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8.あなたが信じてくれるなら

 夜風のように忍び込み、金品を盗んで朝霧のように消える。それが泥棒の粋なのだと久遠は考える。


 ウルカヌス領主スカルピアの屋敷は、街の北東、市壁のすぐ内側にあった。何代か前の領主が『おおよそ無限機関』の騒音に耐えかねて、街の外縁に建てさせたものである。


 高さ2メートルほどの石塀に囲まれた敷地には、夥しい衛兵や憲兵が詰める兵舎があり、敷地の中央に堅牢な石造の領主館、それに隣接する北側には高い塔がそびえ、眼下にウルカヌスの街を見下ろしている。


 久遠は苦もなく屋敷の中に忍び込み、合図の時を待っていた。


 スリをするのも、仕事先に忍び込むのも、根本的には変わりがない。相手の注意が及ばないところが有ればそこから攻めるが、それが無いなら作ってやればいい。


 ドワーフたちは今、屋敷の塀の外を取り囲み、正門を挟んで憲兵たちと押し問答を演じている。憲兵の気を引くためだ。


 屋敷の中では、何人もの使用人や憲兵たちが、何か慌ててやり取りしながら、右往左往している。その大広間に接する一室の梁に、久遠は潜んでいた。


「安っぽい挑発に乗ってんじゃねえよバカ!」と声を張るのは、セルピナを拐った兵隊たちのリーダーと見える男だ。「ネズミが入り込むかもしれん。塔を固めろ!」


「よしよし、塔ね」天井の梁の上で、久遠は呟いた。セルピナは北側の高い塔に囚われている。思った通りだ。図面を頭の中に描く。塔はこの屋敷に接して建てられている。入り口は屋敷の中に通じているから、そこを固められれば、後は外から登るしかない。


 久遠の潜む天井に巡らされたパイプから、真っ白な蒸気が勢いよく噴き出した。蒸気は瞬く間に部屋全体を覆い、広間へと広がっていく。久遠がパイプのネジを緩めておいたのだ。


『おおよそ無限機関』から、蒸気を街へ供給するパイプを塞ぐと、行き場を失った蒸気は出口を求めてこの緩んだパイプから噴き出す。これが作戦開始の合図だった。


「何だ?」「おい、何が起きた!」屋敷がまた一層の恐慌に陥ろうとする一瞬を見逃さず、久遠はその蒸気に紛れて声を上げる。


「火事だ! ダメだ、火の手が速い! 外へ出ろ! 全員、外へ出ろ!」


 屋敷の扉が勢いよく開くのが音で分かった。ばたばたと忙しない足音が、その扉めがけて殺到する。


 そうする間にも、濛々と立ち込める蒸気は瞬く間に屋敷中を埋め尽くしていく。


「私は塔へ行く!」不意に若い男の声が響いた。


 その声が、この問題の中心であるスカルピア子爵のものであると知ったのは、憲兵の長がそれを制止したからだった。


「冗談でしょう、子爵。この混乱に乗じて、奴ら何を仕掛けてくるか分かりませんよ」


「塔にはセルピナがいる」


「貴方まで死んじまったら元も子もない。戻って下さい」


「ならん!」と言うや、子爵は制止を押し切り、数名の兵士を引き連れ塔へ向けて駆け出してしまったようである。


 憲兵の長は、盛大に舌打ちを打った後で、「まあいい。あの色ボケが死んだら、もう少しマシなバカが来ることを願うだけだ」と呟いて、屋敷に残った者たちに、避難を指示した。「敷地をくまなく巡回しろ。屋敷に入ったネズミも塀の外には逃げられん」


「一石二鳥だ」久遠は梁を伝い、換気窓から外へ出ると、そのまま外壁の石組みに指をかけ、屋根によじ登って北側の塔まで走った。


 塔を見上げる。窓は高い位置に取り付けられ、ロープの鉤は届きそうにない。塔の北側に回り、また石組みの隙間に指をかけ、久遠は塔を登り始めた。巡察が混乱するこの機を逃してはならない。


 地上は、ドワーフの包囲と久遠たちがでっち上げたボヤ騒ぎに混乱し、屋根の上を見咎める者はいない。


 窓から漏れ出すおびただしい蒸気に包まれて、塔を登る久遠には、右も左も判然としない。ただ、深い闇の中に、混乱した憲兵と、使用人たちの喧騒が徐々に遠く、響き渡るばかりである。





 ◇


 ◇


 ◇





 窓の外に遠く、悲鳴と怒号が飛び交う。


「一体何が……?」とセルピナは呟いた。塔の窓の外は、街の男たちと領主の部下の灯す松明の火が、蛍火のように微かに飛び交っていたが、やがて霧に包まれてそれらもひどくおぼろげになってしまった。


 不意にドアをノックする音が聞こえ、「クオン」という声が喉元まで出かかったが、セルピナはそれを堪えた。


「入るぞ」と言う声は、クオンのものではない。


「アンタが……」セルピナは、開いたドアの向こうに男の姿を見て、それがウルカヌス領主スカルピア子爵であることをすぐに認めた。


 濃紺のジュストコールには煌びやかな刺繍が施され、よく磨かれた革の靴には一点の曇りもない。ブロンドの豊かな髪と、栗色の瞳を持った男の目は、涼やかな眼差しを彼女に注いでいる。想像していたよりも若い男だ。


「手荒な招待になってしまい、済まなかった」


「こんな塔の上に閉じ込めるなんて、まるでお姫様じゃないか」と鼻で笑う。「下では随分な騒ぎだ」


「火災があったと騒いでいる」


「それにしちゃ、アンタ随分落ち着いてるね」


「ハッタリだ。ネズミが忍び込んで、蒸気の通るパイプに細工をしたんだろう。どの道この視界の中でネズミ一匹探すよりは、ここで君を抑えておいた方が賢明だ。私はね、何もこの領地の利権と反乱の抑圧のためにこうして君を捕らえているわけじゃない。純粋に、惚れたのだ」


「は?」セルピナは目を丸くして口を開けた。


「ウルカヌスの視察に出向いた時だ。『無限機関』の側の坑道から出て来た君を見た。土と魔物の返り血に汚れた君の横顔を見た時、私は、なんと美しい女かと感じ入ったものだ。

 着飾ることしか能の無い、貴族の女など比ぶべくもない。自らの足で立ち、自らの腕で戦う女の姿にこそ、私は気高い魂を見た」スカルピアの目は恍惚として、ここではないどこか架空の空間を見ているようだった。


「だから、部下に拐わせて塔に閉じ込めたってかい?」セルピナは子爵を睨む。


「これも私の立場を考えれば、仕方のないことだった。私のそばにいろ。セルピナ。不自由はさせん。ドワーフの男に無いものを、私は全て与えてやろう」


「要らないね」とセルピナは嘲笑った。「私には、心に決めた男がいる。悪いがこればかりは何を積まれても代わりにならない」


「ならば、その男を私が打ち負かしてやろう。男の価値は、力だ。ただ腕力だけではない。財力、知力、そして権力だ」


「強い男に女が惚れると思ってんのは、男だけさ」


 彼女がそう言った瞬間、スカルピア子爵の頭上をひらりと翻って、瞬きする間もなく縦一文字に一筋の閃光が走った。それは、彼女がクオンに渡した、魔石のペンダントである。それと同時に、子爵の頭で何か硬いものが弾けた。


 天井の梁から飛び降りたクオンが、屋根の瓦で子爵の頭を殴ったのだと気付いたのは、「クオン!」とセルピナ自身が声を上げた後のことだった。


 見上げた天井にはポッカリと穴が空いて、そこから星の瞬くのが見える。一体どうやったのかは分からないが、久遠は屋根の瓦を外し、天井に穴を開けて忍び込んだのだ。


 子爵は小さく悲鳴を上げてその場に膝をつく。


「セルピナ、君を盗みに来た!」クオンはセルピナの手を握る。


「バカだね。何キザなこと……」と言いながら、セルピナは自分の鼓動が高く脈打つのを感じた。


 と、異変を感じたものか、部屋の外、塔の階段をバタバタと駆け上ってくる足音が聴こえた。


「ぐ……」と呻いた子爵が奥歯をきつく噛みしめながら、よろよろと立ち上がると、「曲者だ! 逃すな! 殺せ!」と喚く。


「子爵、悪いけどね、私は強い男が好きなんでも、金持ちが好きなんでもないんだよ。ただ、好きな男が好きなのさ」セルピナはクオンに片手を握られたまま、もう片方の手で子爵の腰に提げた剣を鞘から引き抜く。そうする間にも、ドアの向こうに兵士たちが殺到していた。「私を閉じ込めて、この子爵の嫁にしようって? やれるもんならやってみな! 私の(みさお)は岩より硬い!」


「セルピナ、勇ましくて、とっても素敵だ」とクオンは言う。


「何バカなこと言って……いつまで手え握ってんだい!」そう言った瞬間に、握った手を強く引かれて体勢を崩す。「ちょっと……!」


 クオンはそのまま窓の鎧戸を蹴破り、窓枠に立った。


「飛ぶよ!」クオンは笑う。


「ウソだろ……?」


「君が信じてくれるなら、泥棒は空だって飛ぶ!」


 セルピナはクオンに飛びついて、そのまま固く抱きしめる。「バカ……」


「そのまま僕を、捕まえてて」


 そうして2人は抱き合ったまま、唖然とする子爵や兵士たちを塔の上に残し、深い闇の中へ、真っ逆さまに落ちて行った。





 ◇


 ◇


 ◇




 アラクネという蜘蛛の魔物が吐き出す糸で織った布は、梃子で引っ張っても裂けないそうである。なるほどそれも伊達ではないようだ。


 エルフの道具袋に畳んで詰めておいたその布は、袋から出した瞬間に風を受けて大きく開き、久遠とセルピナを運んでゆっくりと空を滑って行った。


「射ろ! 射ろ!」と叫ぶ憲兵を、領主のスカルピアが塔の上から制した。「止めろ! 落ちれば彼女も死ぬ!」


 アラクネの布で作ったこのパラシュートは、ディスカウがくれた胸当てに結びつけられており、2人分の体重を支えるには、肋骨の骨折で済めばまだマシという代物だったが、憲兵のリンチから彼の身体を守ったセルピナの魔石が、これを軽減してくれることに久遠は賭けていた。


「クオン、アンタぶっ飛んでるよ」久遠の身体にしがみついたまま、セルピナは言った。


「ご覧の通り」と久遠は笑う。塔から飛び降りてパラシュートが開くまでの間、いや、開いてからもしばらくの間、セルピナは叫びっぱなしだった。「『吊り橋効果』って知ってる? 不安や恐怖を感じると、そのドキドキを、恋のドキドキと勘違いして、その時一緒にいた人を好きになっちゃうんだって」


「そんなことする前から、私はアンタが好きだよ。たとえ、泥棒だったとしても」


 久遠は口の中が変な感じになるのを味わいながら、パラシュートの紐を繰る。


「もうすぐ正門を越えて、着地するよ。離さないでね」


 背中に回ったセルピナの腕に力がこもり、肩に乗っていた彼女の顎が動いて、その唇が久遠の頬に触れた。 


「地上についても、絶対離さないからね。覚悟しなよ」 


 塀を越えた先、久遠は馬車の幌に照準を定め、足から降りる。久遠とセルピナは、その上に折り重なって倒れ込んだ。


「久遠! やりやがった!」


 後堂の歓声に応える間もなく、セルピナが強く久遠を抱きしめ、唇を重ねる。その上から、パラシュートがふわりと包み隠すように、彼らを覆った。


「追え!」正門の向こうから怒声が響く。


「盛り上がってるところ悪いが、出るぞ!」歓喜に満ちたプライの声が、ドワーフたちに撤退を告げた。


 馬車が進み出すと、その周りを囲んで、馬を駆る5人のドワーフが勝鬨(かちどき)を挙げながら土煙を巻き上げて進む。


「ケツは任せろ!」


 殿(しんがり)に立った後堂が馬上から弓に矢をつがえ、門を出ようとする追手の馬を狙って射る。


 倒れた馬に足を取られた後続が、2人、3人と錯綜して倒れた。


 久遠とセルピナは、幌の上から馬車の荷台に滑り込む。


 幌に星明かりも遮られた荷台の中で、セルピナは久遠を押し倒す。「泥棒はもう廃業だね。アンタには夜、他にすべきことがある」


 そのままほとんど力尽くに、久遠を抱きしめて口付けをする。すごい力だ。


 久遠は、溺れる者がやっとの思いで水面に顔を出したように短く息を吸い込んで、「すぐ着いちゃうよ。それに、外から見えちゃう」と形ばかりの抵抗をする。


「そんなの、構ってらんないよ。私は、アンタが好き」そう言ってセルピナはまた、強引に唇を合わせる。


 戛々(かつかつ)たる馬蹄の響きと、激しく揺れる荷馬車の闇の中で、2人は互いの唇を貪りあった。


 馬車がその速度を減じて停まった時、「あの、着いたんだけど、中見ても大丈夫? 服着てる?」と、馬車馬を駆っていたプライが遠慮がちに尋ねた。


「防具の強度を、調整してもらわなくちゃ」と久遠は言った。胸当てを留めていた革のベルトが、セルピナの剛力で引きちぎられたからである。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ロマンチックな話だけど毎回オチをつけるの素晴らしい [一言] それはもう流鏑馬というよりパルティアンショット
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