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8.膠着

 周辺領地からの兵を合流させつつ、起伏の激しい丘陵を越え、ヴェスタ回廊手前まで達したマルスもまた、混乱の中にあった。当初の試算では4万5千に達する予定だった軍団は3万しか集まらず、何より致命的なのは、十分な兵糧(ひょうろう)が確保出来なかったことだった。


 これはマルス伯領及びその周辺で、こうした噂がまことしやかに(ささや)かれていたためである。


──マルス伯の孫娘は、実の孫ではない。それは、瞳の虹彩の色を見れば明らかである。勘のいい帝国諸侯の中には、すでにそれに気付いている者が複数名おり、このことは早晩、露見する。仮にこの戦でマルス伯が選帝侯を継承したとしても、マルスにはそれを相続する者がいない──


 この噂を聞いたマルス領内の貴族たちは、兵や食糧の供出を渋るばかりか、離反の機を窺う者さえおり、集まった3万の軍勢でさえ、指揮系統が十分に機能しているとは言い難かった。


 ミネルヴァがノルドの森を通るという情報を得た時点で、マルスもまた、ミネルヴァがマルスを隘路(あいろ)に誘い込み、林内から長弓の射撃と下馬騎士の連携を主軸に戦うという作戦を読んでいた。


 そのため、大穀倉地帯を擁するマルスは潤沢な兵站と兵数を武器に、長弓の射程外に陣を構えて長期戦に臨む算段だったが、食糧の確保が難航したことで、このオプションを破棄せざるを得なくなった。


 残された活路は、それでも1万の兵力差に頼んでの、重装歩兵・重装騎兵による正面突撃にしかない。


 その機を窺うマルスに飛び込んで来たのは、予期せぬ朗報だった。


 ノルド森林内に、野盗連合3000が集結、林内からミネルヴァ陣営に対し、攻撃を仕掛けているというのである。


 これぞ天啓と歓喜に沸く兵たちを、マルス伯エルンスト・ヴィルヘルム・ヴォルフは大喝した。


「浮かれるな劣兵ども! ならず者どもは我々にとっても敵である! 双方削り合って疲弊しきった所を叩く。ノロマで腰抜けのドワーフどもに、飯の支度でもさせておけ!」


 本人たちに聞こえるような大声でそう言って、マルス伯は軍の最後尾、輜重(しちょう)隊に侮蔑の視線を送った。


 ウルカヌスはこれまで中立の立場を強硬にしてきた。にも関わらず、戦が具体化した途端に、「もっぱら補給を担う役割に限り」などという注文付きで参戦を申し出て来たのである。


 大方、この段になってマルス領土内での孤立を恐れたものだろう。


 と、その視線の先で、ドワーフの輜重隊は、食糧を曳く馬首を後方に向け始めた。


「何をしている……?」とマルス伯は顔をしかめる。


「あれはですね……」と近くにいた若い兵が答えた。近隣の領地から出されたという、少年兵と言ってもいいくらいの若い兵だ。立派な栗毛の三才駒に跨っている。「食糧を頂いて、とんずらしようとしてるんですよ」


 そう言うと、若い男は兜を脱ぎ捨て、馬に鞭を入れた。馬の蹴り上げた土くれが、マルス伯の頬にこびり付いた。


「あの馬は……」伯爵の側近が独り言のように呟いてから、やがて確信を得たらしく声を張り上げた。「閣下の替馬として用意した、一番の駿馬(しゅんめ)だ!」


 馬は兵たちの間をすり抜け、みるみる小さくなっていく。


 その途中で若い男は曲乗のように馬上で身体を反転させ、後ろ向きに跨ると、兵たちに向かってこう叫んだ。


「やあやあ我こそは、『ドワーフとその友人のための国ウルカヌス』、その王にして、【天下の大泥棒】シンタ・クオン様だ! このメルクリウス選帝侯国を、選帝侯になりたい欲に溺れて疲弊させた悪党ども! お前たちの食べ物は、僕たちドワーフが後で美味しく頂くぞ!」


「追え」


 マルス伯エルンスト・ヴィルヘルム・ヴォルフは、顔色も変えず、ただ一言そう言った。


 側近が叫ぶ。「後方の騎兵10騎! 追跡して必ず首を持ち帰れ!」


 騎兵隊長が慌てて10騎を指名して後を追わせる。食糧を満載した馬車に追いつくのはそう難しいことではない。が、追いすがる騎兵の前に、4騎、馬に跨り戦斧や戦鎚を担いだドワーフが躍り出ると、列の乱れたマルスの騎兵10騎を瞬く間に打ち倒した。


「まるで相手にならんわ。それでよく大口を叩いたもんだの」と言うのは、『野盗連合』首魁キトラ・ゴドーと素手で渡り合ったドワーフの測量技士、ヘルマン・プライである。


 その横で大槌を構えているのは、プライの親友にして、ウルカヌスで一番の武器職人ディートリヒ・フィッシャー・ディスカウと、その妻にして、猪の首を片手で折る料理上手のゲルダだ。


 そしてまた別の1騎が、マルスの陣中に向けて高らかに声を上げた。若い、女のドワーフである。


「勇猛無双、ウルカヌスのドワーフを前にして、『腰抜け』とは恐れ入った! このウルカヌス王妃、セルピナ・ペルゴレージ・クオンと、ウルカヌス3000のドワーフがお相手(つかまつ)る!」


 その声に応じて、丘の向こうから朦々と土煙が上がったと思うと、低い唸りを上げて、横隊に列をなしたドワーフの群れが、丘の上を埋め尽くした。丘の頂上では、先ほどの若い男──本人の名乗るところによれば、ウルカヌス王シンタ・クオン──が、馬上で腕を組んでいる。


「隠れる、盗む、逃げる。それがこの僕、シンタ・クオンの戦い方だ! しかし、僕の家族、ウルカヌスのドワーフたちは違うぞ! ドワーフとの戦いは、お前たちにとって悪夢だ! それはそうと、お前たち、そろそろ前を向いた方がいいんじゃない?」


 マルス伯はハッとして、陣の前方を見た。ヴェスタ回廊にけたたましい足音と、罵るような叫び声が響く。


「進め! 進め! 前にしか道は無い! 野盗は構うな! マルスを倒し、選帝侯の地位を手に入れろ! もはやそれ以外にこの混乱を収める術は無い!」


 野盗の襲撃に構ってこれ以上の損害を受けては、マルスに対する戦力を維持出来ないと考えたミネルヴァ伯は、敵をマルスに絞ったのだ。メルクリウス選帝侯となれば、選帝侯国に連なる領地全てに支配権が及ぶ。


 つまり、ウルカヌスも、スノッリも、全てその命令に従えることが出来る。ならず者の野盗はそれから叩けばいい。


「挟撃……」と蒼ざめる側近の横で、マルス伯エルンスト・ヴィルヘルム・ヴォルフは眉間に険しいシワを刻んで、睨みつけるように笑った。


「珍しく、意見が一致したな、ミネルヴァ伯ルイ・マルシャン。選帝侯の地位さえあれば、このバカ騒ぎも終わりだ」


 側近の軍師が命令を出す。「全軍、前へ! ミネルヴァの弱卒どもを、踏みつぶせ!」


 ◇


 ◇


 ◇


 現時点のミネルヴァとマルスにとって、選帝侯継承のためには、双方退却は許されなかった。仮に敵方が別の勢力によって打撃を受け、戦闘の意志を失ったとしても、こちらが退いては、メルクリウスに連なる諸侯の支持に疑問符が付くことになる。


 これはあくまでマルスとミネルヴァの選帝侯継承権を争う決戦であり、最終の決は自らの手で与えられなければならない。


 そして、ミネルヴァはゴドー率いる野党連合(正確にはアグのゴブリン)、マルスはクオン・シンタ率いるウルカヌスによって、ほとんどの糧秣(りょうまつ)を失っていた。


 つまり、両軍とも長期戦には耐えず、道は短期決戦にしかない。


 ミネルヴァはノルド大森林を放棄、ヴェスタ回廊を進軍し、狭隘な地形を埋め尽くして停止した。平野に出れば数で勝るマルス陸軍に対して圧倒的に不利であるためだ。ミネルヴァ伯が用意していた奇策はことごとく頓挫、野盗連合による度重なる夜襲に兵は消耗しきっており、損害も無視できない数にのぼっていた。


 一方、マルスはヴェスタ回廊の出口を塞ぐように布陣、重装兵力の圧力で敵を押し潰す構えであるが、後方には敵意を剥き出しにして息巻くウルカヌスのドワーフ3000(これはセルピナの誇張であり、実際には1800)に、参戦した諸侯も浮き足立っており、陣中はどのタイミングで誰が離反してもおかしくないという異様な雰囲気だった。


 ヴェスタ回廊北側、ノルドの森には野党連合3000(実際には2000)、さらにその後ろにはスノッリ辺境伯のエルフがおり、下手に刺激してこれを敵に回せばこの上なく厄介なことになるという、まだ双方が会敵してさえいない時点ですでに、およそ考え得る限り最悪の戦況だった。


 こうなると当然、マルス・ミネルヴァ両伯の脳裏に、一つの疑念が浮かび上がる。


──この会戦は、最初から仕組まれていたのではないか?──


 この疑念が、本来直接対決以外に道のない、両軍の足を止めた。


 両軍はすでに、弓を引けば矢が届く距離まで接近して睨み合っている。


 両軍の背後には遠く、高い丘の上にさらに高く積み上げた故郷の城が、これまで越えて来た丘陵の起伏の向こうに見えている。


 ミネルヴァ伯ルイ・マルシャンは、陣中から声を挙げた。それは常に冷静沈着な軍略家である彼にとっては、とても珍しいことだった。


「私は本来、大声をあげて味方を鼓舞し、兵の士気などという曖昧なものを頼りに戦うやり方を好まん。そんなものに頼るくらいなら戦うべきでないとさえ思う。

 だが、今私は、相次ぐ不測の事態に兵糧を失い、卑劣なる奇襲に疲れ果て、何もかもを失おうというこの上に、それでもなお自分の中に灯っておる、熱の正体を見た。

 これこそが、我が郷土を、領民を、そしてメルクリウス選帝侯国の将来を想い、これを守り、これを栄えさせんとする、愛の炎である!

 者共! 今一度だけ、振り返れ! そこに見える城砦こそが、我が祖先より代々、この決戦の地からも見ゆるがごとく、高く高くそびえ立つ、我らが故郷の(しるべ)である!」


 と、ルイ・マルシャンは兵たちの中から、期待したのとは異なるどよめきが起こったのを聞いて顔をしかめた。


「閣下……後ろを……」と隣に控えていた小姓が遠慮がちに声を漏らした。


 振り返ったルイ・マルシャンは言葉を失った。


 丘に隠れた城砦の根元から、墨を飛ばしたような黒煙が、朦々と上がってその城砦を覆い隠しているのである。黒煙は度々その麓に燃え盛る、紅蓮大紅蓮の猛火から、迸る金粉の火の粉さえ巻き上げて、城砦を舐め尽くしている。


「馬鹿な……」


 ◇


 ◇


 ◇


 マルス伯エルンスト・ヴィルヘルム・ヴォルフは、軍の先頭に立つと、兵に語りかけた。


「我が忠烈なるマルス軍に告ぐ。儂はこれまで、このような得体の知れぬ戦況に出会(でくわ)したことはない。

 前には、身の程も知らず次期選帝侯を僭称(せんしょう)するミネルヴァ、後方には卑劣にも我らの糧秣を盗み陣を敷くウルカヌス。

 我らは、史上類を見ぬ、厳しい戦いに晒されるであろう。だが、烈士たちよ、後ろを見よ。

 これまで越えてきた険しい道程の先に、しかと立つ、我らが故郷、マルスの雄々しい城砦の威容を。

 そして想いを馳せるのだ。あの城砦の麓に広がる、マルスの豊かな大地を。我々の土を!」


 兵たちがそれに応えて鬨の声を挙げんとしたまさにその時、後方から一騎の早馬が、一目でただ事ではないと分かる血相で駆け寄せて来た。


「伝令! 伝令! 我が、マルス直轄領が……!」と伝令はそこで言葉に詰まった。


「何だ! 早く言え!」伯爵の側近が叱り付ける。


 伝令は、そのことをどう表現して良いか、というより、その出来事をどう解釈して良いか、悩むような素振りを見せた後で、言った。「マルス直轄領の土地、実に8割が、買収されました。マルス直轄領の土地は……」とまた伝令は言葉に詰まり、懐から一枚の書面を取り出した。あくまで書面を読み上げる体裁にでもしなければ、言うに耐えないと考えたためであろう。


──「マルス直轄領の土地は既に、その所有権のほとんどがマルス伯のものではない。マルス伯は、選帝侯位継承という私欲のため、これ以上マルスの負担を強いるのであれば、直轄領8割の土地を所有する、地主の承認を得るべきである」──


「どこのバカだ。我がマルスに経済戦を仕掛けようなどという貴族は」


「聞いたこともない男です。貴族かどうかも……。アレッサンドロ・ディ・カリオストロ……」


 軍の中で、1人、おもむろに馬首を翻す者があった。


 それを咎めて、マルス伯の側近は怒鳴りつけた。「どこへ行く! スカルピア子爵!」


 前ウルカヌス領主スカルピアは、同情するように笑った。


「ハメられたんですよ。我々は。おそらくマルスだけではない。ミネルヴァもだ。

 マルスかミネルヴァ、どちらか勝った方が次期選帝侯だと信じて、我々は地図に駒を並べていたワケですが、おそらく、それが乗ったテーブルごとひっくり返ることになる。

 皆さんも、よくお考えになった方がいい。ひっくり返った世界での、身の振り方というやつを」


 ◇


 ◇


 ◇

 

 東の空から昇りきった太陽が、ヴェスタ回廊南に広がるオルクス湖を照らすと、睨み合うマルスとミネルヴァ、森から戦況を窺う野党連合、丘から見下ろすウルカヌスは、湖上に2人の人物が立っているのを見た。


 1人は、まだ幼い少女だった。着ているものこそ派手ではないが、血色の良い肌と、青い瞳に確固とした意志の光をたたえ、腕を組んで堂々と立っている。


 また1人はひょろりと背が高く、黒い背広にグレーのベストを着た、どことなく品のある、涼やかな顔つきの男である。


 男は高らかと宣言した。「控えよ。次期【神聖皇帝】陛下の御前である」

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