9.決戦! フルアーマー後堂!
「オラぁ! 出て来いや、腰抜けがぁ!」トロルの首を勢い良く蹴り飛ばし、森の四周に響き渡るように叫ぶ。「頼みのデカブツが2体もやられて、怖気付いたか? てめえの手下と一緒だなぁ!」
「ちょっ……! 何でそんな風に言うんだ!」後を追って来たアグが、慌てて後堂の口を塞いだ。「ベリト様、私は怖気付いてなんていません! なぜかというと、全然怖くなかったから!」
背後から馬車の駆け寄る音が聞こえて身構えたが、そこから顔を出したのは久遠と古賀だった。
「お前ら、今さら何しに……」と後堂が問うと、
「だって、トロルいなくなったし」久遠は臆面もなく答える。
「ベリト公爵、私はポヤイス伯グレガー・マクレガーと申します。お互いにとって有益なお話をお持ちしております。一度ご挨拶させて頂けませんか」と古賀も声を張るが、返事はない。
足下に伸びる月影が、いつの間にか人の形をしていることに気付く。
満月に近い月を見上げると、その方角に聳える巨木の頂上、青白い月の光を背負って、1人の男が立っている。
「あれは、どうやって立ってんだ?」隣のアグに尋ねたが、「知らない」とアグは答えた。木の枝は上へ行くに従って細く柔らかくなるはずだ。その上に立つというのは物理法則に反するように思える。
「だが、ベリト様は格好いいだろう」アグは自慢げに言う。
何にせよ、その男がベリト公爵で間違いないらしい。その人影は、月輪の中でふわりと浮いた。と思うと、そのまままっしぐらに地面へ落ちる。
「おい、危ねえ! 怪我するぞ!」後堂は叫んだが、人影は大きく股を開き、地響きを立てて着地した。
背丈は後堂より一回り小さいが、血のように赤い軍服のような着衣の上からも、太く逞しい四肢を持っていることが分かる。肌の色は浅黒く、瞳が火のように赤い。
「ベリト様は、このくらいで怪我なんかしないのだ」アグが嬉しそうに言う。
が、公爵が口を開き、「アグラット・バット・マハラト」と彼女の名を呼ぶと、急に萎縮して肩を竦めた。
「貴様、なぜその男と連れ立って、我輩の前におるのか」
アグは「えっとぉ……そのぉ……」と口ごもる。
「ほら、ちゃんと、聞きてえことを聞け。な?」
後堂が背中を叩くと、それに突き動かされるように、アグは口を開いた。
「あの……ベリト様……ベリト様は、私を騙したのですか? 私は、本当は、ベリト様の右腕ではないのですか? 本当は、人間に、意地悪するだけではないのですか?」
「お前、そんな風に聞いて、『はい、騙してました』って答えるわけねえだろ」と後堂は言ったが、ベリトの答えはその予想に反した。
「誰が貴様のような者を腹心に据えるか。足止めも満足に果たせぬどころか、あまつさえその敵と連れ立って、我輩の前に顔を見せるような出来損ないを」
「ええ? 言っちゃったよ」久遠が漏らす。「古賀さん、詐欺師としてはどうなの?」
「三流以下だ。人を騙すなら、相手が騙されたと気付いた時には煙のように姿をくらましている、それが詐欺師の粋ってやつさ」と古賀が答える。
「どうして……」寄る辺を失ったようにアグの指先が宙を泳ぐ。
後堂はその指を、そっと握った。
「じゃあ、どうして、人間にいじめられていた私を、助けて下さったのですか? どうして、側に置いて下さったのですか? どうして、私を褒めて、私に優しくして下さったのですか!」
熱を帯びていく悲痛な問いが、樹々の間を虚しく響いた。
「貴様の魔法に見るべき所があったからだ。一度に大量のゴブリンを召喚出来、また、不完全な術式でも意志の力で大方の位置まで転移を成立させることが出来る。
しかし、貴様は頭が悪すぎた。作戦を理解しない。術式は覚えない。何より、戦いに正義や感傷を持ち込む。およそ戦力と呼ぶに足る資質を、貴様は持ち合わせていない。戦術的価値はせいぜい馬防柵程度だ」
「お前……!」後堂は堪らず口を挟んだ。「そういう風に言ったら可哀想だろ! 事実だったら何言ってもいいわけじゃねえんだぞ! なまじ正論なだけにお前……。配慮ってもんがあんだろ、配慮ってもんが!」
「部外者は黙っていろ」公爵は後堂を流し目に見た。「我輩はただ、戦に飢えている。魔族とは元来そうしたものだ。お前たち人間がそうであるように。この女はその道具に過ぎない」
後堂は片眉を吊り上げる。「ああそうかよ。そういうことなら、部外者はテメエだ。お前がコイツを裏切った時点で、もうコイツはお前とは何の関係もねえ。これからコイツは、エルフたちに詫び入れに行くんだよ。お前が戦に飢えてるとか、んなこと知るかっつうの。邪魔だから帰れ」
「この我輩を前にして、『これから』などというものがあると思うのか?」
「あるだろ普通に。こいつに足止め食った時には、お前も大した奴だと思ったが、何のこたあねえ。コイツがせっかく稼いだ時間で、お前はこの集落を落とせなかったんだからな。無能はテメエだろ」
「愚かな」と公爵は嘲笑う。「傭兵とゴブリン、トロルの襲撃によって、この集落は総戦力の3割を損耗した。残りのエルフなど、我輩1人で十分だ。もとより、そのための作戦だ」
「愚かなのはてめぇだよ」後堂は嘲り返す。「てめぇごとき、この俺1人で十分だ」
「そうだ! 言ってやれ!」古賀と久遠が囃し立てる。が、2人はいつの間にか馬車の陰に身を隠していた。
「どの道、邪魔だ」と声のした方に、公爵の姿はなかった。ただ地面が深く抉れた跡が残っているだけだ。
後堂が右肘を受けに回したのは、ほとんど本能的な反射に過ぎなかった。が、それと同時に右膝を出したのは、積み重ねた稽古と実戦の賜物である。
鋼鉄の手甲が弾けて頬やこめかみを傷付けた。後堂の膝は公爵の脇腹に食い込んだが、トロルと素手で戦った時に感じたような、手応えのなさが、後堂の頬を引きつらせた。
軽口を叩く間もなく公爵の脚が視界の端に映る。身を屈めて上段の蹴りを躱すと同時に軸足を払いにかかるが、後堂の足払いは虚しく宙を蹴る。
鳩尾に衝撃があった。唾液か胃液か、口から何かを吐き出したという感覚だけがあった次の瞬間には、地面に受け身をとっていた。落ちた段平が乾いた音を立てた。しかし、後堂には自分が、それをいつまで握っていたのか分からない。刀身が真ん中から折れている。素早く身体を丸めて立ち上がったが、その顔をしたたか蹴り上げられて宙を浮く。
(マジかよ、クッソ強え……)と思うか、声に出したか分からないが、とにかく後堂は身体を捻った。当てずっぽうで構わない。まずは狙いを逸らし、運良く相手の何処かに自分の何かが当たれば御の字だ。しかし、後堂の四肢は虚しく空を切る。
振り回した足で後堂が膝立ちに着地したのも偶然だった。口の中に溜まった血を吐き出すと、砕けた歯が混じっていた。
「ここまで鍛え上げられた人間は初めて見る。褒めてやろう」と公爵は言った。
「バケモンかよマジで。トロルとか、ゴブリンとか、要らねえだろ……」後堂は肩で息をしながら吐き捨てた。鋼鉄の胴鎧が、拳の形に凹んでいる。
「我輩一人がどれだけ強かろうとも、村一つ滅ぼすには数が要る。慢心せぬ事が強さの秘訣だ」
「クソ……。気が合うな。けど、自分のこと『我輩』って言うの、ダセェぞ正直」
目の前から公爵が消えた。後堂は半歩右へ身体の軸をずらす。金属同士が激しくぶつかるような音と衝撃、胴鎧が抉れて脇腹の肉が刮げられる感覚がある。左の肩が脱臼した。
「後堂!」「後堂さん!」古賀と久遠の声がする。
「仕留め損なった……」と口にしたのは、関節の外れた腕をだらりと垂らした後堂の方だった。
公爵の太腿に、折れた段平の刃が深く突き立っている。
喋っている間に後堂が折れた段平を拾ったのを、公爵が気付かないこと、相手が真っ直ぐに向かって来ること、その軌道上に忍ばせた刃が、公爵の進む勢いで上手くどこかに刺さること、後堂はそれに賭けたのだ。
結果はジャックポットとまではいかなかった。が、いくらかマシだ。まだ戦える。
「射掛けろ!」
鋭く叫ぶ声が、樹々の間を響き渡る。次の瞬間、その残響はけたたましい弦音と、矢叫びとにかき消された。
枝葉を突き抜け弧を描く無数の矢が、公爵の頭上を、びょうびょうと風を切って唸りながら、嵐のように降り注ぐ。
「ベリト様!」アグが声を上げる。呆れた女だ。騙されていたと知ってなお、公爵に情が残っているのか。
射掛けられた矢の夥しさは、公爵の姿を矢柄の陰に覆い隠す程だったが、後堂たちは、その飛び交う矢の間を縫って迸る、青い閃光を見た。
後堂は食いしばった歯の間から唸り声を漏らしながら、抜けた左腕を地面に押しつけて肩に体重を掛けた。鈍い音がして関節がはまる。
矢が射掛けられ、それが届くまで、いや、それが自身に致命傷を負わせるまでの短い間で、公爵は転移魔法を使ったのだ。
仕組みは全く分からないが、短い時間で行われたその魔法では、遠くまで移動することは難しいかもしれない。このすぐ近くに移動したとすれば、そしてまだ戦意を失っていないとすれば──後堂は仮定に仮定を重ねる。足には段平の刃が刺さり、突き立った矢も一つや二つではないだろう。手負いの公爵は次に何をするか。
後堂はアグの腕を掴んで引いた。その陰に、身を屈めた公爵が太腿から引き抜いた刃を握っている。アグを人質に取り、怯んだ後堂を狙うつもりだったのだ。
公爵の背や肩、腕には何本もの矢が篦深く突き刺さっていた。
後堂は右手で、刃を握る侯爵の手首を掴んだ。
「とっ捕まえたぜ、クソ野郎」左拳を公爵のこめかみに叩き付ける。一度抜けた肩が電撃を浴びせられたように痛む。
公爵は刃を取り落とした。が、次の瞬間、後堂の頬に重く固い拳が打ち付けられた。まだ、これだけの力が、と後堂は目を見開いた。
公爵は地面に血反吐を吐く。エルフたちの矢が内臓に達しているのだ。
後堂は再び拳を固く握り、公爵の顎を、腹を、鼻つらを殴りつけた。公爵も後堂の目や脇腹に拳を叩きつける。2人は獣のように低く唸りながら、拳を打ち合った。
やがて公爵が膝をつくと、後堂はその後頭部をあらん限りの力で殴りつけた。公爵の頭が地面に叩きつけられ、低く弾む。
「後堂! 黒幕を吐かせないと!」不意に古賀の声がして、後堂はほとんど忘れかけていた、この戦いの趣旨を思い出した。
後堂は屈んで、公爵の髪を掴んだ。「おい、お前どうせ、もうすぐ死ぬだろう。雇い主を吐け」
公爵は口に溜まった血液のせいか、ごぼごぼと何か分からない音を出した。
「あ? 聞こえねんだよ。はっきり喋れ」
公爵はまた、血反吐を吐いた。
「ベリト様、ああ……ベリト様!」アグが駆け寄って地べたに座り、公爵の頭を膝に乗せた。
「アグ、そいつは、お前を騙してたんだぞ」
「でも、ベリト様は私を、助けてくれた。私を側に置いて、優しくしてくれた。本当の気持ちでしたことじゃなかったとしても、ベリト様が私にしてくれたことは、嘘じゃないから」
ベリト公爵は、とても小さな、かすれた声で、何かを呟いた。そしてそのまま、息絶えた。
「ベリト様は今、私に、『元気でいろ』って言ったよな。『風邪をひくな』って、言ったよな」アグのまぶたに溜まった涙が、月明かりを照り返して小さく揺れた。
「ああ、言ったよ。『元気でいろ、風邪をひくな』って、確かにこいつは、お前にそう言ったよ」と、後堂は嘘をついた。
アグの大きな瞳がにわかに揺れて、まぶたに溜まった涙の滴がみるみる大きくなったと思うと、それはポロリと溢れて落ちた。アグはほとんど子どものように、大きな声で泣いた。
後堂は、抉られた脇腹を抱えていた掌を太腿に拭って、公爵のまぶたを閉ざした。
「クソったれ。悪党が一丁前に、上等な死に方してんじゃねえよ」
後堂はその時初めて、今日が、穏やかな風の吹く、静かな月夜だったことを知った。




