10.スノッリ辺境伯領姫カテリーナ・イズマイロヴァ、或いは、物語の中の拳銃
目が覚めると、ベッドの上だった。平らではないのに不思議と身体にしっくりくる凹凸や、軽く暖かい羽毛の布団に、自分がすっかり慣れきってしまっていることに後堂は驚いた。
この集落では時間の流れが曖昧に感じられた。いつの間にか、何日とか、何週間とか、日付けを数えることをやめていて、自分たちがこの集落にどのくらいの期間滞在していたのか、3人の悪党は誰も正確に言うことが出来なかった。
ベリト公爵は死んだ。後堂が憶えている直近の出来事はそれだった。記憶を遡ると、恥ずかしい失態がいくつかあった。
2体のトロルを立て続けに倒したことで調子に乗り、「俺1人で十分だ」と公爵に挑みかかって半殺しにされ、結局公爵を倒した決定打はエルフの矢だった。後堂がしたことと言えば、公爵の太腿に折れた段平の刃を刺したこと、矢に射抜かれてほとんど死に身になった公爵を殴り倒したこと、これくらいだ。
その前に、複雑な名前の女、そう、愛称アグのペースにすっかりハマり、まんまと足止めを食ったのも大きな失態の一つだった。
「あの、バカ女……」と呟いた時、初めて後堂は、深いまどろみの沼に浸かっていた片足を引き抜くように、身体のコントロールを取り戻した。腹にもぞもぞと動くものを感じる。
布団をまくって中を見ると、彼の腹の上に頭を乗せたリズが、不思議そうな目で後堂の顔を窺っている。「ばかおんな?」
「いや、お前のことじゃない。もちろん。お前はお利口だ」後堂がリズの頭に手のひらを乗せると、リズは長い耳をゆっくり上下に動かした。
と、自分の腹のことを思い出す。左脇腹の肉を公爵に抉られたはずだ。リズが頭を乗せていて、何の痛みも感じないのはどういうわけだ?
何か、絶妙な角度で痛むところを避けているのか、それとも……「なあ、もしかして、俺は死んでるのか?」
腹の上に頭を乗せていたリズは、また一段と大きくその目を見開くと、後堂の身体を這い上って、胸にその長く柔らかい耳をあてた。「いきてる」
「ああ、なら安心だ」と後堂がリズの頭を撫でた時、騒々しい足音がドアの外からにわかにたって、また騒々しい開け方でドアが開いた。
「ゴドー! 死ぬな!」頭に渦を巻いた角のある女だ。
「うるせえな、お前は。死なねえよ」と後堂はため息混じりに言った。
「本当? 本当に死なない?」とアグは詰め寄る。
「お前、うるせえからちょっと離れろ」と言った時、後堂は久遠から借りた本の主人公に自分を重ねて、ほんの少し共感した。多少若い美人で胸がデカかったとしても、辟易する場面というのはないわけではないようだ。「そもそもお前、いいのかよ。あのベリト公爵にとどめを刺したのは、俺だぜ」
アグは、少し伏し目がちに頷いた。「ベリト様は、戦いに生き、戦いに死すことを望んでおられた。私の見てきた限り、閣下はお前と戦っている時が一番幸せだったのだと思う。私は、ベリト様の本当の右腕ではなかったけど、そのことは分かる」
「そうか」と後堂は呟いた。
「すまんゴドー卿。ちょっと目を離した隙に」不意に、その後ろからルサルカが顔を出す。「加減はどうだ?」
「不思議なことに、絶好調だ。どうなってる? そこそこやられた記憶があるんだが、どうやら、全部治ってる」
「リズの魔法だ」とルサルカは答えた。
「お前が?」とリズを見ると、リズは相変わらず不思議そうな目で後堂を見つめたまま、「なおした」とだけ言った。
「済まないが、あまり詳しいことは言えん。このことが広まれば、リズは世界中から狙われることになる」
「だろうな」と後堂はリズの頭を撫でた。リズは目を瞑り、長い耳を上下する。「ありがとう、リズ」
どうやら彼女には、傷を癒す能力があるらしい。抉れた腹や外れた肩を、一晩で治す力だ。軍事的にも社会的にも、途方もない価値があることは、古賀のように理屈っぽいタイプではなくとも、容易に想像出来た。
「カテリーナ殿下から、言付けを預かっている」ルサルカはあらたまって、何やら丸めた書状を広げた。「『此度の貴殿の戦功に対し、森の民は最大限の謝意と敬意を表する。
ノルド大森林は今後いかなる時も、貴殿に恵みを捧げ、傷を癒し、貴殿の帰りを待つ。
スノッリのエルフは、貴殿の求めがある時は、いかな波高き海、道険しき山が隔つとも、貴殿の元へ参じ、以て護国の大恩に報ずるものである』……」
「ちょっと待ってくれ」この堅苦しい口上がまだ続くのか、と後堂はルサルカを遮った。「つまり、困った時は助けてくれるってことでいいんだな?」
「まあ、平たく言えば、そうだ」とルサルカは言った。
「出来れば、いつも平たく言ってくれ。俺は学がねえんだよ」
「分かった。善処しよう」
多分分かってねえな、と後堂は苦笑した。
「ところで、その殿下は今どこにいるんだ? 結局一度も会わなかったが」他にも聞きたいことは山ほどあった。
ベリト公爵の手下だったアグを放し飼いにしていていいのか? 公爵を雇っていた領主に目星はついたのか? 村の復興は? 今後の侵攻に対する備えは?
いや、そもそもなぜ俺は、そこまでこいつらの村のことを心配しているんだ?
ルサルカはそうした後堂の疑問を察したように口を開いた。
「殿下は今、森を出ておられる。今後ひとまず侵攻の気遣いは無さそうだ。
アグラット・バット・マハラトは、当面この村で預かることにした。彼女はベリト公爵に唆されていたに過ぎず、エルフに対して害意を持ってはいなかった。とはいえ、もちろん、起きたことの責任は負わねばならない。従って、相応の期間、この村のために働いてもらうことにした。これには彼女も合意している。既に、彼女の使い魔が、復興に役立っている」
「良かったな、アグ」と後堂は言った。アグは嬉しそうに何か色々と喋ったが、ほとんど頭に入って来なかった。
それからいくつか質問や世間話をして、ルサルカがリズとアグを連れて出て行った時、ほとんど入れ替わりで久遠と古賀が帰って来た。
「やあ、調子はどう?」久遠がいやにホクホクした感じで言う。本当に後堂の調子を聞きたいわけではなさそうだった。
「すっかり良い。出るぞ」後堂は荷物をまとめながら言った。この村でエルフたちがこしらえてくれた何着かの服を鞄に詰める。「古賀、食い物をいくらか分けてもらえねえか交渉出来るか?」
「いや、もうその辺はどうにでもなる雰囲気だが、どうした? 随分焦ってるな」
「俺たちは所詮、根無草だろ。この辺が潮時だ」
「にしたって、そんなに慌てて出なくても」と久遠が名残惜しそうに言う。
「離れ難くなる。情が移るっつうか」
「後堂は人情派だ」と古賀がからかうように言った。まあな、と話を合わせる。実際、そういう面も無いではなかった。リズやルサルカ、また不思議なことに、アグに対しても、なんとなく後ろ髪を引かれるような思いがある。
後堂にとって、それは初めての経験だった。だが、後堂には、早くここを離れた方がいい事情がある。
「ロドリーゴからせしめた金が泣いてる」と後堂は言った。
「確かに、ここじゃあ、あまりに使いどころが無いしね」と久遠もうなずく。
「『物語に拳銃が登場したら、それは必ず発砲されなければならない』アントン・チェーホフがそう言っている」古賀が言った。
「どういう意味?」と久遠がその唐突さに首を捻る。
「物語に大金が登場したら……」
「その大金は悪党の豪遊に使い果たされなければならないってことだ」後堂は古賀の台詞を途中で奪った。古賀が不満の表情を浮かべる。「それに、まだ発砲されていない特大の拳銃が残ってる」
3人の悪党が村を出ると言った時、エルフたちはほとんど大袈裟と言っていいくらいその別れを惜しんだ。
森の木々にはどの枝にも、金色に輝く髪と白い肌、長く尖った耳を持つ美女たちが並んで彼らを見送る。
悪党3人はそれぞれ、エルフの魔法の道具袋を2つずつもらった。空間が拡張され、中にいくらでも物が入るという魔法の袋だ。1つには山分けしたロドリーゴの金、もう1つにはそれぞれの持ち物を入れた。泥棒の久遠がやたらとご機嫌だったのは、これが手に入ると聞いていたからだ。
それから、向こう一月は持つだろうという保存食や日持ちのする木の実、調味料と香草、薬草や日用品、衣類、毛布、天幕、魔獣の革をなめして作ったという手袋と靴、そうしたものが詰め込まれた魔法の箱が馬車に積み込まれた。
また、馭者がいなくても馬車を引いて教えた道を進むという、とても賢いロバを一頭、彼女たちは譲ってくれた。
エルフたちが寄越そうとしたものは他にも色々あったが、小さなスペースに大量の物を収納出来る魔法の箱(彼女たちはそれを『アイテムボックス』と呼んだが、それは全然特徴をとらえていないと後堂は思う)があるとはいえ、あまり物が多いとかえって把握するのが大変だと考え、これを辞した。
「次はどこへ行く?」とルサルカが聞いた。
「決めてはいませんが、とりあえず、近くの人里へ」と古賀が答える。
「武具が欲しい」と後堂は言った。
エルフたちは地中の鉄を魔法で成形して後堂の鎧や段平を造った。後堂の身体に合わせて誂えたものではあったが、彼女たちには鉄を鍛造する技術が無い。強度が今一つだったのはそのためだ。
「また、勇者になるの?」と久遠がからかう。
「いや、お前ら笑うけどな、あの鎧がなかったら死んでたぞ。この世界にはマジでやべえのがゴロゴロいる」
「なら、ドワーフの街へ行くといい」とルサルカが言った。
「来た!」何が嬉しいのか、久遠が歓声を上げる。
「彼らは武具の製造に特別優れた技術を持っている」そう言って、ルサルカは道のりを説明した。残念なことに、エルフとドワーフは伝統的にあまり仲が良くない。そのために、彼らが交易に用いる転移魔法でドワーフの街へ行くことは出来ないそうだった。
アグはもちろん、アホなので何も知らない。それどころか、後堂を引き止めて最後まで駄々をこねた。
出発する時、後堂は最後に、リズの頭に手を乗せた。出会ってからずっと、世界の全部が不思議で仕方がないという表情をしていたリズだったが、その見送りの時に限って、一目で分かるほど不機嫌にふくれていた。
「お前は俺の弟子として、よく俺の宝物を守った。ベッドの下に隠していた俺の宝物を、褒美にとらす」後堂はそう言って、懐から小さな包みを出し、リズに渡した。
包みを開けたリズは、「わあぁ……」と声を上げると、さっきまでのふくれ面が嘘のように、満面の笑みを浮かべた。それは彼女が初めて見せる笑顔である。
「この顔が見れたら、もう心残りはないね」久遠が後堂の肩に腕を回す。
「やはり、美人は笑顔でいるのが一番だ」古賀もうなずいた。
それは蝶の形をした、銀細工の髪飾りである。
「おもちゃがいいかとも思ったんだが、女はお洒落をしねえとな」後堂はそれをリズの豊かな金色の髪に結い付けた。
後堂の太い指は器用ではなかったし、そもそも女の髪を飾り付けるような経験もなかったから、上手くできたとは言い難かったが、そのことは問題ではなかった。
リズは後堂の脚に抱きついた。「ししょー、かえってきて」
「そのうちな」
「ゴドー!」とアグも声を上げる。「どうして、私には何もない! 私も、何か欲しい!」
「図々しいぞてめえ」後堂は苦笑した。「まあ、そのうち土産でも買って来てやるよ。そのうちな」
エルフたちは思い思いに手を振り、また声を上げて彼らを見送った。
「お前ら、こんな盛大な見送り受けたことあるか?」と後堂は2人に尋ねた。
「あるわけがない」古賀が多少困惑したように苦笑する。
「正義の味方じゃあるまいし」久遠がそう言うと、木の上に咲いていた何かの花(後堂は花の名前など知らない)が、その頭にふわりと落ちて乗った。
◇
◇
◇
「後堂さんが言ってた『特大の拳銃』って、あの髪飾りのこと?」エルフの村を遥か後方に残し、森を抜けたあたりで久遠は聞いた。
「お前、ロマンチックな考え方するのな」後堂は感心したように言う。「全然違う」
「実は私もそれが分からなかった」と古賀が腕を組んだ。
常に何でもお見通しという態度をする古賀にも、分からないことがあるというのが、久遠には愉快だった。
「『辺境伯領姫カテリーナ・イズマイロヴァ』という拳銃に、『森を傷付ける魔法』という弾丸が装填されていた」と後堂は答えた。
「どういうこと?」
「その殿下が森を出たらしい。だから侵攻の心配はもうしばらく無いと。怖気が走るぜ」
はっと気がついたように古賀が呟いた。「殿下が敵を倒すから……」
「『今後あそこに手出しすんのはやめとこう』周りの連中がそう思うような潰し方だ。自分とこの森じゃなければ、そういう戦い方が出来るんだ。エルフのやつらは」
「領主は第三者のフリして、エルフを味方にしようとしてた」久遠はようやく理解した。
「そう。狙われてたのはエルフそのものだ。アイツらは、一人一人が大量破壊兵器なのさ」
「でも、それでどうして、森を出ようって? 僕たちは、完璧味方じゃない」
「いや、拳銃の銃口は、俺に向く可能性があった」と後堂は言った。
その言葉に、古賀はピンときたらしい。「ズルいぞ」と文句を言う。
「俺は別に、『ヤッてない』とは言ってねえからな」
「え、何?」久遠は顔をしかめる。
「俺はエルフの女に手ぇ出してる」
「え?」
「3人」
「は?」
久遠は激怒した。
街道を進んだ先の集落で、ある小領主の居城が一夜にして跡形もなく焼き払われたという話を耳にしたのは、それから程なくのことである。




