7.全てを寄越せ
ミネルヴァの軍勢がその直轄領を出発したのに5日遅れ、マルス陸軍もヴェスタ回廊を目指して発進した。
双方の出兵には、情報の伝達速度に由来する以上の時間差があったが、これはマルス・ヴェスタ間よりもミネルヴァ・ヴェスタ間の距離が長く、ミネルヴァの軍勢がヴェスタ回廊に到達するまでの時間的猶予を、周辺所領からの徴兵に充て、自軍の兵力を最大化するマルス側の戦略的判断だった。
一方、ミネルヴァは、マルスが数に頼んだ戦略に出ることを予期、騎兵戦力を全速力で先行させ、地形の確保を優先した。斥候約50に続いて工兵約300をさらに先行させ、地形の偵察及び工作にあたることとなっていた。
ミネルヴァの優位は当然、エルフとの約定により、ノルド大森林の一部において我が方のみが行動出来るという地形的有利にあった。ミネルヴァの長弓隊は、森の木立に身を隠しながら、平野に展開する丸裸の敵軍を滅多打ちに出来るという寸法である。
加えて地形的特性上、敵騎兵による迂回の気遣いもなく、警戒すべきは重装騎兵、重装歩兵による数に任せた正面突撃であるが、南にあるオルクス湖より水を引き、地面を泥濘化させることにより、敵騎兵・歩兵戦力の機動を削ぎ、陣形を乱す算段を立てていた。
狭隘な地形に敵を誘い込み、重武装の大軍を破る作戦は、過去の世界においても例えば百年戦争の一局面、アザンクールの戦いなどで見られるが、その際、イングランドは7000の寡兵で20000のフランス軍を破っている。
そこにきて、ミネルヴァはこの戦いに陸上兵力の大部分、実に2万を注ぎ込んでいた。
ところが、ミネルヴァは先遣隊がノルドの森に足を踏み入れてからしばらく経った時点で、早速出鼻を挫かれることとなる。
その夕暮れ、先行していた斥候、工兵合わせて350が、瞬く間に壊滅したと逃げ帰った斥候から報告を受けたためである。
「野盗連合です!」斥候からの報告に、回廊手前で陣を敷いていたミネルヴァ本隊はにわかに混乱した。
「馬鹿な……」
今回は、ミネルヴァ、マルスの本隊が激突する決戦であり、その戦場がヴェスタ回廊であることはすでに周知されていた。そこらの城塞を落としたついでに周りの集落をふらりと襲うような掠奪部隊とは訳が違う。
当然、森に巣食っていた盗賊も、何万という大軍との衝突を避け、拠点を移したものとタカを括っていた。
ミネルヴァ伯ルイ・マルシャンはわずかに目を細めてから、落ち着き払って「数は?」と確認した。切れ長の目をした四十格好の背の高い男である。
「敵は林内に展開し、視界が制限されているため定かではありませんが、丘に登った工兵の言うところによると……」斥候はその先を一瞬ためらった。「3000です」
伯爵の周囲にどよめきが起きる。
2万の兵で3千の野盗と戦うということ、それのみを見るならば、恐れるほどのことではない。しかし、今はマルスとの決戦前夜、加えて相手は林内の勝手を知り尽くした野盗である。戦うならばそれなりの損害を覚悟しなければならない。
一方で、すでにこの会戦は周知されており、ここでの退却は敗北を意味する。
「使者を出せ」とルイ・マルシャンは言った。
周囲が疑問の視線を投げかける。「使者……ですか?」
「林内に彼我いずれにも属さぬ3000の兵力がある。ならば、それはそれとして利用すべきだ。褒美は幾らでも取らすと伝えろ」
斥候は使者を引き連れ、早馬を駆ってまたノルドの林内へ消えたが、1時間と待たず舞い戻って来た。それも気の毒なほど顔を腫らして。
顎が外れたか歯が砕けたか、ろくに喋ることもままならぬ使者は、一通の書簡をよこした。ルイ・マルシャンはそれを受け取ると、中身を広げてランタンの火に照らし、一通り目を通して真ん中から二つに破り捨てた。
──望む褒美を寄越すというなら、下記のものを用意しろ。
『ミネルヴァ伯領の全て』
領有する城砦、土地、全ての田畑、金、酒、女、全て寄越せ──
ルイ・マルシャンは言った。「払暁と共に全軍出撃。野盗もろとも、マルスをすり潰せ」
◇
◇
◇
「ヤツら、宿営の準備が整ったようです」と手下の1人が言った。
ゴドーは鼻で笑う。「長旅でお疲れだろう。ここで一発、喝を入れてやろうじゃねえか」
矛を担ぐゴドーに、馬上弓隊の手下たちが続く。「待ちくたびれたぜ」
「段取りはいいな。一発叩いてすぐ戻れ。俺は本陣に斬り込む。朝まで交代でそれを続ける。適当に間を開けるのがコツだ。出来るだけ殺すな。手負いを増やして救出と手当てでさらに人手を削ぎ、敵の士気を下げるんだ」
手下の1人が生唾を飲んだ。「えげつねえ……」
「腕力だけで喧嘩をするヤツぁ三流だ。バカはすぐ死ぬ」ゴドーは口の端を吊り上げた。「一流は当然腕力も強い。だが頭もそれなりにキレる。そして何より慢心しない。
世の中には、俺より頭のキレる奴もいる。俺が知ってる限りでも1人。嘘とデマカセで全てを煙に巻くような奴だ。
そして厄介なのがもう1人、まるで右から左へものを動かすように、何でもかんでも自分のポケットに入れちまうような奴もいる。
奴らは気まぐれで無軌道だが、必ずこの戦に噛んでくるぜ」
「お頭、嬉しそうな顔じゃないですか」
「先の見えた戦なんてつまらねえだろ。こっから先は悪党の時間だ。何が起こるか想像もつかねえ」
「いよいよ、私の出番だな!」と魔族の女が胸を張った。
「アグ、てめえ、しくじんじゃねえぞマジで」ゴドーがアグの肩に腕を回すと、彼女もゴドーの腰に手を回した。
「任せとけ。だいたい上手くいくことの方が多い」
ノルド大森林の林縁から、馬を駆る一群の野盗の群れが、土煙を巻いてまっしぐらにミネルヴァ宿営へと襲い掛かった。
今次の会戦は、ゴドーによって手引きされたものである。
ノルド大森林とオルクス湖に挟まれたヴェスタ回廊、この狭隘な土地が、マルス、ミネルヴァの境界を狭めていることによって、メルクリウス選帝侯の継承権争いは決定的な決着の機会を失い、散発的な小競り合いを長引かせていた。
この回廊の幅さえ広がれば、必ず決戦が行われる。何故なら、すでに両勢力は泥沼化した争いに疲弊しており、これ以上戦が長引けば、早晩、他の諸侯の台頭を許し、民衆の不満を抑え込めなくなることが目に見えていたからだ。
従って、ミネルヴァはかねてから、ノルド大森林を支配するスノッリ辺境伯に対し、通行を求める交渉を続けていた。
これを知ったゴドーは、このノルド大森林を、しかも一方に有利な条件で、かつそれ自体が自然に見えるよう、エルフを通してミネルヴァを唆し、この緑豊かな地獄へと引き込んだのである。
ミネルヴァ伯ルイ・マルシャンというのは、奇策を弄して戦うことで名の知れた人物だった。彼がどういう手段を用いるにせよ、陸軍力で勝るマルスを相手取るにあたっては、なんらかの工作を仕掛けるだろうことも容易に想像出来た。
そうなれば、まず少数の工作部隊を派遣するはずだ。全体の動員数で伯爵領には敵わなくとも、分割された部隊を相手にとれば、十分渡り合える。
ゴドーはこの会戦に臨むにあたり、領地全土で略奪兵を襲っていた野盗を集め、今林縁に集まった勢力は2千人にのぼった(ゴドーの知らぬことだが、ミネルヴァの斥候は恐れのあまりこれを誤認し、過大に報告していた)。
何より、ルイ・マルシャンというのも、優れた軍略家などと呼ばれているが、ゴドーの目から見れば、所詮貴族のボンボンだ。敵が朝まで待ってくれると思っている。そして……とゴドーはふと古賀のセリフを思い出した。
──騙すなら、相手は悪党に限る。彼らは自分が騙す側だと思っているから、自分が騙されたと気付くのが遅い──
不意に白んだ視界を取り戻した時、ゴドーとアグがいたのは天幕の中だった。身構えながらランタンに火を灯したが、中に人はいない。代わりに、干し肉やぶどう酒の樽、軍用の堅パンなどといった食糧が詰め込まれている。
「本陣じゃねえだろここ」とゴドーは軽めに抗議した。想定の範囲内ではある。
周囲では、突然の夜襲に混乱した兵たちが何か喚き合う声と、慌ただしい足音、具足と得物のたてる音がそこら中に鳴り響いている。
「思い出してみたらな、そのホンジンってのがどこか聞いてなかった」アグはまるで自分には何の責任もないというふうに答えた。
「いや、言ったろ」
「お前が言ったかどうかと、私が聞いたかどうかは別の話だ」
「だったら聞いてねえ方が悪いだろ」とゴドーはうんざりしながらも、ふうとため息を吐いて気を取り直した。「まあ、いい。食糧庫ってのは悪くねえ。ゴブリン使って根こそぎ運び出そうぜ」
アグはそれを聞いて笑った。「ふふっ。悪党め」
「『悪い』ってことを楽しめるようになっちまったら、てめえも悪党の仲間入りだぜ?」
「そうか。だったらお前、責任をとれ」
「ねえよ俺に責任なんか」
「私はずっとお前について行くからな。お前が嫌だと言っても」アグは地面に魔法陣を描く。踏み固められた硬い地面が沼のように暗くランタンの光を照り返したかと思うと、アグのゴブリンが、2匹、3匹とそこから這い出した。
「マジで勘弁してくれ……」と呟きながらも、ゴドーは自分のセリフに思ったほどの真剣味が宿らなかったことに驚いた。
アグはまた、ふふんと鼻で笑いながら、ゴブリンたちに、「ここにある食べ物をな、全部持って行くぞ」と指示した。
ゴブリンたちは頷いてから、何か言葉を待つように、揃ってゴドーの方へ目を向けた。
「多少つまんでも構わねえ。ただ、ここは敵陣の真っ只中だ。つまみ食いしてる間に殺されねえよう気を付けるんだな」
それを聞くと、ゴブリンたちは喜び勇んでそこにある食い物に片っ端から手をつけた。
「さて、こっからが本番だぜ」と言うゴドーの裾を、アグが掴んだ。
「お前、死ぬなよ」
ハハッ! と笑い飛ばしてゴドーは食糧庫を出ると、矛を担いで声を上げた。
「俺が【喧嘩屋】キトラ・ゴドー様だ! 雑魚ども! てめえらの全てを俺に寄越せ!」




