2.ドワーフの女
「ヤツらが憲兵じゃなきゃ、バラけたところを1人ずつ潰して回るんだけどね」セルピナは息を切らしながら、忌々しそうに吐き捨てた。
「血の気が多いなあ」
改めて彼女を見ると、頬や体つきはぷっくりして一見可愛らしいが、その奥にはただならぬ筋肉の気配がある。武具職人の料理上手な奥さんが、猪の首を素手で折るというのも肯けた。それを料理と呼ぶべきかどうかは別として。
彼女の手を引き、狭い路地裏を右左、細い方、細い方へと進んで、錆びたトタンの壁の間に隠れた久遠の、聴き耳を立てているそのすぐ側を、武装した兵士の足音が通り過ぎた。
2人は口を押さえて息を殺す。
「どこか、匿ってもらえそうなところはある?」久遠は足音が遠ざかって行く頃合いを見計らって、声を抑えて尋ねた。
「私を匿えば、その人に迷惑がかかるよ」
「多分、家には帰らない方がいい」
「丁度、ここは空き家だったはずだけどね」とセルピナは彼らのすぐ後ろにある2階建の建物を指して言った。
「じゃあ、ちょっとお邪魔しようか」久遠は壁の間から顔を出し、狭い路地を見通した。人影はない。
その隙に空き家のドアノブに手をかけたセルピナが、首を横に振った。「ダメだ、鍵が掛かってる」
「僕にとって、そのことは問題じゃない」久遠はシャツの袖口に仕込んだ工具を取り出して、ドアの鍵穴を見た。
かつての世界で言うと、錠前と鍵の歴史は紀元前4000年のメソポタミアまで遡るが、その基礎となる原理は現代でも使われている。つまり、工業的な規格の違いはあるにせよ、錠前が錠前としてその役割を果たすために必要な構造は、どんな時代、どんな世界でも変わりがないということを、久遠は実際的な方法で学んでいた。
久遠は鍵穴に工具を差し込んで、中の構造を探る。それがカチリと噛み合って回るまで、1分とかからなかった。
「アンタ、何者?」セルピナは訝しげに久遠を見つめる。
「鍵屋さんだと思ってもらえればいい」
空き家のドアを開けると、中は埃っぽかった。窓にはめられた鎧戸の隙間から、わずかに差し込む日光の他に光源は無く、じめじめとして薄暗い。ドワーフの体格に合わせてか、天井は低く、奥には2階へ続く階段があった。
壁は薄いトタンの板だけで、騒音や外気から生活空間を遮断しようという気遣いが見られなかったが、幸い椅子やテーブルといった家具はそのまま残されていた。
「夜は冷えそうだ」と漏らしながら、久遠は手近な椅子に腰掛けた。
セルピナもそれを真似るように、テーブルを挟んで椅子に座る。「この辺りは、そんなに寒くなることもないよ」
「ところで、どうして追われてるの?」
「領主が、私を嫁にしたいらしい」
久遠にはそれが良いことなのか悪いことなのかよく分からなかった。そして、それをなぜ、人間の兵隊が請け負っているのかも。
「アンタこの辺の人間じゃないね」とセルピナは久遠の疑問を察したように言った。「どこから来たの?」
「とても遠いところ。もう、違う世界って言ってもいいくらい」それ以上は説明が難しい、というようなことを、久遠は言った。
セルピナは、久遠にも何か事情があるものと察したらしく、深く追及することはなかった。
「ここの領主は人間だ」
「ここは、ドワーフの街だって聞いたけど」
「確かに家を造って住んでるのはドワーフだ。でも、土地ってのは誰が造ったものでもない。そういうものは、私らにとってみれば誰のものでもない」
「人間の領主のものでも」
「私らにとってはね。自分が造ったわけでもないのに、どうしてこの街が連中のものだと言えるのか、そこんとこは、私にゃよく分からない」
久遠は腕を組んで考えたが、彼女の疑問に対する答えは浮かんで来なかった。
「僕も、世の中の仕組みはほとんど分からない。今は、考えても分からないことより、考えれば分かることを考えるべきかもね。例えば、『領主の兵隊からどうやって逃れるか』とか。
彼らの目的は、君が見当たらなければ諦めのつくようなことなのかな」
「さあね。いつの間にお眼鏡にかなっていたのか知らないが、急に言われたって困る。こっちだって仕事があるんだからさ」
「それはそうだ。それに、結婚したいなら、ちゃんとプロポーズすべきで、追いかけ回すべきじゃない」
「だろ? あいつら、自分が偉いと思ってんのさ。こっちが黙って言うこと聞くのが当たり前だと思ってる」
「それは頭にくるねえ」と久遠が共感を示すと、セルピナは深く頷いた。
「その点、アンタはここらの人間とは毛色が違うね。私が見てきた人間ってのは、みんなもっと気難しい顔をしてた」
「僕はあんまり真面目な方じゃないかもね。人間には、人を傷付けたり、自分だけ得をしようとする時でさえ、真面目な顔をする人も多いから。僕はどちらかというと、そういう人をおちょくったり、イタズラするのが好きだ」
「真面目な顔で追いかけ回す憲兵から、ドワーフの女を逃したり?」とセルピナは久遠の目を覗き込む。
「そう」
「屋根の上から飛び降りたりするのも」
「そういうことかも」久遠はそう言っておもむろに椅子の上に立ち、そこから宙返りして床に降りた。セルピナが歓声を上げる。
「凄いね。軽業師みたいだ」
「昔から器用でね。手先も身体も。それくらいしか取り柄がないんだけど」久遠はなぜか急に、妙な照れ臭さを覚えながら、弁解するようにそう言って、こめかみを掻いた。「何にせよ、これからどうするか考えなきゃ。取り敢えず憲兵はまいたけど、これじゃ一時しのぎだ」
「街を出るしかないか」とセルピナは椅子の背もたれにのけ反った。
「何も悪いことはしてないのに?」僕と違って、という言葉を久遠は飲み込んだ。
「しょうがないさ。世の中にはそういうこともある」
久遠は腕を組んで考えてから、「少し、時間をもらえない?」と尋ねた。
「それはいいけど、どうするつもり?」
「憲兵たちを追い払う」
「どうやって?」
「それはこれから考える。相談する時間が欲しいんだ。僕と一緒に来た人たち……」と、そこで久遠は言葉に詰まった。後堂と古賀、そして久遠自身の関係を、どう表現していいか分からなかったためである。「知り合い……、友だち……? ううん……」
「仲間?」
「ううん……どうだろう」
「どういう人たち?」
「1人は、話が長いけどめちゃくちゃ物知りで、多分、頭が良い。でも女たらしだ。
もう1人は、雑な性格だけど腕っ節が強くて、面倒見もいいかな。でも、女たらしだ」
「女たらしばっかりだね」
「そう。僕はそこに少し腹を立ててる」久遠は後堂がエルフの村で3人の女に手を出したことを、まだ許していなかった。もっとも、後堂も彼の許しを必要としてはいなかったが。「今夜はとりあえずここに身を隠すとしても、食べ物だとか、必要なものが色々あるはずだ。僕が調達してくるよ。それに、もっと情報が要る。多分、僕の連れ合いは、プライに案内されて、街で一番の武器職人の家に向かってるはずなんだ」
「ディスカウ爺さんのところか」とセルピナが言った。
「知ってる?」
「そりゃあ、狭い街だ。一番の武器職人って言ったら、この街じゃ誰に聞いてもディートリヒ・フィッシャー・ディスカウって答えるよ」
そう言って、セルピナはその武器職人の、工房兼自宅への道のりを説明した。そこは街の中央にあった施設にほど近い、鐘楼の隣にあるらしかった。街道のわきから横道に入って路地を辿れば、道のりは複雑だったが、屋根やパイプの上を自由に飛び回ることの出来る久遠にとってみれば、それほどの距離ではない。
傾斜の急な土地に、建物を周密に配しているおかげで、建物の2階に登って窓を開けると、ちょうど手に届くような距離に、隣の建物の屋根の庇が張り出していた。
「これなら飛び移れる」
「クオン、有難いけどさ、私を庇ってるってバレたら、アンタも憲兵に目をつけられるよ」とセルピナは心配そうに眉を下げた。
「屋根の上を飛び回ったことある?」と久遠は尋ねた。セルピナは戸惑いながら、首を横に振る。「僕は好きなんだ。走ったり、飛んだり、よじ登ったりするのが。壁や塀を登ったり、屋根の上を飛びまわっちゃいけない、歩くのは道の上じゃなくちゃいけないと思ってる人たちの頭の上を飛び越える時、僕は自分が自由だって感じるんだ。
君だって、そうあるべきさ。行きたいところへ行き、好きなところに住んで、やりたいことをやるべきだ」
セルピナは、ふふっと笑って、それからふと気付いたように、久遠の上着の裾を指した。
「裾が破れてる」
久遠は裾を持ち上げて、建物の狭い隙間を縫って差し込む夕陽に照らした。
「本当だ。どこかに引っ掛けたかな」
「あちこち走り回ったりするから」と女は呆れたように言う。「夜、来てくれたら縫ったげる」
2階の窓枠に足をかけ、跳ぶ。
瞬発的に伸展した太ももをすぐに縮め、隣の軒先に飛びつくと、その屋根によじ登る。
パイプを渡り、助走をつけて隣の屋根へ、またその隣の屋根へと飛び移りながら、頬に感じる風の冷たさに目を細める。
追い風が背中を押す。
自分がこういう生き方をするのは、この時間が好きだからだと久遠は思う。こうして夕闇の中を駆け抜けている時、彼を縛るものは何もない。
影から影へ、闇から闇へと飛び移り、よじ登り、飛び降り、飛び越え駆け抜けて行く時、彼はあらゆる現実の軛から解放されるのである。
体の求めるままに動き、行きたい所へ行き、欲しいものを手に入れる。久遠の考える『泥棒』とはそうした生き方だ。
街の中央から伸びる螺旋状の街道と、放射状の横道から成る、クモの巣のような通路の頭上には、久遠の目から見れば、家屋の屋根とパイプから成る、また別の規則で(あるいはてんで無規則に)張り巡らされた道がある。
久遠は沈みかけた夕陽に頬が赤く染められているのを感じながら、街の空を滑るように駆け抜けて行った。
セルピナに聞いた通り、背の高い鐘楼を目印に街の中心へと近付いて行くと、向かい側に、兜と交差する剣をモチーフにした看板が玄関口に立てられた工房が見えた。
トタンを立てかけたような質素な造りは他の家々とそう変わりはなかったが、他がバラックのように狭く小さなものであるのに比べると、その建物は倍以上大きかった。
どうやら、ここがディートリヒ・フィッシャー・ディスカウの自宅兼工房ということで間違いなさそうだ。
古賀と後堂は無事、その武具職人に受け入れられたのだろうか、と久遠は一抹の不安を覚えた。どうも、古賀とドワーフは気性が合わないような気がするし、後堂はすぐ暴力に訴える。
「こじれてなければいいけど」と呟いて、久遠は屋根を飛び降りた。
工房の玄関が不意にけたたましい音を立てて開け放たれ、中から鎖帷子を着た兵士が蹴り出されたのは、久遠が飛び降りた地面にしかと足をつけたその瞬間のことだった。
「ガッツリこじれてるじゃん」
玄関を蹴り出された憲兵が3人、何か捨て台詞を吐きながら逃げ去って行くのを見送って、久遠は顔をしかめた。
「何だお前、顔が赤えぞ」後堂は久遠の文句などものともせずに言う。
「これは、夕陽が赤いんだ」と久遠は釈明しながら、なぜ自分の方が言い訳めいたことを言わなければならないのかと不満に思った。
「恋だな」古賀がぽつりと言う。
後堂は目を見開いて、その響きを味わうようにしてから「なるほど」と言った。
「いやいや、やめようよ。女子高生じゃあるまいし」
後堂はにやにやと嫌な笑顔を浮かべて久遠の顔を覗き込んだ。「お前には、説明責任がある」
無いよ、そんなの! と久遠は思ったが、逃げ足に自信のある彼にも、この追及を逃れるビジョンは浮かばなかった。
「まあいい。立ち話もなんだ」とまるで自分の家のように、久遠をドワーフの武具職人の家の中へと招いたのは、ドワーフの測量技師ヘルマン・プライである。




