1.札束と異世界
意識を回復した時、人の気配を感じて目を開けるのをためらった。もう少し夢の世界に微睡んでいてもいいように思えた。
目を開けば、何らかの現実に直面せねばならない。
次に滞在するホテルの手配だとか、リストの整理だとか、金の置き場所だとか……、古賀はここまで考えてハッと目を開けた。
「金っ……!」
しかし、自分の金はどうなったのか、という彼の人生で最も重要な疑問さえ、次の瞬間には吹っ飛んでしまった。
「ここは……、どこだ?」
そこは朽ちかけたあばら家の中だった。壁に空いた穴や、木板の隙間から光が漏れている。どうやら今は昼間、このあばら家は割り合い人通りのある場所に建っているらしい。往来の喧騒が壁越しに聴こえてくる。
彼は積まれた藁の上に眠っていたらしかった。袖口や襟元がチクチクする。ふと辺りを見回して、古賀はぎょっとした。隣に二人の男が眠っている。と、それから徐々に、昨夜(?)のことが思い出された。
隣に寝ている男の一人は、古賀の商談が決まりかけた時に、マフィアに連れて来られた大柄の日本人だ。手首には手錠があるが、両手の間の鎖が切れて、趣味の悪いブレスレットみたいにぶら下がっている。
もう一人は天井裏にいた小柄な青年だ。「ギリ大人です」という本人の言葉を信じれば、彼を青年と表現すべきだろうが、背丈といい、顔つきといい、とても大人には見えなかった。
古賀は体を起こして、「おい」と大男の方に声をかけた。
男は──そう、彼の名前はゴドウというのだった──、煩わしそうに唸って寝返りをうった。肩を揺すろうと手を伸ばした瞬間、その手首が驚くべき速さで掴まれ、古賀は冷や汗をかいた。
「何だてめえは……」と古賀を睨みつけ、それからはたと思い出したように、ゴドウはつまらなそうに呟いた。「ああ、昨日の奴か」
「取り敢えず、手を放してくれ」と訴えると、ゴドウは指を開いたが、握られた古賀の手首は鬱血して青くなっていた。
「何でここにいる。……ん? ここ? おい、ここはどこだ?」
「私も聞きたいね」
「もう一人いるな。何だコイツ」ゴドウは古賀の隣で寝ているもう一人の男、若い小柄な男を指した。手首から下がった手錠の鎖がかちゃかちゃ音を立てた。
「ああ、天井裏にいた……」古賀が記憶を辿りながら言うと、ゴドウも思い出したようだった。
「ああ、いたな。で、結局何なんだコイツは」ゴドウは立ち上がると、藁の上の柔らかい足場でバランスを崩しながら、分厚い手のひらで、その小柄な男の肩を叩いた。
「痛い!」
静かな寝息を立てていたこの青年が、大男に叩き起こされることを古賀は少し気の毒に思ったが、それからすぐゴドウに苦情を訴える様を見ると、どうやら彼は寝たふりをしていたみたいだった。
「大の大人が2人も揃って、ここがどこかも、何でここにいるかも分からないってわけ?」小柄な青年はため息を吐いた。
「お前、自分のこと棚に上げるなあ」ゴドウは感心するように腕を組んで、その男をまじまじと見る。「それで、お前は何だってあんな狭っ苦しいところに?」
「失礼だなあ。『お前』って言うなよ。あんた、ガールフレンドのこと『俺の女』とか言うタイプでしょ」
「失礼はお互い様だろ。俺は女に優しい」ゴドウはそう言って、質問の答えを促した。
「まあ、いいかこの際……」小柄な男は少し考えるような素振りでそう呟くと、高らかと名乗りを上げた。「僕は天下の大泥棒、久遠 新太サマだ」
「いや、名前は聞いてない」ゴドウは困惑したように顔をしかめる。
「つまり、空き巣に入ってたってこと?」古賀が見兼ねて口を挟んだ。
「それは違う。『空き巣』っていうのは、家主が留守の間に盗みに入る手口だ。大体、僕も色々とポリシーを持ってやってるわけだから……」
長くなりそうだな、と直感した古賀は、話題を変えた。「何にせよ、我々は自分たちの置かれた状況を把握すべきだ。差し当たって、この小屋から出ることに危険はないのか……」
「この小屋に留まっていることにもな」と、ゴドウが付け足した。
「確かに」
古賀は周囲を見回した。古い藁が積まれている以外には何もない。朽ちかけた木板で建てられたあばら家で、引退した倉庫というよりは、現役の廃屋と言った方がしっくりくる。
古賀は壁に空いた穴に目をあてて、外の様子をうかがった。
「これは……」と言ったきり、それ以上何を言ったらいいのか分からなくなった。
その様子を訝しんだ他の2人も、壁に空いた別の穴から外を覗く。
廃屋の壁に3人の男が貼りついて、穴を覗いている様子は滑稽だったが、それを気にする者はいなかった。
「何だこりゃ……。どういうギャグだ」
古賀はこの時感じた気持ちに、終生名前をつけることが出来なかった。驚きだとか困惑だとかいうものに近いが、その中に幾分か、期待だとか高揚感のようなものの混じった、しかしそのどれとも少しずつ違うような、不思議な感覚だった。
「これは発見だ。あまりに荒唐無稽なものを見せられると、こういう気持ちになるんだな」
石造の、背の高い家屋が押し合うように並んでいる。壁の穴から街の全容を掴むことは出来ないが、同じような家々がひしめき合っていることが想像出来た。土地が狭く人口が稠密なのだろう。古賀たちのいる小屋は、小路に面しているらしく、往来する人通りが見える。彼らはごく簡素な衣服を着ていた。男も女も、粗末な布のワンピースみたいなものを着て、腰を紐で結んでいる。
最も驚かされたのは、その行き交う人たちの、容貌である。
地中海系のコーカソイドが多いことはまだいい。時々耳の長く尖った人たちや、著しく背の低いずんぐりした体躯の者が連れ立って通るのも、まあ、まだ理解の範疇だ。しかし、犬猫を無理矢理人型にしたような者たちや、蜥蜴を立たせたようなのがうろついているのは、どう好意的に解釈しようとしても、支離滅裂の誹りを免れない。
「俺はてっきり、スクラップ工場だとか、港の廃倉庫みたいな所に連れて来られたもんと想像していたが……」ゴドウが言った。
「外国とかいうレベルでもない。何だこれは。テーマパーク?」
「異世界だ……」クオンとかいう泥棒の青年が呟いた。
「イセカイ?」ゴドウがクオンを睨んで顔をしかめた。
「僕たちは、前の世界で死んだか……、少なくとも死にかけた。それをきっかけに、別の世界に飛ばされて来たんだ」
「異世界……」何か聞き覚えのある言葉だな、と古賀は考えてから、ボスとの商談で自分がそんなデマカセを言ったことを思い出した。裏金の飛び交う闇の金融市場の比喩として持ち出した言葉だ。あまり嘘をつくと、こういう罰を受けるのかもしれない。「これは、なんというか、地獄にしては長閑だ」
クオンが不意に壁の穴から顔を離したと思うと、だしぬけに声を上げた。
「ステータス・オープン!」
………………
「あ?」ゴドウが苛立ち気味に眉をひそめてクオンを睨んだ。
「いや、異世界に来たら、普通こう言うんだって」クオンは顔を赤くして言い訳っぽく呟いた。
「で、何か分かったか?」と古賀が庇うように言うと、クオンはばつが悪そうに、
「まあ、今後に期待って感じかな」と答えた。
「俺たちが今、この小屋を出たらどうなる?」
ゴドウの問い掛けに、古賀は目頭を押さえて考えた。
「イタリアとかスペイン系の顔立ちが多いように見えるが、私たちがモンゴロイドだってことは、猫人間に比べれば些細な問題だ。それより服装だね。どういうわけか、我々は揃って黒のスーツを着てる。前の世界の価値観から言っても、そう質の悪いものじゃない。麻布の粗末な服しか見たことのない人からしたら、宇宙人か何かと思うんじゃないか?」
「しょうがねえ。夜まで待つか? それまでここに誰も入って来ないのを祈りながら。騒ぎになるのは御免だ。お前らだってそうだろう」
「それには重大な問題がある」とクオンが言った。「僕はメチャクチャお腹が空いてる」
「方法を考えよう。永遠に隠れ続けられるわけじゃない。騒ぎになるのは我々が何者か分からない場合だ。服装だとか、文化や言語の違いに理由がつけば、騒ぎはある程度抑えられる」
「異世界からやって来ましたって説明するわけ?」
「人は必ずしも真実に納得するわけじゃない。相手が納得出来るなら、嘘っぱちで構わない」古賀はそう言って笑った。「そう、例えば〇〇国駐箚特命全権大使とか。飛び切り位の高い外交官を演じるわけだ。『身分が違いすぎて、関わるのは面倒臭そうだぞ』と相手が怯むくらいの」
「悪い顔するなあ」とクオンが漏らした。「まあ、街に溶け込めさえすれば、あとは何とかなる。幸い僕には、当面しのげるだけのお金はあるしね」
クオンは内ポケットから札束を取り出して、「分けてあげないよ」と自慢気に見せびらかした。
「抜け目ない奴だ」ゴドウも内ポケットに手を入れると、クオンと全く同じものを取り出した。
古賀もそれにならって、内ポケットに入れた札束を床に放った。ゴドウがマフィアの書斎で暴れている時に、ポケットに詰めたものだ。「同じものが、ポケットというポケットに入ってる」
「俺もだ」
「僕も」
3人は声を出して笑った。
「で、これはこの世界で使えるのか?」とゴドウが言った。
……………………。
「ヤバいな。マジで」3人は声を揃えた。