。それに、せっかくの景色に似つかわしくない喧騒だ」


 殴り合うような物音が激しくなり出すと、続いて幾人もの男の悲鳴が立て続けにあがった。慌ただしい足音が向こうから近付いて来るのに耳をすますと、古賀の覗く目の前の通りを、屈強な男たちが、しかし、一目でそれが敗走だと分かるような、情けない体で5人、6人、通り過ぎていった。どういうわけか、そのうちの一人は半裸だった。


「え……?」一緒になって窓の外を除いていたクレアが声をあげた。「あれは、ブルーノの手下です」


「今、逃げていった連中が?」古賀が尋ねると、クレアは頷いた。


 心当たりがある。古賀は鎧戸の隙間から漏れ入る街灯の光の中に、冷然と微笑を浮かべてクレアの髪を撫でた。


 彼女は古賀の手を握ると、彼の長い人差し指を口に含んだ。





 ◇


 ◇


 ◇




 小鳥の囀る声と、窓の隙間から差し込んだ光に目を覚ますと、古賀は気だるい唸り声を上げた。


 彼女の家は2階建で、1階は一部屋に居間と食堂と彼女の両親の寝室を兼ねており、2階が彼女の寝室だった。この街の家はどれも著しく狭く、通常はこの家の1階ほどのスペースに、両親と子供が5人も6人も寝ることさえ珍しくないそうだ。


 彼女の家族がこの二階建て一棟を独占しているのは、大工である父の役得であるらしい。


 階下からは、エビを煮込む匂いがした。気付けば、ベッドにはクレアの姿がない。


 朝食を用意しているのだろう。


 古賀は欠伸をして大きく背中を伸ばした。


 さて。やるべきことはたくさんある。まず、差し当たってやるべきなのは、服を着ることだ。




「私、こうして人と食卓を囲むことって久しぶりですの」


 古賀が階下に下りて、彼女の作ったスープにライ麦のパンを浸しながら口に運ぶ間、クレアは嬉しそうにそう言った。


「ご両親は、どこまで?」と古賀は尋ねた。


「ミネルヴァへ。ここからだと、馬で3日ほどの距離です」


 古賀は『馬で3日』という距離をうまく想像出来なかった。


 彼女の両親は大工で、この街に来た大商人の家を建てる為に赴任している。ミネルヴァ伯領というのは、メルクリウス選帝侯国の中の一領地で、この漁村が、豊かとはいわないまでも、なんとかしのいでいけているのは、このミネルヴァ伯領と、マルス伯領なる国内の要衝を結ぶ街道に接しているためである。


 これに伴って、日中は、色んな人たちがこの街を往来する。それには、この世界に飛ばされて来てまもなく古賀たちが見た、猫や犬の顔をした人たち(それぞれ猫人(ケット・シー)犬人(クー・シー)と呼ぶらしい)や、エルフ、ドワーフといった、聞いた覚えのある亜人も含まれる。


 彼女の用意してくれた食事は、相変わらず質素だったが、喉を通らないというほどのものではなった。小麦が手に入らないために、ライ麦や大麦で作られたパンは固い。彼らには主菜・副菜といった概念が無く、固いパンをスープに浸して食べるというのがこの界隈の一般的な食事らしかった。


 知るべきことはまだたくさんあった。古賀は考えた末、スーツのポケットに入れていた腕時計を手渡した。


「これは、私の国の技術が注ぎ込まれた、大切なものだ。私は用事があるので今日は出かけるが、それを取りに必ず戻るので、待っていて欲しい」


 色んな意味で、一人の女にあまり入れ込み過ぎるのは得策でないが、この狭い街で複数の女に粉をかけるリスクに比べれば致し方ない。


 クレアは古賀の時計を受け取ると、その精巧さに驚いたような表情を見せた後で、「お待ちしています」というような意味のことを言った。


 古賀は終始、自分が遠い外国から何かの密命を帯びて来た貴族だと彼女が思い込むように振る舞った。今のところそれは古賀の意図した通り作用している。


 彼女は古賀が目立たないように、この界隈の町人の一般的な装いを、一式用意してくれていた。麻布のシャツに、腰を留める革紐、皮の長靴といったものだ。それらは概してごわごわと固く、あまり着心地のいいものとは言えなかったが、前の世界の服装で奇異の目に晒されるよりはいくぶんましだろう。





 古賀は通りに出ると、人混みに紛れて辺りを散策した。やはり、古賀が東洋人であることは、少なくともこの地域では問題ではないようだった。小さな漁村ではあるが、旅人が多く通る土地柄、余所者が混じることにも抵抗はないらしい。


 早速古賀の耳に入ったのは、昨晩の乱闘騒ぎの噂だった。クレアの言う通り、ぶちのめされたのはブルーノとかいう、商人の(せがれ)の手下たちで、ぶちのめした張本人は判明していないらしかった。


 古賀は、彼らが最初に目を覚ました廃屋に向かった。それは大通りから一本裏手に入った街の外れにあった。他の石造りの建物も、それほど堅牢な造りとは言い難かったが、彼らが置き去りにされた、あるいは放り込まれた木造の倉庫はそれらと比べても赤面するほど粗末で、しみったれていた。


 周囲に人がいないことを確認して、古賀はドアを開いた。そして、そこにいた人物に、やや落胆した声をかけた。


「君か……」


「なんだよ。不服そうだな」藁束の上に腰を下ろしていたのは、二十歳になったかならないかという若い男だった。泥棒の久遠である。彼も人混みに紛れる必要性からか、まずは衣服を盗んだらしい。古賀と同じような麻布のシャツの上から、毛皮のマントみたいなものを羽織っている。


「いや、不服なんてことはないんだがね。少しアテが外れた」そう言って、古賀は藁束の上に腰を下ろしているその男に、腰に提げた皮袋からパンを一つ取り出して放った。


「ありがと。でも、かったいんだよね。ここのパン」


「小麦が高価だからな。ライ麦や大麦で作った無発酵パンだ。多分、パン種を管理する知識や技術が無いんだろう」


「あんた、本職はパン屋?」


「まさか。私の仕事はどんな知識が役に立つか分からないからね。なんでも覚えておくようにしているんだ」


「だったら、女の名前も覚えておけばいいのに」久遠はからかうように言った。


「その件は私も反省している。早速反省を活かす機会も得ているし、以後改善するつもりだ」


「え、もう女引っ掛けたってこと?」久遠は呆れたように眉を寄せた。「引くわあ」


「お陰で、こんなしみったれた小屋に寝泊りしなくて済んだ」古賀はそう微笑んでから、尋ねた。「ところで、そっちの調子はどうなんだ?」


「全っ然!」久遠は両手を広げて仰向けにばったりと寝転がった。「マジでシケてんよ、この村」


「だろうな。しがない漁村だ。旅人は通るが、金を落とさせるだけの資源が海産物くらいしかない。致命的なのは、地積が狭いせいで宿を置けないことだ。旅人が滞在出来る施設がないから、旅行者はここを通り過ぎるだけで金を使わない」


「お前は経済評論家かよ」不意に廃屋の扉を開けたのは後堂である。


「早速、ひと暴れしたらしいね」古賀は笑いかけた。


「マジかよ、呆れるな」と久遠が漏らす。


 古賀は、その点については久遠に同意した。出来るだけ目立ちたくないようなことを言っておきながら、舌の根も乾かぬうちに(舌の根というのがどのくらいの時間で乾くのか知らないが)その日の夜には乱闘騒ぎを起こしている。


「ただ、我々3人の中で、今一番金を持ってるのはおそらく後堂だ」


「強盗じゃないか。マジで野蛮だよ」


「手っ取り早いってのは、そういうことだ」後堂が口の端を吊り上げる。「なんだてめえら、タカリに来たのか?」


「いやいや、気軽な情報交換さ。それを、このしみったれた小屋の中でするか、ちょっとした居酒屋みたいな所でするかは、スポンサーにお任せするけどね」と久遠がなぜか得意そうに言った。

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[良い点] 早速ひっかけやがった とはいえ将来を約束してる訳でもなし、少しの間甘い夢を見せるだけならWIN WINなのか
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